翁頭宮

神奈川県相模原市中央区


(相州東郡淵辺邑、山王大権現・御嶽大権現・鹿島大明神。右三社は淵辺判官伊賀守の御城に有。淵大水有主神、右主は翁頭宮と唱え候由。)然るに伊賀守は弓術之達人にてヲフトウノミヤ射とめ〓〓しとなり。〓〓池主人を害す〓〓〓に付〓〓被致しとなり、然るに龍の体三つにして今龍三ヶ所にうずめ龍首寺龍像寺龍尾寺右三ヶ所建立なり。伊賀守は天下に希成る名将に有しが、罰をかふむり候哉行衛も不知、尤茂鎌倉へ被越候哉の由に茂聞へしが、一向不相分、跡方に記録も無之と公儀向は別記致候

「鈴木多平覚書」(小泉輝三朗「護良親王の最後に関する伝記(その二)」)

『郷土相模原 第七集』相模原市教育研究所
(相模原市教育委員会)より

追記

〓は虫食い、前段括弧内は、連続して引かれていないので、他資料(「淵辺義博伝説」座間美都治『相模原民話伝説集』)などから補った。この覚書は土地の旧家鈴木家に伝わった古文書(一般に鈴木家文書)にあるもの。享保以前のことを書いた部分もあるというが、当該の部分がいつ記されたのかは不明。

淵辺義博の大蛇退治の顛末は、その胴を葬ったという龍像寺の縁起によって知られるが(「義博の大蛇退治」)、この鈴木家文書にはそれとは違った興味深い記述がある。この大蛇(龍)が淵大水有主神・翁頭宮と呼ばれたというところだ。

淵辺義博は鎌倉にいた護良親王(大塔宮)を殺害した武人であったが、この逆臣という汚名をそそぐために大蛇退治の伝説が語られたのじゃないか、という面が、この文書によく表れている。つまり、義博が討ったのは大塔宮ではなく、大蛇の翁頭宮である、としようとしたということだ。

土地のまたの旧家には、義博とは別と思しき大蛇討伐の伝もあり(「天野家の伝説」)、それを取り入れて形成されたようでもある。もっとも、鈴木家は淵辺義博の家臣の末などというわけではないようで、なぜそれを語ろうとしたのか、というのは不明だが。