ムウィンド叙事詩・後

門部:世界の竜蛇:DRコンゴ:2013.03.12

場所:コンゴ民主共和国:ニャンガ
参考資料:
ダニエル・ビーブイック/カホンボ・C・マテエネ
『ニャンガの昔話』(同朋舎)
ロジャー・D・アブラハム『アフリカの民話』(青土社)
タグ:蛇神との結婚/王と竜蛇

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伝説の場所
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精霊妻であり叔母であるイヤングラを霊的な母としたムウィンドは、自分を捨てた父シェムウィンドとの対決に向かう。ここからは構成は非常に深遠なのだが、モチーフとしては特に龍学的にどうこうというものでもないので、大雑把にあらすじを見、うち強調したいところを詳しく述べよう。

父王シェムウィンドの待ち構えるトゥボンドの村に向かった一行のうち、ムウィンドに味方する伯父たちがまず村に攻め入った。しかし、シェムウィンドとトゥボンドの男たちは強く、返り討ちにあって伯父たちは皆殺しにされてしまう。イヤングラは無茶だと引き留めるが、今度はムウィンド自らが乗り込んだ。ムウィンドは友の雷神ンクバに要請し、七つの稲妻を落とし、村人もろともに村を塵にしてしまった。
ところがシェムウィンドだけはいち早く村を抜け出しており、キコシダを引き抜いた穴から、地下へと逃げてしまう。ムウィンドはひとまず殺された伯父たちを生き返らせると、イヤングラに縄の端を持たせ、自分がもう一端を持ち、父を追って地の底へと旅立った。

あらすじ

このようにしてトゥボンドの村は制圧される。まず、雷神ンクバの名を覚えておかれたい。いつの間にかムウィンドと友であることになっていて、この後も必殺の稲妻で助力している。これはかなり格上の神であり、最後にムウィンドのお目付け役として重要な役割を果たすことになる。

また、ムウィンドがイヤングラに縄の端を持たせているのが大きく目を引く。この縄は地の底の旅の間のムウィンドの様子をイヤングラに伝えるアイテムとなっている。しかし、これは本来的には霊的な母・イヤングラの守護がムウィンドに通じている、という一種のへその緒を意味したものだろう。「あちらとこちらを結ぶ糸」というのは何か、というのは広域問題だが、ギリシアのアリアドネーの糸も、単なる道標ではないのだ。ムウィンドとイヤングラを結ぶ縄は、このモチーフを含むいろいろな話にかなり端的なヒントを告げている例だと言える。

地の底の国では火のまわりに住む神ムイサがシェムウィンドを匿っており、追ってきたムウィンドを妨害し、殺そうとする。ここで、ムウィンドはムイサの娘カヒンドの助言によって、また王笏の力でもって難を逃れ、ムイサを倒した。しかし、その間にシェムウィンドはさらなる奥へ逃れてしまう。
次に父を匿ったのはツチブタのントゥムバだった。シェムウィンドの隠れる洞穴へとムウィンドを行かせないので、雷神ンクバが助け、稲妻を落とし、洞穴とントゥムバの畑などを粉々にした。しかし、またしてもその間にシェムウィンドはさらなる奥へと逃れてしまった。

あらすじ

ニャンガの村長
ニャンガの村長
リファレンス:flickr画像使用

火のまわりに住む神ムイサは、冥界の主、火山の底にいる火の神・ニャムライリの眷属を思わせ、この地底の旅が事実上の冥界行であることを暗示している。そして、驚いたことにこの妨害の方法というのが、ムウィンドにバナナ畑を作らせるというものなのだ。さらに、ムウィンドはムイサの娘の助言などでそれらの難局をしのいでいく。難題を出される聟が嫁の助言でそれを乗り越えていくという、まるで天人女房か七夕かといった話である。また、このあたりとなると敵対するムイサなども神さまである。ムウィンドも縛り上げられて瀕死となったり、これまでのように簡単に勝利してはいない。何度も死にそうになりながら先へ進むのだ。

