江島縁起・五頭竜と弁才天

神奈川県藤沢市


大日本国東海道相模の国江の島は、弁才天の霊体である。房・蔵・模三国の境、鎌倉と海月郡の間に四十里の湖水があり、深沢といった。ここに猛悪五頭一身の竜があり、神武天皇から七百年、風伯・鬼魅・山神等を伴い、山を崩し洪水を起こし病を蔓延らせ、国土に災害を為した。景行天皇の御宇には、悪竜は東国に火雨を降らせ、人は石窟に住んだ。安康天皇の御宇には、竜鬼は円の大臣に託(つ)き、また武烈天皇の御宇には金村の大臣に託き、乱逆を成さしめた。

この時、五頭竜は初めて湖水の南の津村の水門(みなと)に現れ、人の子を噉(く)った。そこを初噉(はつくい)沢という。谷の前に女の長者がいて、十六人の子を生んだが、皆毒竜に噉われてしまった。長者が嘆き移った先を長者塚という。悪竜はなおも村里の子を噉ったので、人は皆他所に移り越した。そこを子死越という。竜が人を噉うことは八国に及び、子を呑まれた親も、親を呑まれた子も哭き悲しんだ。遂には八国の貴賎衆人相議して、子を贄に出すこととなり、啼哭の声は絶えることがなかった。

欽明天皇十三年壬申四月十二日戌の剋から二十三日辰の剋に至るまで、南の海の湖水の水門を雲霞が暗く蔽い、大地が振動して、童子を左右に侍らせた天女が顕現した。諸天・諸神が石を落とし海底より沙石を挙げ、雷火が白浪に交わる中、二十三日辰の剋、雲霞が散り、蒼波の間に新たな島が顕出した。十二の鵜が降りたので鵜来(うき)島という。島に天女が降り、窟を輝かせた。これが無熱池の竜王第三の娘、弁才天女の応作である。

ここに五頭竜は、この天女に通じようと浪を凌いで島に渡り、天女の前に至って想いを述べた。しかし天女は、有情を愍むことが本誓であり、慚愧なく生命を害す汝とは相容れない、と竜を斥けた。すると竜は、教えに従い凶害を止め、殺生を禁断することを誓い、再び宿念を述べた。天女はこれを受け入れ、竜は南に向かう山となった。これが竜の口山であり、竜は子死方明神と祀られた。弁才天はこうして方便の力で悪竜を伏し、衆生を救護するため島を作って、江の島明神と号したのである。

『江島縁起』(江島神社真名本)より要約

追記

「江島縁起」は、本来の題は不明で通称。漢文による真名本と仮名まじりの絵巻物があるが、上は江島神社真名本の翻刻・訓読文をもとに引いた。要約ではあるが、くどい重複を省いた程度で、大筋は追っている。なお、翻刻文の時点で、旧字体などは当用字体に改められている(今野達「真名本『江島縁起』考」:藤沢市総合市民図書館『わが住む里 第四十一号』)。

ともあれ、序盤に上の話があり(五頭竜の話は以上で終わり)、以下、役の優婆塞、泰澄大師、道智法師、弘法大師、慈覚大師、安然和尚という面々が来島し、なんらかの奇瑞を得た話が続き、最後にそれぞれの伝承が延暦寺の皇慶によってまとめられたという話で終わる。

序盤の五頭竜の話以降で目を引くところといえば、相模の余綾の人という道智法師なる僧が、藤の皮の糸を針に付け天女の素性を探ろうとしたという話が異色だろうか(「江島縁起・道智法師」)。

また、最後の安然和尚とは星谷の人で、この部分は後から書き加えられたものと思われるが、その所記として島全体の様子が(無論弁才天竜神一族の住処としてのだが)語られている(「江島縁起・安然秘所記」)。このあたりは見ておきたい。

さて、五頭竜の話だが、大筋荒ぶる五頭竜を弁才天が天降り鎮めたのが江の島だとはよく語られ、話もそれだけといえばそれだけなのだが、細部の省略のない真名本の記述には不思議な部分がままある。

その各々の検討はまた別途行うことになるが、竜が火の雨を降らせていること、竜が人の大臣に憑いて中央に影響を及ばしていること、女の長者の十六人の子のことなどは、特に気になるところだろうか。もっともそもそもなぜ「五頭」竜なのかというところからしてよくわからない話なのだが。

それにしても近い頃に書かれたのであろう、またの相模の大竜蛇の縁起である箱根の九頭龍の話(「箱根山縁起(部分)」)と比べると、いろいろ対照的なところがあるのが江島の縁起だ、という気もする。