海南神社

神奈川県三浦市


この神社祭神の藤原資盈公と奥方盈渡姫は名門藤原貴族の正統、筑紫二国を領して太宰府にいたが、文徳天皇皇子惟喬惟仁両親王の皇位継承の争いの犠牲となり、大納言伴善男のザン訴で追討の軍を向けられ、大隅薩摩落ちの途中暴風に遇い、貞観六年十一月一日(申の日)御座船のみ一艘主従六人三崎へ漂着、居ること二年、漂着と同じ月同じ日に主従相共に没した。御生前房州から来襲した海賊を撃退して、里人の長年の難を救われた恩に感じて神に祀った。この東海の荒磯の里に生涯を終えた流離の貴人の悲しい物語りを綴った縁起書は、長さ一丈八尺幅八寸の巻物、その巻末に海潮寺住持一世源心、天元五年壬午三月当寺檀越香能連の口伝で編むと記してある。

『ちゃっきらこ風土記 漁師町の民俗ノート』
内海延吉(三浦市教育委員会)より

追記

三崎総鎮守の海南神社の縁起。香能連(かのれ・神霊)は地名としてあったが、藤原資盈(すけみつ)公漂着時の土豪一族の名。内海は「かののむらじ」が本意だろうという。

この縁起そのものは竜蛇の話ではないのだが、ここからまつわる周辺の摂社などにどうも蛇だの鮫だのがついてまわるので、大本の話として押さえておきたい。

さて、資盈には四人の忠臣がおり、資盈夫妻とこの四人が漂着から二年の同日に身罷り、祀られたという。三崎側の向ヶ崎諏訪神社が太郎・宮城住吉神社が次郎・城ヶ島側の楫の三郎山が三郎・安房崎の洲の御前に四郎が祀られる。さらに、館山の船越の宮鉈切の宮は資盈の嫡男が流れ着き祀られたものという。

そしてこのうち、まず本社の海南神社近くでは、北西すぐの大乗寺に向かう坂に大蛇が出たという。「大乗寺坂に時折巨大な姿を現わす蛇には、さすが悪戯盛りの少年も真青になって、石を投げる気力も失せて、この主を見送るばかりである」と内海の『三崎郷土史考』にある。

太郎を祀る向ヶ崎諏訪神社は狭塚川の河口部にあるが、そこには風雨を起こす大鮫の棲む淵があったという(「鮫川」)。諏訪社に幟が立つと天気が荒れるともされ、おそらく両者は関係するものだったと思われる。

次郎の住吉社に関しては何も話がないが、三郎の祀られた山には大蛇の主がいて、登ると祟りがあったという(「楫の三郎山」)。また、島には年に一度西から東へ大蛇が移動するという話があり、三郎山の大蛇のことではないかという。

四郎を祀る「洲の御前」には天より砂を降らせたという伝説があるが、それは旱天のことではないかともいう。またそこより三崎側に竜蛇が渡ったともいい、そのあたりの関係も考えられる。

加えて三崎側で語られる房州の「海南鉈切神社の伝説」では、資盈の子資豊がそちらに渡って賊をたいらげたというが、資盈が大蛇を討伐した、という話にもなっている。

ことほど左様に海南神社の周辺には竜蛇が見えるのだ。現状それらをつなぐ大枠というのもわからないのだが、三崎の信仰空間というのは竜蛇なしでは成り立たぬものと心得ておきたい。