そしてついにシェムウィンドは最深部に住む創造の神シェブルングに匿われる。やってきたムウィンドに対し、シェブルングは賭けで勝負しようと持ちかける。さすがのムウィンドも創造の神相手では分が悪く、これまで得たすべてのものに加え、イヤングラまでをも巻き上げられてしまった。
しかし、最後に残った持って生まれた王笏を賭けての勝負に勝ち、ムウィンドはすべてを取り戻すと、ようやくシェムウィンドに追いついた。ここに至ってムウィンドは父シェムウィンドを討つようなことはせず、相応の敬意を払って地上の村へ連れ帰ることにした。
かくして、英雄ムウィンドは父王を連れて地上のトゥボンドの村に帰還し、先の戦いで塵となったすべての村人を生き返らせた。シェムウィンドはこれまでのすべてを隠さず皆に話し、ムウィンドと和解すると王位を英雄である息子に譲った。ムウィンドは四人の妻を娶り、新しい村の歴史がはじまった。

あらすじ

ということで、これにて過不足なく大団円……であるはずなのだが、まだ「この先」があるのがこの叙事詩の恐ろしいところである。しかし、今はそこへ行くまえに、ここまでの話が示すニャンガの「王たるものとは」を語る思想の深さについて検討しておこう。

ニャンガの人々
ニャンガの人々
リファレンス:flickr画像使用

地底の国の冥界行ではあるといっても相変わらず歌ったり踊ったりの道中なので楽しいおとぎ話であるのかシリアスな何かがが語られているのか原話を読んでいても量りがたいのだが、私はここには深遠なニャンガの「王たるものとは」という思想が語られていると思う。舞台立てを取っ払って純粋に筋を取り出せば、「力で君臨した英雄が、王たる資格を得るべく冥界の最深部に下る。そしてそれまで得たすべてを、霊的な母からの加護すらも失った状態に追い込まれ、そこからの再生と帰還を果たす」ということが語られているのだ。

実際に、帰還したムウィンドはもはや英雄の力を振るうだけの存在ではなく、自分を殺そうとし捨てた父を許し、慈悲をもって統治する王へと変貌を遂げているのである(地上への道中ツチブタのントゥムバの洞穴なども直し、ムイサも生き返らせている)。もっと深読みすれば、既に父を追う旅そのものが、追討ではなく、冥界から父を救い出してくる旅なのではないか、とも思える。シェムウィンドはそのままだったら地の底(冥界)で邪なる存在に変貌してしまったのだと思われ、ムウィンドはそうなる前に父に追い付いた、というようにも読める。

ここには明確に、王はまず力がなければならないが、その先のステージに進むにはそれだけではいけない、というニャンガの思想が見える。その内容とは生死の境、自らの出自の負(自分を殺そうとした父)を飲み込んで生まれ直すというものであり、その経験を乗り越えてはじめてムウィンドは王にたる存在となるのだ。類似する世界各国の英雄・王の神話伝説、ヘーラクレースやギルガメシュやクリシュナや大国主の話と比べても、こと「王たるものとは」を語るムウィンド叙事詩のこの構成は頭抜けているように見える。現代に書かれたゲド戦記『さいはての島へ』での若き王子レバンネンの旅と比しても何ら遜色がない。

おそらくこれは私の誇張ではないと思う。先にいった「恐るべき続き」が、さらなる先の王のステージを物語るからだ。ムウィンドは過不足のない英雄王としてトゥボンドの村を治めるのだが、ニャンガの王の哲学は「その先にはまだ落とし穴がある」と警告するのである。すなわち「怪物化する王」への警戒までこのニャンガの人々は持っていたようなのだ。

