沼間の七諏訪神社

神奈川県逗子市


聖武天皇の頃、沼間が沼地で海に続いており、大蛇が棲んでいて、海に出て船を沈めたり、火や毒を吹いて人々を苦しめていた。土地を治めていた長尾左京大夫善応は、度々朝廷に奏上していたが、行基菩薩の巡行を知り、大蛇の教化を請うた。

行基は山にこもると十一面観音菩薩の尊像を彫り、小舟に乗って大蛇のところへ行った。すると大蛇が頭を垂れ近寄り、これまでの悪行を悔い、心を入れかえ世のために尽くす、と誓った。それで大蛇の害がなくなり、人々は大蛇を諏訪明神と祀った。大蛇は七頭一身であったので、七か所に諏訪明神を建て、七諏訪様と呼んだ。

『逗子市史 別編1 民俗編』(逗子市)より要約

追記

1974年の『改訂 逗子町誌』の頃に、すでに七つの諏訪祠すべてを追うのは難しくなっていたようだ(多くは個人の山中にある)。本社とされていた一祠は今もかろうじてあって行くことができる(東逗子駅から北、神武寺隧道の手前)。

さて、この大蛇教化の伝説は、沼間の法勝寺というお寺の古縁起(文安三年とある縁起の写し『改訂 逗子町誌』に掲載)にある。上の話も概ねその前段の筋を踏襲したものだ。

そして、上の十一面観音が安置される善応寺が建てられ、荒廃し、再興される後段がある(「十一面観音菩薩をめぐる伝説」)。その善応寺の後裔が法勝寺となる。

ここで押さえておきたいのは、法勝寺の古縁起そのものには「大蛇栖之時々出西海邊」「大蛇祀諏訪大明神」とあるばかりで、「七頭」「七諏訪」とは一切記されていない点だ。おそらく、もとは一身一頭の毒蛇が教化され、一社の諏訪社と祀られたという話なのだろう。

これが「七」となったのはどういった経緯なのかわからないが、逗子では池子のほうにも大蛇退治の話があり、そちらも七頭一身の大蛇という(「六社大明神」)。前後に影響があったものか、もととなる伝説があったものか。

無論のこと、鎌倉を挟んだ江の島のほうに「江島縁起・五頭竜と弁才天」の五頭一身の毒竜蛇の話がある影響もあるだろう(そちらが五社に何かを祀るという話はないが)。

ところで、沼間のほうにも大蛇を「討った」という話があったようでもある『改訂 逗子町誌』に「一般口碑には神武寺山王社のお力をも借りて射止めたりと傳ふ、神武寺山王社の神事よりすれば或は然るか」とある(「神武寺山王社」参照)。川崎市丸子の山王さんには図星に鱗の模様を入れた的を射るおびしゃがあったが、そのような神事があったようだ。