幡の坂

原文:神奈川県愛甲郡愛川町


修験集落の旧八菅山村小字北谷続に入り、急勾配で曲りの多い坂となる。この坂を幡の坂(はたのさか)という。

むかし、中将姫が蓮の糸で織ったという幡が一りゅう、天空よりこの坂の上に舞い降りかかるという霊験があった。そのとき修験者たちは不吉を感じ一山総出で祈りをささげた。すると幡は一度は舞い上ったものの再び宮村のあたりに落ちかかり、そこで三七(さんしち)日の間舞い翻えっていたが、やがて西の方に飛び去っていったという。

それで、後にこの坂を「幡の坂」と呼ぶようになると共に、宮村にも「幡」「幡道」なる地名を残した。

八菅山から飛び去っていった幡は、そのあと秦野の方に向い、やがては善波太郎という弓の名人に射落されたという。現在の秦野市落幡はその幡の落ちたところだといい、また、幡は日向薬師(伊勢原市)に納められたと伝えられている。

文化年間(一八〇四〜一八一八)に草された『八菅山略縁起』には、「幡の坂」のことがつぎのように記されている。

「霊亀二丙辰年八丈八手の幢幡都卒天より降臨て三七日翻りたり時に蓬髪の山神現れまし告ていはく(有神託は一偈秘密故不記之)依て空中に飛去此の地を今に幡の坂といへり」(原文のまま)

中将姫は、伝説上の人物で、横佩大臣藤原豊成の女。大和当麻寺に入って如法と号し、蓮茎の糸で観音無量寿経の説相をあらわした蔓荼羅を織る。一説に継母のため大和の雲雀山に捨てられ、無情を観じて当麻山に籠ったともいう。(広辞苑)

足立原晴男「八菅山内の地名伝説」

『あいかわの地名 ─中津地区─』
愛川町文化財調査会(愛川町教育委員会)より

追記