コンゴの森
コンゴの森
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竜との戦い:
ある時、ムウィンドは猪の肉が食べたくてならなくなり、配下のピグミーたちを森に遣わした。ピグミーたちは肥えた赤毛の猪を狩り獲ったが、その深い森の奧には七つの頭と七つの角と七つの目を持つ竜のキリムが棲んでいた。人間の侵入に怒ったキリムは、蛇のようにピグミーたちの背後に忍び寄り襲いかかると、三人のピグミーを呑んでしまった。一人がなんとか逃れ、村に帰り着くと事の次第をムウィンドに報告した。
シェムウィンドは止めたが、ムウィンドは恐れず、竜のキリムを討つべく森へと向った。両者が相見え、ムウィンドは蛇のように竜に迫ると、王笏でキリムを打った。竜はひっくり返って死に、ムウィンドはこの竜の神を村に運び込ませた。
キリムの腹を裂くと、狩人のピグミーたちは生きており、飛び上がって出て来た。ムウィンドは竜の体の一片たりとも残さず平らげるように村人に厳命した。人々が竜の目を焼くと、汁が飛び跳ね、そのはじけるたびに人間が現われ、焼き終わるまでに千人もの人々が姿を現した。

青土社『アフリカの民話』より要約

後で見るが「猪の肉が食べたくてならぬ」とムウィンドが言い出すこと自体既に問題があるようだ。欲を満たすことのできる力を持っていても、それはセーブされなければならない。ニャンガの「王たるものとは」の思想はここから第三のステージを語りはじめる。

キリムとは本文中は七つの頭を持つ竜だとあるだけだが、これはニャンガの伝承に良く登場する森の王で、水蛇のムキティなどと比べると人間に敵対的であり、いたずらに森に踏み入る人間は呑んでしまうので、しばしば討伐対象となる。神というよりは怪物であり、より詳しくは次のようなのだそうな。

竜(キリム)──ニャンガの説話の中によく出てくる。竜は黒い皮膚、七つの顔、犬のような歯、大きな腹、わしのような尾をもつ大きな動物として描かれる。その怪物は奥深い森の中の地の上に住んでおり、時々人間を食べる独居性の狩人である。幾つかの説話の中で、竜は自分がつかまえた人間を妻にしていると言われる。正確なつかまえ方は詳しく描かれていない。竜には自分の子供はいないが、竜は時々人間の子供を養ない、良く面倒をみて、子供を太らせてからその子供を食べる。ニャンガの説話では竜はいつもきまって賢者、英雄によって、あるいは、幼い子供にでさえ殺される。子供は自ら進んで竜に飲みこまれて、ナイフで竜を滅ぼしたり、竜の口に焼石を投げこんだり、竜が網をつたって木に登ろうとしている時にその網を切って竜を殺すのである。

ビーブイック/マテエネ 『ニャンガの昔話』(同朋舎)より引用

網(綱か?)を伝って木に登ろうとするというのだから、翼を持つ飛ぶドラゴンというわけではないようだ。そもそも「ドラゴン」と訳されたから竜と書かれているのだろうが、少なくとも現代的な所謂ドラゴンという感じではない。つまりこの七つの頭を持つとイメージの出所がどこなのだろうということなのだが、西アジア的なものなのか、ナーガ的なものなのか……「七つの頭」というのはそのような外来のスタイルに見えはする。しかし、ここまでで気づかれただろうが、ニャンガたちの「意味ある数」というのは常に「七」である。七人の妻、七つの門の村、七人目の男の子……などなど。そうではあるが、全般的には今の所目にする記述からは外来のイメージなのかどうかを含めて量り難いので、この問題は今回は棚上げする。

キリムの出自よりも、ここで重要なのは、倒したキリムから狩人のピグミーたちが復活しているだけでなく、その目玉から大勢の人間たちが生まれているという点である。この新しい人々をムウィンドは「これは私の民だ」と言っている。これは森を切り拓くことと村の養える人口が増えることの関係を述べているのだろう。森の王を殺せば人間の王の領土が増えるのだ。しかし、ここで「待った」がかかる。

キリムを倒した英雄王ムウィンドは竜の肉を皆に分けながら、いきなり不吉なことを歌い出すのだ。「私をみごもった私の母よ、あなたには私がもう去ることがわかっている」……竜を殺した者はこの世を去らねばならないのだ。そしてそうなるのである。

