国府祭

神奈川県茅ヶ崎市


大昔、天皇がある娘にあまりうるさいので、娘の親が娘に化けて御殿に入り、奥さんになった。この親が蛇体で、妊娠して子を産むことになったが、見られたくないのでウの枝とカヤで囲った小屋で産んだ。

天皇が覗くと、蛇の子が六つおり、蛇が乳を飲ませていた。それで驚いた天皇は死んだという。また、ウとカヤの小屋だったから、その蛇をウガヤフキアエズノミコトと名づけ、殺して埋けた。それが東海道縁のなんとかいう官幣大社だ。

子の蛇はバラバラに逃げたが、おっかない魔物だから退治して祭った。大きい順に一之宮から六之宮で、寒川神社が一番の姉としてある。年に一度、神揃山に兄弟が集まり、母にお参りする。山が急だから、神輿にロップをつけて引き上げる。

『茅ヶ崎の伝説』
郷土史研究グループ「あしかび」
(茅ヶ崎市教育委員会)より要約

追記

原話は「浜降祭」の題で、上の話の後に寒川神社の浜降祭の由来を語るのだが、国府祭とは直接関係ないので割愛して別に題を付した。相模は平末鎌初より今の大磯町に国府が移り、総社の六所神社が構えられたものと思われる。その六所神社の北東1kmほどのところに神揃山(かみそりやま)があり、今は五月五日に国府祭(こうのまち)が行われている。

公的な祭事としては「座問答」という式が中心であり、一宮寒川神社と二宮川匂神社が虎の敷物を譲り合うのを、三宮比々多神社が「翌年まで」と仲裁する次第となる。寒川・川匂のどちらを一宮とするのか、というのを延々年々繰り返している祭だ(これらに対応した話としては「国府祭の由来」など参照)。

国司の総社への参拝儀礼が残る祭と目されるが、周辺庶民にはまた違った意義のある祭であった。旧暦の五月五日は、周辺では概ね田植えの終わる時季であり(というより、国府祭を目標に田植えを終わらせた)、要は田植えの打ち上げの祭でもあったのだ。

そのような人々にとっては、国府祭は上の伝説のような、蛇の御子神たちが母神に挨拶に来るというものだったようだ。祭儀の中にも各社が六所の神に対面する次第があり、もとよりそういった面もあったかもしれない。

ここで、上に語られている内容には少々補足が必要となるので、それを述べながら類話へのリンクを張っておこう。まず、注意点として、相模一宮から四宮に、この話に符合するような社伝はない。各社公に竜蛇を祀るなどとはいわない。そこは分けて考える必要がある。

話に出る範囲には、皇祖神としての鸕鷀草葺不合尊を祀る神社もない。上の話で、ウガヤフキアエズがどの人を指しているのかというと、后となった蛇体の親(女とはいっていない)らしくあるが、ならばウガヤフキアエズが蛇で子蛇神たちの母ということになる。

埋けられたのが東海道縁の官幣大社とあるが、海沿いに官幣大社はない。関係社のうち、平塚八幡宮と大磯六所神社が東海道沿いという点に該当するが、どちらだろうか。親の宮という点では六所神社だが、古墳様の立地があったということなら平塚八幡宮になる(平塚八幡に関しては「国府マチ」を参照)。

また、子蛇神を一宮から六宮に祀ったとあるが、相模には一宮から四宮が定められてあり、五宮六宮は普通言わない。国府祭に関しては、平塚八幡宮を五宮格として扱うが、六宮は六所神社のことだろうか。古くは海老名市の式内社・有鹿神社が参加していたという話もある。

概ね類話が語られる中で、上のうちの「六番目の子」は継子とされ、兄姉たちの渡御を羨んで邪魔をすると語られる。大磯ではそれが経路にある宇賀神であるなどともいう(「宇賀神社さんの事など」)。しかしこれも、宇賀神以外にも大磯の守公神がそうだともいうし、六所がそうだともいい、錯綜している。

さて、細かな話はまだまだあるが、各所で語られる断片が各々なので、その原型はと考えるのも難しい。ただ、広く見渡していく中で、上総・下総には似た感覚があるように思われ、もしそうだとすると確かに古い何かを伝えるものなのかと思える。いずれそのあたりとも比べながら詳細に踏み込みたい話だ。