海南鉈切神社の伝説

千葉県館山市


資盈が小舟で浜に着くと、一人の娘が水垢離をとっていた。訳を聞くと、三年に一度白羽の矢が立ち、大蛇の人身御供に立たねばならず、七日の水垢離をしているのだと、娘は泣いて語った。

そこで資盈が身代わりに立つと申し出、鉈でその大蛇を退治した。娘は長者の娘で、長者屋敷は大蛇の住む洞穴の上にあった。今も家が建たないという。

『三崎郷土史考』内海延吉
(三崎郷土史考刊行後援会)より要約

追記

館山側の話としては、刀切大神が洞穴を探らせた使いが帰らなかったので、怒り大蛇を斬ったという(「船越の宮鉈切の宮」)。それが今の当地での了解だろうかと思う。

それが、海を挟んだ三浦半島先端の三崎では、その総鎮守「海南神社」の神・藤原資盈の伝説の一環として海南鉈切神社の由来を語る。とはいえ、引いた話は大正の終わりごろに三崎の漁師が房州同地で聞いた話だとある。

また、三崎の伝では資盈の嫡男資豊が父一行とはぐれて房州に漂着し同地の賊をたいらげ海南鉈切神社に祀られた、というのに対し、房州では資盈が大蛇を退治したと語られている、と紹介されている(同『三崎郷土史考』)。

はたして館山のほうに大蛇を討伐した藤原資盈を祀るという話があったのかどうか現状不明だが、少なくとも三浦半島のほうからは関係社と見られていた、ということではある。