雷神ンクバは天界で友のキリムの焼ける匂いを嗅いだ。そして、ムウィンドを捕まえに降りてきた。ンクバは友が殺されたことにひどく腹を立てていると告げ「おぬしは邪な行ないをしているのだぞ」とムウィンドに警告し、彼を天界に連れ去った。天界を巡りながらムウィンドは雨、太陽、月、星のそれぞれから過酷な仕打ちを受け、最後に皆から警告を受けた。「おまえは一日たりとも、森や村の動物を、またムカデのような虫けらさえも殺してはならぬ」と。そしてこの禁が破られたときにお前は死ぬだろうといわれた。

青土社『アフリカの民話』より要約

このように天上の神々にさんざん叱られて、最後には耳を七度、その上に七度引っ張られて念を押されてなんとかムウィンドは地上に帰ることを許されるのだ。

さて、この筋を見てただちに思い起こされるのは、あのメソポタミアの太古の英雄伝説『ギルガメシュ叙事詩』である。

「ギルガメシュ叙事詩」(Wikipedia)

無類の英雄ギルガメシュは、本来自分を討つために神々から派遣された獣人エンキドゥを無二の友とし、破竹の活躍を続けるのだが、レバノンの聖なる杉の森を守る森の王フンババを打ち倒してしまったことにより、神々の堪忍袋の緒が切れる。このことにより、ギルガメシュの分身とでもいうべきエンキドゥは土くれに還されるのだ。

ギルガメシュはもともと乱暴な英雄だったが、エンキドゥの登場後、力の側面はエンキドゥに任され、本人は名君として描かれ出す。そのように二人は正しく「分身」の関係なのだ。しかし、エンキドゥ亡き後はギルガメシュは覇気を失い、人の死すべき定めの虚しさと向き合う展開となっていく。いずれにしても森の王を殺し神々の怒りを買うという点はムウィンドの場合とまったく同じである。

ここで、前半に述べたようにムウィンド譚も本来はカブトゥワ−ケンダ(産まれてすぐ歩いた者)とムウィンドの二人の英雄の事跡が融合したものなのだと考えられていることを思い出されたい。これはふたつの別の物語の融合、ではない。少し詳しく引いておこう。

本書のテキストでは、ムウィンドは、対話や歌の中で自分のことをカブトゥワ−ケンダ(「生まれ落ちてすぐに歩いた幼な子」)であると名乗っているが、ある一つの類話によると、ムウィンドとカブトゥワ−ケンダとは二人の別個の人物で、たがいに片親兄弟の間柄にあり、ムウィンドの方は副主人公になっている。その類話では、カブトゥワ−ケンダは処女受胎によって誕生し、一方、ムウィンドは首長の儀礼上の妻から、通常の形で生まれたことになっている。

ビーブイック/マテエネ 『ニャンガの昔話』(同朋舎)より引用

先の話でムウィンドは叱られた後地上に戻されているが、あるいはここで二人の英雄のどちらかが死ぬ、ということだったのかもしれない。ムウィンドという名は「木を切り倒す力強さ」を意味するようなので、本来はここでムウィンドの方がエンキドゥと同じ運命を辿っていたのかもしれない。いずれにしても、また筋を抜いてみるならば、ここでは自然と人の文化の対称性を損なう行ないに対する強い禁忌が王に課せられる、ということが語られている。竜殺しに関しこれを「二度と試みてはならぬ」とンクバは厳命した。

イランの蛇の魔王「ザッハーク」の稿で述べたように、「王」本来の役割とは、富の引き出しが一定の規範を逸脱しないことを「あちら」へ示す人々の代表であり、かつ、「あちら」の意志を人々に告げる他界の(神の)代弁者というものであった。

ザッハーク・後(イラン:シャー・ナーメ)

しかし、その規範は往々にして崩れやすく、王は富を過剰に引き出す行為を繰り返し「怪物化する」危険と隣り合わせにある。ムウィンドが森の王キリムを打ち倒した所が、その分水嶺なのだ。この話は、そこを越えたら王は怪物と化す、ということを明確に警告している。これがニャンガの「王たるものは」の思想が示す第三のステージなのである。蓋し、驚くべき構成であるといえよう。力の英雄の段階・慈悲をもって統べる英雄王の段階・対称性を損なわぬ王の規範というステップをここまでスムーズに描き出している。

