幡の坂

神奈川県愛甲郡愛川町


八菅山に幡の坂という坂がある。昔、中将姫が蓮の糸で織ったという幡が天空よりこの坂の上に舞い降りた。不吉を感じた修験者たちが総出で祈ると、幡は一旦舞い上がり、宮村あたりで三七日の間舞翻り、やがて西の空に飛び去った。それで、当地には幡の坂・幡・幡道などの地名が残る。

八菅山から飛んだ幡は、秦野の方に向かい、善波太郎という弓の名人に射落とされたという。秦野市落幡はそれで幡が落ちたところであるそうな。また、幡は日向薬師に納められたと伝えられている。

文化年間の『八菅山略縁起』には、「幡の坂」を「霊亀二丙辰年八丈八手の幢幡都卒天より降臨て三七日翻りたり時に蓬髪の山神現れまし告ていはく(有神託は一偈秘密故不記之)依て空中に飛去此の地を今に幡の坂といへり」(原文のまま)とある。

足立原晴男「八菅山内の地名伝説」

『あいかわの地名 ─中津地区─』
愛川町文化財調査会(愛川町教育委員会)より要約

追記

現在、八菅山の幡の伝説はこのように中将姫の蓮糸の幡のこととして語られる。しかし、後段にあるように、もともとの縁起に見る飛ぶ幡の話は、中将姫の話ではない。日向薬師と落幡の方で語られる伝説(「中将姫伝説と地名由来」など)を取り入れていったのだろう。

ただ、平塚市も北の岡崎の方はこの善波太郎を語る範囲に入るのだが、そちらには八菅の修験が登場するが中将姫とはいわない旗の話がある(「あやしい旗」)。舞台は主に伊勢原市内なのだが、そちらでも中将姫とは必ずしも出てこない。

幡が納められたという日向薬師の宝物のリストを見ても、旗と中将姫の曼陀羅は別にあり、そもそもそれらは別の話だったと思って良いかもしれない。八菅山でも、最も古い資料に見るものも「八丈八手の玉幡」が兜率天から降るのではある(「八菅山勧進帳・冒頭部分」)。

ところで余談だが、原文を書かれた足立原氏というのは八菅修験の末裔の方だろう。八菅山の修験者は、役行者に従った「鬼の子孫」を標榜し、この姓を名乗った。近世の縁起からは、八菅山は役行者によって開かれた、という話になる。