コラム「数多い神社」(2/5)

門部:神社巡りの方法:2012.09.22

      

稲荷神社

八幡さんと双璧を成して数が多いのがお稲荷さんだ。八幡さんが「上に倣え」で増えた観が強いのに対し、お稲荷さんは下から生えて行ったような増え方をしている。お屋敷神としても良く祀られる。そのようなわけで地域色を良く示し、また周辺との比較が容易な存在であり、実地ではそのあたりを良く見て行きたい。単独のお社として稲荷神社ばかりではなく、他の鎮守の社の境内社として祀られているお稲荷さんも重要となる。

新井神社境内社
新井神社境内社
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例えば伊豆伊東市の伊東港を見守る社である新井神社境内の稲荷さんは「大漁稲荷」といって漁師たちの稲荷として祀られている(上写真の境内社三扉中央)。「稲が生る」から稲荷なのだと説明されるお稲荷さんだが、海の幸も呼び込むらしい。商売繁盛、豊漁祈願と何にでも祀られる稲荷は、農の豊作の神が転じて近世富一般をもたらす神となったのだと普通考えられるが、ここ伊東ではそうとばかりも言えない。

もともと伊東の地は稲荷信仰が盛んだったのだ。伊東総鎮守の式内:葛見神社は大本は楠を祀った社であったろうと考えられるのだが、平安後期から鎌倉時代のこの地の領主、伊東氏が伏見稲荷を勧請合祀して以降は実質稲荷神社だった。二座で紹介した中にもあったが、葛見神社の大楠の根元にある祠もまた稲荷である。疱瘡稲荷であると思われ、樟脳の防腐・防虫の効能との関係も考えられる。そして、これがもとかどうかは分からないが、伊東市域海側には疱瘡稲荷がまま祀られている。

疱瘡稲荷
疱瘡稲荷
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これも伊東港すぐ近くで新井神社から徒歩10分というところの八幡さんの境内社なのだけれど、疱瘡稲荷が祀られている。真っ赤なのは稲荷だからというより疱瘡除けの意だろう。同じ港の神社であって、大漁稲荷だったり疱瘡稲荷だったりするわけだ。この海では疱瘡神は海上船でやってくると考えられていた。海からは禍福が等しくやって来るのだ。

相模湾伝いに真鶴・小田原の方に行くと、よりこの路線が鮮明となって、天王稲荷神社なるお社が点在している。完全に同一化しているものと稲荷社の境内に天王社がある、というタイプがある。

天王稲荷
天王稲荷
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天王さんというのは(現在は八坂神社・津島神社など)疫病除けの神として祀られる存在であり、天王稲荷も同意であろう。実際みな海に背を向けて造営されており、海から来る禍に対する防波堤のように連なっている。

この東伊豆の疱瘡稲荷/西相模の天王稲荷などという例は、その類似と差異から大変比較検討のしがいがあると言えるだろう。お稲荷さんにはこのように土地の比較をして行く窓口となる側面がある。そして、疱瘡稲荷にしても天王稲荷にしても禍を防ぐことが願われた社であり、必ずしも「富をもたらす・現世利益的な」というお稲荷さんの定型前口上の内容とは一致しないことに注意されたい。

勿論近世稲荷が爆発的に増えたのは商業全般の神、として流行ったからなのだが、その枠組みだけでは捉えられないものも少なくないのだ。伊東は伊東氏の稲荷信仰このかた、という側面があったわけだが、そうでなくても別の色々な古くからの信仰の束が流入する「その器となった」というところに稲荷信仰の真骨頂はある。簡単にいくつか例をあげよう。

末廣稲荷神社(子供稲荷)
末廣稲荷神社(子供稲荷)
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常陸は旧友部の末廣稲荷神社は社名にはそれとは表れていないが、「子供稲荷」の二つ名を持ち、子供らの健康と成長を祈願する所であった。常陸にはこのように産育の稲荷、子安稲荷と化しているお稲荷さんがままある。行方玉造の方には乳房稲荷なるお社があるし、出島では紅白の帯が奉納されている稲荷神社があった。常陸帯の流れだろう。

火防稲荷
火防稲荷
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火防稲荷、というものもある(写真は東京都大田区)。お稲荷さんがなぜ火を防ぐのかというともともとそんな話は無いのだが(水神格と見るのか)、稲荷の本地伏見の方、奈良・京都からある。

このあたりも本来の五穀豊穣という神徳からは離れている例だろうか。いずれにしても大漁・疱瘡・天王・子安・火防……と、ともかく頭に○○とつければどんな機能にも化けてしまえるのがお稲荷さんなのだ。当然頭に土地名をつけたら祖霊の社のようにもなる。さすがはお狐さんといったところだ。

さて、このような具合でお稲荷さんのイメージというのももっと柔軟に考えてゆくべきなのだけれど、では一体どの辺りにその根本を見ておいたら良いのだろうか。私はやはり「古墳の稲荷」の持つイメージに注目したい。

舟塚山古墳の神明大稲荷
舟塚山古墳の神明大稲荷
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写真は東国第二の大きさを誇る常陸は茨城県石岡市の舟塚山古墳の鹿島神社なのだけれど、奥が鹿島神社本殿で手前は神明大稲荷なるお稲荷さんである(社殿裏手が古墳)。ここ高浜周辺の古墳は、表看板として鹿島さんなり何なりが墳丘上に鎮座されていても、脇にこのようにお稲荷さんが控える。もとより古墳の石室などが開口している塚穴は「狐穴」と呼ばれることがままあり、ミステリアスな狐たちの行き来する場とされていた。

このような穴は、「おむすびころりん」のような異界への穴であり、竜宮椀貸し伝説の大地版ともなる穴である。すなわち「あちらの世」と「こちらの世」の境界なのだ。禍福とは、この境界を通してこちらの世に出現する。その境界を司る社とされたのがお稲荷さんの持つでたらめな柔軟性の基調にあるのだと私は思う。「現世利益の信仰」という紋切り型から見るのではなく、日本の神祀りを脱構築してしまうほどの柔軟性がどこから発したのか。稲荷神社はそのような視点で見ていくのが良いと思う。

補遺:

各地の小さなお稲荷さんは、その土地の稲荷講の拠点であることが多い。色々な講集団というのもほとんど絶滅していっているが、最後まで残るのはこの稲荷講ではないだろうか。

稲荷講が一年で最も盛り上がるのは、正月初午の日だ。概ねお稲荷さんの例祭もこの日である。そして、初午の日に併せて、各地の講集団からは代参が地域の大きなお稲荷さんへ赴き、お札をいただいてくる、ということが行なわれる。

白笹稲荷神社
白笹稲荷神社
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西相模では秦野市の白笹稲荷神社へ代参を送りお札をいただいて来る例が多かった。それぞれの土地の地域史誌を見てみて、稲荷講の様子がまとめられているところには、何処そこへ代参を送った、という記述が見えるものがある。これを調べてみると、その土地がどこの大稲荷の傘下であると考えていたかよく分かる。もっとも現代は気軽に遠方へ行けるので総本社の伏見稲荷からお札をもらってきてしまう、となっているところも少なくないが。

少し昔の記録に、地域で構成されている稲荷講の様子が見えるようだったら面白いだろう。もし、自分の住む土地の小さなお稲荷さんの持っていたその繋がりが絶えてしまっているようだったら、自分で「代参」をやってしまったら良い。別にお札をもらってきて納めたりとかはしなくても(勿論勝手にやってはいけない)、お参りするだけでも土地と土地の繋がりのようなものを感じる切っ掛けになるはずだ。

脚注・資料

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神社巡りの方法|四座 読 2012.09.22

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