義博の大蛇退治

神奈川県相模原市中央区


昔、淵野辺村の東に龍池という二町八反歩もある大池があり、武相にまたがっていた。ここに龍のようなうわばみが棲み、周辺の村々に害をなした。それで人は離散し、村は滅亡寸前になり、残った数人が鎌倉に窮状を訴えた。

事態を重く見た鎌倉は大蛇退治の勇士を募り、付近を領する淵辺判官伊賀守義博が名乗りを上げた。義博は強弓を引く者数十人を従え、淵野辺に来た。そして、にわかに雷鳴轟き大雨が降り、池の水がが溢れ出す中、義博は二度鏑矢を発し、見事に大蛇を三つに分断した。

これにて天地は清明、池は穏やかとなり、離散していた村人たちも帰って来た。池は埋め立てられ、大蛇の死骸は三ヶ所に埋められ、龍頭寺、龍像寺、龍尾寺がその上に建立された。(久保田昌孝「縁起解説」『龍像寺落慶記念誌』要約)

『相模原市史 民俗編』
(相模原市総務局総務課市史編さん室)より要約

追記

これは龍像寺の縁起であり、梵鐘に刻まれていた文言である(鐘は大戦中供出されてしまったが、写しが残っていた)。淵辺義博は足利直義の家臣で、鎌倉にいた大塔宮護良親王を殺害した武人として知られる。史上義博は親王殺害後、駿河の手越河原で直義の身代わりとなって討ち死にしている。

ところが、陸前石巻に義博は親王を殺しておらず、偽首を出して欺き、親王を救け密かに淵野辺から石巻に連れ出した、という伝説がある。そして、おそらくこれを逆輸入した形で、相州淵野辺にも色々な話がある。

その一環に、このような義博の大蛇退治の伝説があるのだ。これが護良親王の話と関係するというのは、この大蛇が「翁頭宮」と呼ばれたという伝がまたあることによる。

市史には、この大蛇討伐は、氾濫する境川の治水をいっているのじゃないかとあるが、また、義博の親王殺害の汚名をそそぐため語られたものではないかともある。この後者の意味合いの方が強いのじゃないか、ということだ。

なお、龍像寺の縁起の一部には、大蛇討伐の舞台を大沼神社付近にあった大沼池とするものがあるそうで(原文未見)、大沼のほうではそのようにも語られる(「大沼」)。これは、荒廃した上の三寺のうち龍像寺を再建した愛甲七沢の巨海上人が大沼に弁天を勧請した(これが大沼神社)という縁によるようだ。

また、龍像寺が寺宝とする伝説の竜骨や義博の鏑矢の矢尻は、付近の農民が耕作中に発見したというが、この弘治年間の再建の際に上人が発見した、という話もある(「龍造寺再建」)。