八菅山勧進帳・冒頭部分

神奈川県愛甲郡愛川町


当山は恭しくは行基菩薩草創の地天人聖衆の遊化場なり宜なる哉昔八丈八手の玉幡、都率天よりこの山に降臨せし時八本の菅根忽然として之れを受く、故に八菅山と称す。

夫以当山者恭行基菩薩艸創之地天人聖衆之遊化場也宣哉昔八丈八手之玉幡自都率天降臨此山時八本之菅根忽然出受之故称八菅山……

応永二十六年正月の勧進帳(足利持氏花押の勧進帳)

『八十八歳の郷土誌』中村昌治
(中央公論事業出版)より

追記

参照するための資料として、八菅山別当・光勝寺の勧進帳の冒頭を載せておく。以下は下って海老名氏が大日如来を安置したなどの話となり、玉幡に関する部分は以上。これが現存する八菅山のもっとも古い史料となる(写しではあるが)。全文は上記の書籍や『修験集落八菅山』慶応義塾大学 宮家準研究室(愛川町教育委員会)にある。

下った近世の縁起では、霊亀二年に八丈八手の幢幡が兜率天より降臨し、三七日翻ってまた飛び去った土地を「幡之坂」というなどとなり、これが中将姫の蓮糸曼陀羅の話と結びつきなどする(「幡の坂」)。

また、近世の縁起からは、日本武尊が山容を龍に見立てて蛇形山と呼んだという伝を載せるのだが(「八菅山」)、この勧進帳にその記述が全くないことはよく覚えておく必要がある。