沼間の七諏訪神社

原文:神奈川県逗子市


大むかし、聖武天皇の時代と伝えているが、沼間の地が海に続いていたころ、この地におそろしい大蛇がいて、ときどき海の方に出て行って船を沈めたり、火や毒を吹きかけて人々を苦しめていた。

当時この土地を治めていた長尾左京大夫善応という人は、非常に心を痛めて、何とかしてこの大蛇を退治し、人々をこの苦しみから救い出そうと、たびたび朝廷にもお願いをしていた。折よくこのころ有名な僧で後に菩薩とあがめられた行基という高僧が、諸国修業の途中この地に来られたので、善応は事情を話して何とか仏の功徳によって、人々をこの苦しみから救うために、大蛇を教化してほしいと頼んだ。

行基様はそれをきくと山にこもり、十一面観音菩薩の彫刻にとりかかった。一刀一刀心願をこめてのみをふるって、何日か後に観音様のお姿が出来上がった。行基様はそれを小舟にのせて沖へ出た。一心不乱に観音経を唱え、人々を大蛇の苦しみから救い給えと祈った。やがて波の間を大蛇が首をうなだれて行基様の舟に近づいて来た。そして「今まで舟を襲い人を苦しめたのは、本当に悪い事をしたと思う。これからは心を入れかえて観音様の教えのとおり世の中のために尽くす」と誓った。それからは、以前のように海に出ても大蛇の害を受けることがなくなった。人々は大喜びすると共に、心を入れかえた大蛇の魂をまつる諏訪明神を建てることにした。大蛇には頭が七つあったので七か所に社をたて、七諏訪様と呼んだ。祭りは当初八月一日に全部一緒にすることになっていて、沼間の人々がみんな集まって祭礼をしていたという。

参考:古縁起之寫・前段(『改訂 逗子町誌』)

天童山正覺寺觀音菩薩縁起

往昔此所大沼而岸高枯木交枝溪深、碧水浸岸。大蛇栖之時々出西海邊。覆往來船。吐火吐毒人民成害焉。
于時人王四十五代聖武天皇御宇天平年中之頃當國守護長尾左京大夫善應奏聞國家之煩、人民歎切。
然處。釋行基法師。赴此地。大夫善應。請行基法師。蹲踞恭敬願大徳垂哀愍。乞救人民之禍患而巳。
基師手自彫刻十一面觀音菩薩乘小船。棹沼讀誦典。
大蛇忽脱三熱苦患還成衛護。基法師轉沼稱小池。一説云小沼令大蛇栖。益加教化耳。
善應集國中人夫。枯木伐而埋沼通川流名沼間里。成於地形。川上創建伽藍依字號善應寺。奉崇彼觀自在尊。大蛇祀諏訪大明神。而於寺西北。宮立。從是人民安寧。無憂悩諸人貴敬不斜。

(後段略・悪瘡の娘が救われる話から天童山正覺寺と改められるまで)

文安三年六月 沼間村正覺寺住持 蓮 進

『逗子市史 別編1 民俗編』(逗子市)より

追記