彦六ダブの話

原文:神奈川県海老名市


「彦六淵」という地名は、今ではもう消失してしまったが、昭和初期の公図などには記入されている。

現在の下今泉一一一三番地付近と思われるが、昔、このあたりを流れていた鳩川も流れを変えて、今ではその東側を流れている。

この「彦六淵」、別名「彦六ダブ」にまつわる話を池田武治(国分)さんは、次のように語る。

「昔、下今泉の鶴松(地名、現存)に彦六という働き者で親孝行の若者が住んでいました。正月も迫った年の暮れのある日、彦六は正月用の門松を切りに、鳩川沿いの松林へ出かけました。

その日は買ったばかりの新品のナタを持って行き、手ごろで形のいい松を探して歩きましたが、なかなか適当なのが見つかりません。ふとふりかえると、さっき見たはずのあたりにすばらしく形のいい松が立っているではありませんか。『おかしいなあ、さっき見たのに』と思いながらもその松を切ろうとナタをふるいました。

ところが、カチーンと金物をたたくような音がして刃が立ちません。もう一度強くふるうと新品のナタははねかえされて川の中へ飛んでいってしまいました。手はしびれるし、もう彦六はたいへんなめにあいました。

川に落ちたナタが惜しくて彦六は冷たい水中にとびこみました。底にあるナタにあと少しというところで、ナタはどうしたことか深みへ深みへと沈んでしまいます。とうとういちばん深いところまでもぐって探していると、川の底にとてもきれいな女の人が立っているではありませんか。暗い水底がそこだけ明るくなって、もえぎ色の絹の羽二重を着て、髪には七色に光るくしをさし、赤い玉のかんざしをつけていました。

美女は彦六の顔を見てにっこり笑い、『どうしてここへいらっしゃったの?』とたずねました。彦六がナタのことを話すと『ああ、それならうちの女中がさっきひろってきました。うちへいらっしゃい』と彦六を自分の家へ案内しました。

水の中なのに地上にいるのと同じように歩けるし、話すこともできる。彦六は信じられない心持ちで美女の家へと水底を歩いて行きました。

彦六は、これが夢なのか現実なのかわからない気持ちで美女の家へたどりつきました。

その家を見るなり、アッとおどろきました。今まで見たこともないような立派な御殿で、柱は全部うるし塗り、天井はすばらしい格天井で彦六はもうびっくり仰天。

美女が手をたたくと女中が色々な山海の珍味をあしらったごちそうを運んできました。ごちそうの中でも特にめずらしかったのは、「不老長寿の酒」でした。

あまりに居心地がいいので、三日三晩そこでやっかいになってしまいましたが、そろそろ家のことが心配になってきました。年老いた父母のことを考えるともう帰りたくて仕方がなくなりました。『家では心配しているだろうなあ。今までだまって家を空けたことはなかったんだから』と、とても気が重いのです。

美女はすぐ彼の心中を察したと見えて『あなたはお家が恋しくなったのでしょう。無理におひきとめはしません。記念に私が大切にしている手文箱をあなたにあげます。この箱には〝すずめの空音〟という宝の玉が入っています。私に会いたくなったら、この玉を振ってください。世間の様子が知りたければこの玉が話してくれます。すずめのことが知りたければこの玉を通してすずめと話すことができます。でもこのことは絶対秘密にしておいてくださいね』と、きれいなその箱を彦六に渡しました。

さて、彦六の家では、彦六がダブへ潜っていったその日、なかなか帰って来ないので、ダブへ落ちて死んだのではとか、中には年ごろなのに嫁がないのでそれを苦に身投げしたのではなどと考える人もいて、もう彦六は死んでしまったものと思い、悲しみに沈んでいました。

それから二、三日たっても帰らないのでふだんからだまって家を空ける人間ではない、まずまちがいなく死んだのだということになって葬式をしました。それから三年の歳月がたちました。

彦六は美女と別れて自分の家へ帰って来ました。中の様子をうかがうと、カーンという鐘の音とお坊さんのお経の声が聞こえます。中では彦六の三回忌の真っ最中。

彦六が家の中へ入って行くと家の衆はおどろきのあまり声も出ないほど。坊さんは亡霊が出たと思って、さらに強くお経をうなり出す始末でしたが、彼が両脚を地面につけて立っていることがわかると法事は一変して歓迎の宴になり、みんなが彼の生還を祝いました。

そうして、そろそろ家の者も落ち着きをとりもどしたころ、彦六が持ってきた手文箱が気になり始めました。

『中を空けて見せろ』と迫りますが、彦六は美女の言葉を思い出して断わっていました。しかし、家の者があまりにしつこく言うので、とうとう箱を空けてしまいました。

すると、空が急に黒い雲におおわれ、ものすごく大きな雷が鳴り出し、彦六も箱もいっぺんに消えてなくなりました。

その夜、村人は全員同じ夢を見ました。それは、天女のような美女に彦六が手を引かれて空高く雲の彼方へ飛び去って行く夢でした。」

『海老名むかしばなし 第1集』
(海老名市秘書広報課)より

追記