このあまりにも見事な構成はまた、この叙事詩の成り立ちがどのようだったのかということも考えさせずにはおかないだろう。最も簡単にはオイディプースやヘーラクレースなどの物語に似た地中海的なモチーフの影響を受け成立した叙事詩、と見られるのだが、当のギリシア神話の方にはここまで王が辿るべき段階をスムーズにまとめたものはない。

印欧語文化からの影響というのは確かにそうだろうが、反対に流れて北欧の王と竜の戦いというならば「ベオウルフ」だが、ここで竜はもうまったく異なる意味合いのように見える。

ベオウルフ・後(スウェーデン/イングランド)

また一方で、アフリカ東部と見た場合は(ニャンガたちはもとウガンダの地に住んでいた)、もう一世紀のころからダウ船という船がアフリカ・アラビア半島・インドを股に行ったり来たりしていたわけで、父王により殺されそうになる誕生・神的な蛇の化身である分身との共闘といった類似を見せるクリシュナ神話との関係というのも考えられる。しかし、クリシュナ神話の中に「王たるものは」というテーマが強く語られているとは思えない。

クリシュナ・後(インド:マトゥラー)

要するに、どこかの文化からの何かをなぞったという感じは良く見ると薄いのだ。ムウィンド叙事詩はその話の「王たるものは」を語る筋そのものという点では一般に先進地域と見られる周辺の各文化の物語よりもすぐれてまとまっているのである。

はたしてアフリカ大陸の無数の民族がこういった物語を良く持っていたものなのか、ニャンガ族が際立ってこのような王の哲学を高めたものなのか、私には現状分からない。しかし、何といっても水蛇ムキティの妻を霊的な母とし、英雄王として頂点を究め、竜殺しによりその先に待つ怪物化への警告を受けるという話なのである。まったく龍学の為にドッキリが仕掛けられてるのじゃないかと疑ってしまうような叙事詩なのだ。アフリカの竜蛇譚に関しては、どれほどのものが出てくるだろうかと当初からいってはいたが、まったく予想をこえた驚異の物語が、その深奥部にはあったのだということだ。

キヴ地方の大地
キヴ地方の大地
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さあ、以上でニャンガたちの英雄伝承「ムウィンド叙事詩」を巡る長い話はおしまいだ。しかし、その後端を冒頭に見たDRコンゴの現状に繋げて終わりたい。今、われわれが蹂躙しているその場所が、ムウィンドと神々の契約した大地であり、キリムが守っていた森なのだ。

物語の最後に、天界から戻ったムウィンドは、すべてのステージを辿った王として、後の世に続く人々にこう告げる「おまえたち相互に同意せよ、すべて一緒に、国の内に敵意なく、あまりに多くの憎しみもないように」と。そして多くの作物を作れと、良い家を建てよと、その美しい村に住めと。しかしこの王の望みは……もうなんといっていいのかよく分からない。なぜこのようなことになってしまったのか。

コルタン採掘をする人々
コルタン採掘をする人々
リファレンス:WIRED画像使用

われわれは、ニャンガの「王たるものは」の思想に代わる知恵を生み出せていない。神々との契約は失われ、森の王の声はわれわれには聞えない。

アフリカの地に生まれ育ち、世界を経めぐった北の賢者ライアル・ワトソンはかつてこういった。「われわれにはドラゴンが要るのだ。人類の歩んできた道を、人類が未だ完璧でないことを、思い知らせてくれるドラゴンが必要なのだ」(『アースワークス』)と。しかし、キリムには、もう現代の欲動が森を血で染め、大地を堀つくして行くのを止める力はないだろう。

それでも、われわれには竜が必要なのだ。
私達は、私達の竜を見出さなければならない。

memo

ムウィンド叙事詩・後 2012.03.12

世界の竜蛇

世界の竜蛇: