洲の御前

神奈川県三浦市


城ヶ島の東端の安房崎は資盈第四の家臣を祀るが、「洲のあるところ宜し」といったのでそう祀られた。勇猛大剛な神で洲荒御前といったが、仁和元年七月八月に砂の雨を降らせたので、荒の字が除かれたという。

もとは洲の御前(みさき)といったが、源頼家が三崎と紛らわしいといったので「ごぜん」と呼ぶようになったという。灘ヶ崎の三郎山が季節風に真向かう場所であるのに対し、安房崎は暗礁多く、恐ろしい波の荒神を鎮めたところなのだ。

『ちゃっきらこ風土記 漁師町の民俗ノート』
内海延吉(三浦市教育委員会)より要約

追記

三崎総鎮守の「海南神社」は太宰府より流れ着いたという藤原資盈公なる人を祀るが、三崎と城ヶ島に四人の家臣(太郎・次郎・三郎・四郎)を祀る地があり、その信仰空間が構成されている。

洲の御前社は今祠があるが、元来は宮はなく、自然地形そのものが信仰対象であったという。洲荒の名のように、荒れる海を神格化であったというが、また上の伝にある砂の雨(天沙雨)を降らせた神で沙荒御前であったともいう。

これについて内海は『三崎郷土史考』で、七月八月ということから見て、天沙とは砂の雨ではなく旱天のことではないか、といい、雨乞いの神ではなかったかと推論している。そして同地から大蛇が六月祭礼の夜三崎に渡るという伝説があることを併せ考えたいとしている。

すなわち、雨崎の浅間さんのような大蛇の話(「浅間さまのお通り」)があり、それが洲の御前だったのだろう、ということだ。この点、田辺悟『三浦半島の伝説』の雨崎の稿にも「城ヶ島から三崎の宮川に渡るという話しもあるが、だいたい内容は同じである」とある(宮川ではなく田中らしいが)。

また、西の三郎山と対照的に紹介されているが、そちらには主の大蛇がおり、年に一度城ヶ島を西から東へ大蛇が渡ったともいう(「楫の三郎山」)。これらが一連の話であった可能性というのがある。