沖田と大蛇

原文:神奈川県海老名市


地名の由来を調べるのは興味のあることだが、研究が足りなかったり地形に対する認識を誤ったりすると見当違いの誤説を生むことがある。

大谷という地名も永禄の頃の文書には、大屋と記されたものがあり、江戸時代のものにも大矢村と書いたものがある。

古い文書だけに頼ると、大谷が大屋なのか大矢なのか分からなくなる。しかし、村の中央が大きな谷戸になっている事実から考えれば、大谷が正しいことは明らかで鎌倉時代の豪族渋谷重国の孫、四郎重茂が大谷四郎と名乗ったのはこの谷戸の上に館を構えたからである。

中新田の東北、国分と大谷の境に沖田(おきだ)と呼ぶ地域があるが、海老名耕地を海に見立てて沖の方にあるから沖田と呼ぶものと誰もが思い込んでいるようである。しかし、根下からは五〜六〇〇メートルで決して沖ではない。

上郷の有鹿神社付近からでは、その二倍以上もあるので、むしろ西からの方が沖と呼ぶに相応しいが、これは台地を背にしているので沖という表現には無理がある。

現在の消防署の裏の辺りに、江戸時代まで源六沼という気味悪い古沼があり、大蛇がいたというので〝大き蛇(おおきじゃ)〟と呼んだそうだが、土地言葉では大きいをおっきいと発音するので大き蛇(おっきじゃ)が沖田になったのだと言われている。

検地の折、役人が土地訛りをそのまま沖田と書いてしまったのだというから、沖田の語源は大き蛇だったのだろう。ここは元大谷村に属し、江戸末期まで葦や真菰が生い茂り、近寄っただけでも肌が粟田つような場所だったので、大蛇がいたのは事実だった。

上郷馬船の堤防は、相模川の洪水で度々決壊したが、その度に濁流が一気にここへ押し寄せて総嘗めにしたので、手の付けようが無かったが、幕府はこうした土地の開拓をも奨励した。しかし、条件が悪くて思うような収穫が無かったり、天候などに著しく左右される土地は流れ場と呼んで何れの領主も課税しないのが普通だったが、大谷村の歴代の領主は前例と称してこうした土地にもすぐに課税したので、進んで手をつけようとする者はいなかった。

板ばさみになって困り果てた名主は、中新田と交渉し酒五升を付けて引き取ってもらった。河川敷や荒地などは、隣接する村と村との分取り争いになるものだが沖田は珍しい例である。

中新田の領主は、沖田を流れ場として開拓するように呼び掛けたが、本村や河原宿の人達はすでに柳原の堤防外を流れ場として耕作して収益をあげていたので、沖田の沼地を開こうとする者はなく、結局山王原の人達で昭和の耕地整理後勝瀬に移譲するまでは遠く山王原から出向いて耕作していた。

沖田の隣に中藪と呼ぶ地域があるが、上郷の堤防強化のための竹藪が洪水のため根付きのままで押し流されて竹藪になったもので、それが地名となったが、この沖田、中藪の辺りにはしばしば大蛇が出て人を襲った。大蛇が人をのんだ話は、子供の頃どこの年寄りもよく聞かせてくれたが、何れの家庭でも語り継がれているはずである。

山王原の人が沖田で代かきをしていたら、真菰の間から突然現われた大蛇が隣りで田植えをしていた人を横銜えにして鎌首を高く立てたので、鍬を放り出して山王原まで夢中で逃げ帰ったが、驚きのあまり二、三日口がきけなかったそうである。

同じ頃、社家の三島神社の神木の洞に住んでいた大蛇が人を襲ったが、この大蛇は天火で焼かれてしまった。蜆の殻程もある大きい鱗が神木の根本に永く残っていたそうである。この大蛇については、骨が四斗樽に三杯分もあったなどと伝えられている。

天保の頃、中新田一つ橋地区の人達が何人かで、増水した貫抜川に川幅いっぱいの待ち網を張り、篝り火を焚いて下り鰻をとっていたら、流れに逆らって泳いできた大蛇が網を破り、水しぶきをあげて目の前を通り過ぎた。みんな手のものまで放り出して逃げ帰ったが、思い出しても身震いがすると言って、以後待ち網を張る者はなくなった。

地元の老人は、社家と沖田の大蛇は雌雄の一対で、出水した折や風雨の激しい晩などには、貫抜き川を泳いで行き来していたのだろうと言っていた。

何れが雌か雄かは不明だが、社家の大蛇が死んだためもあったのだろう、沖田の大蛇はますます凶暴になり、村落にまで侵入して人畜を襲ったので、修業を積んだ高僧が修法によって法力で、寺の本堂の床下に封じ込んだ。そのため大蛇は、ここから出ることは無かったが、時折、枕のような大きな頭をのぞかせて、襷のように長いふた又の舌をちょろちょろ出すので怖れて近づく者は無かった。大蛇の餌にするため、有力な檀家には毎年何羽かの鶏の割り当てがあった。

夏になると、本堂裏の小溝に石灰を溶かしたような白い水が流れ出していたが、これは大蛇の糞だった。(小島直司)

『海老名むかしばなし 第9集』
(海老名市秘書広報課)より

追記