八菅山

神奈川県愛甲郡愛川町


八菅山は村西にあり、山上に七社権現が鎮座する。修験の指揮する土地であり、不入の社地だけで一区をなしている。伝えによると、日本武尊が東征の時、この山の形が龍に似るとし、蛇形山と名付けたのだという。

それで、山中に左眼池・右眼池・鼻池・口池・舌畑などの名が残る。八菅山と号するのは大宝三年七社権現勧請の時の奇瑞によるといい、山中に堂庭・幡の降臨した地という幡・幡之坂……(いろいろの小名・省略)……等の小名がある。

『新編相模国風土記稿』より要約

追記

八菅(はすげ)山は少なくとも中世にまで遡る修験の山であり、神仏分離令ののちは七社権現を八菅神社と改め、今にいたる。そこに、このような伝が語られるのだ。蛇形山は「じゃぎょう山」と読むが、それでは由来にならないので、「蛇形」がまた「はすげ」と読めるという含みがあるのだろう。

この新編風土記の蛇形山云々の記述は、同時期書かれた八菅山の天保の縁起に見えるものだが、当時すでに右眼池と口池は永正の兵火で焼け落ち、跡地になっていたとその縁起にある(右眼池は現在あるが、復刻版だろう)。その縁起を信ずるなら、永正にはこの伝の池はあったということになる。

ところが、問題なのは現存するもっとも古い史料である、別当・光勝寺の応永二十六年の勧進帳(写し)には蛇形山の話が全くないことだ(「八菅山勧進帳・冒頭部分」)。そこでは天より降った玉幡を八本の菅が生え受けた、という奇瑞がもっぱらに語られる。

その天より降った幡の縁起が、また中将姫の蓮糸曼陀羅の伝説に結びつき語られ、上の幡之坂などが注目されるわけだが(「幡の坂」)、さてでは蛇の山の話はどこから出てきたのか、というところが問題となる。

幡の話が膨らんだのは、同地が幕末からの養蚕撚糸業の隆盛した地域に含まれたことによると思われるが、左眼池にもそれは関係したようだ。池には「弁天様が祀ってあり、養蚕の盛んな当時、目池を掃除するとその年は養蚕があたると言われた」という(慶応義塾大学 宮家準研究室『修験集落八菅山』愛川町教育委員会)。

そうなってみると、愛甲とも繋がる養蚕業の要所であった桑都・八王子に注目すべきなのかもしれない。八王子恩方には、竜蛇の形の山の話(「関東の蛇山」)と、飛ぶ幡の話が並んでいる。しかし、八菅の竜蛇の顔を示す池が永正にあったとなると、未だ同地で養蚕が隆盛していない時代に遡ってしまうことになり関係づけるのは難しくなるわけだ。