彦六ダブの話

神奈川県海老名市


昔、鶴松の彦六という若者が、正月の門松を切りに鳩川沿いに出かけた。ふと振り返るとさっきはなかったはずの見目好い松があり、彦六はナタをふるったが、刃は跳ね返され、ナタはダブ(淵)へ落ちてしまった。

彦六がナタを拾いに冷たい水中に潜ったが、川底にはきれいな着物を着た美女がおり、ナタなら女中が拾ったので、と水底の御殿に案内された。彦六はそこで歓待され、三日三晩やっかいになった。殊に不老長寿の酒が珍しかったという。

それでも彦六が家のことを心配しだすと、美女は心中を察し、世間の様子が知れ、すずめと話ができる〝すずめの空音〟という宝玉の入った手文箱を土産にくれ、送り帰してくれた。ただ、このことは絶対秘密にするようにと言い渡された。

彦六が家に帰ると、自分の三回忌が行われているところだった。皆は驚いたが、彦六が生きているとわかると喜んだ。ところが、落ち着いてくると彦六の持つ手文箱が気になり、しつこく聞いた。

それで彦六は箱を開けてしまったが、とたんに黒雲が覆い雷鳴轟き、彦六も箱も消えてしまったそうな。その夜、村人たちはそろって彦六が天女に手をひかれ空高く飛び去る夢を見たという。

『海老名むかしばなし 第1集』
(海老名市秘書広報課)より要約

追記

ダブはもうないが、かつてここを流れていた鳩川が東に流れを変えたのだいう。となるとダブの位置は下今泉の宗珪寺(近年移ってきた)のあたりだろうか。詳細位置は不明だが、このようなヨキ淵の話がある。

興味深いのはそのダブのすぐ近くに住む方の話には、上のような伝説的な要素が全くないことだ(「私の泳いだ彦六ダブ」)。伝説の形成される理由、というのが垣間見える事例かもしれない。

一方、ヨキ淵の話としても気になる点がある。この淵に住む姫は、概ね機織姫であるものだ(「機織伝説」)。それが、この彦六ダブの姫にはまったくその面影がない。

鳩川はまた周辺養蚕信仰と関係する飛ぶ幡の話を持つ川でもあり(「ハト川はハタ川」)、その淵の姫ならば機織姫であってしかるべき様に思う。

さらにいうならば、鳩川はそれが相模川に流れ込む地に鎮座される式内の有鹿神社の司るところの川である。有鹿の神は鳩川の水源へ神幸される(「勝坂の有鹿谷の霊石」)。蛇体であるという有鹿の女神こそが、この淵の姫にふさわしいのではないか。

無論、海老名市内でも養蚕守護といえば蛇なのだ(「弁天様のお使い」)。どうもこのあたりつながってしかるべき筋が失われている話のように思える。これは、なぜ有鹿の神は養蚕を舞台にした活躍がなかったのか、という話でもある。