龍像寺再建

神奈川県相模原市中央区


義博が沼の大蛇を殺してから凡二百二十年後、弘治元年頃、此附近に疫病が大に流行して土民が甚しく悩んだとき、たまたまこゝを巡錫中であつた相模愛甲郡七沢広沢寺の住職巨海禅師が、この惨状を救うべく留錫して七日七夜修法して往年の大蛇の悪霊を沈めて疫病の苦から土民を救つたという。このとき淵を探つて当時の大蛇の骨と義博の用いた鏃とを発見して寺の什物としたが現に寺にある。尚同時に荒廃甚しかつた龍像寺を再興して村民から帰依尊崇された。

(小林与次右衛門「護良親王と淵辺義博についての考察(二)」より部分)

『郷土相模原 第九集』相模原市教育研究所
(相模原市教育委員会)より

追記

当地には足利直義の家臣・淵辺伊賀守義博が住み、大池の大蛇を討伐したという伝説がある(「義博の大蛇退治」)。この大蛇が三分され、埋められたあとに龍頭寺・龍像寺・龍尾寺が建立されたといい、三寺は荒廃したが、龍像寺のみ巨海上人に再建されたという、その話となる。

一般に寺宝の竜骨・義博の放った矢の矢尻は、付近の農民が耕作中に発見したと語られるが、上に引いた話では巨海上人が発見した、となっている。そもそも大蛇退治の話は龍像寺再建の勧進帳などに書かれたのではないか、と考えるなら、巨海上人をより強調する話として気にしておいても良いだろう。