沖田と大蛇

神奈川県海老名市


中新田の東北に沖田(おきだ)という地域がある。海老名耕地を海に見立てて沖の方、と皆思うが、根下からは沖というには近く、有鹿神社のほうからは台地を背にしているのでこれまた沖とは言い難い。

今の消防署の裏あたりに昔、源六沼という気味悪い古沼があり、大蛇がいた。土地ではこの〝大き蛇(おっきじゃ)〟から沖田になったのだといわれる。検地の時、役人が土地訛りを沖田と間違えて書いてしまったのだ、と。

沖田の隣に中藪という、上郷から竹藪が流れてきて根付いた土地があったが、しばしば大蛇が出て人を襲った。どこの年寄りもその話をし、何れの家庭でも語り継がれていたはずだ。沖田は離れた山王原の人たちが耕作していたが、真菰の間から現れた大蛇に横銜えにされた人などおり、見て逃げ帰った人は二、三日口がきけなかったという。

同じ頃、社家の三島神社の神木の洞の大蛇が天火で焼かれた。貫抜川に掛けた網を大蛇が破ったという話もあるが、社家と沖田の大蛇は雌雄で、貫抜川を泳いで行き来していたという。それで、社家の大蛇が死んだので、沖田の大蛇はますます凶暴になったそうな。

それで、高僧が法力でもって沖田の大蛇を本堂の床下に封じ込んだという。それより大蛇はそこから出なかったが、時折枕のような大きな頭をのぞかせたので、恐れて近寄る者はなかった。有力な檀家には大蛇の餌の鶏の割り当てがあったそうだ。また、夏に本堂裏の小溝に流れる白い水は大蛇の糞だったという。(小島直司)

『海老名むかしばなし 第9集』
(海老名市秘書広報課)より要約

追記

大谷・国分・中新田の境あたり。沖田とは今は見ないが、上にもある通り、今の消防署裏の源六沼なるかつての沼周辺ということで、今は勝瀬分となるだろうか。文中沖田の語源が大蛇と語られるが、少し離れて「沖の坂」の名もあるので、やはり沖が元ではないかとも思う。

社家の三島神社の御神木に住み着いた蛇が、御神木への落雷で焼け死んだ話は、またそちらでよく語られるが(「社家の三島社の神木と大蛇」)、沖田の大蛇と雌雄で行き来していたと語られているのは面白い。

座間と相模原にも大蛇が通った話があるが(「弁財天社」)、近い土地でのことでもあり、語るところの内容は近しい意味を持っているのかもしれない(もっとも沖田と社家の大蛇は仇なすばかりだが)。

ところで、実はこの沖田の大蛇の話には後日談がある。それがなんと、寺(不明)の下に封じられたとある大蛇が、有鹿神社の裏に移されて主と化していたというのだ。有鹿神社には第三の蛇がいたのである(「大蛇後日談」)。

また、同地域のこととして、大谷にはまたの大蛇が出たという話もある(「天神森の若い衆」)。若い衆、と呼ばれていたというところが興味深い。大蛇を〝おじ〟と呼んだという話に通じるところがあるのじゃないか。