蛇塚

神奈川県足柄上郡山北町


岸の越地から山北に抜けるには、昔は般若院の山腹を行ったものだが、その麓の水田は、かつて大沼だった。篠原がすごく、近づく人が行方不明になることもあって恐れられ、時の領主は川村城内にあった八幡神社を、岸の日月之社内に遷すことにした。

すると、沼の中島に白羽の矢が立ち、大蛇の死体が横たわった。人々はこの蛇体を埋めて蛇塚と称し、安堵したそうな。塚には榧の老樹が立っている。後年沼の南に溝を引いて、沼を水田とした。その溝を道海堀(元は牢海)という。岸の湯坂に常海道というところもあるが、おなじく土地を拓いた僧のことだろうか。

『足柄上郡誌』神奈川県足柄上郡
(足柄上郡教育会)より要約

追記

今、川村小学校の南の低地が沼であったという。西側に一段高く県道が走り、それとわかる地形を残している。さらに県道の西上に八幡神社が鎮座され、件の岸の八幡神社となる。原文不明瞭なところがあるが、そこに日月社があった、ということだ。

上の筋を見る限りは、沼を水田として拓いた事業にまつわる伝説、という感がある。水場の主である大蛇の死去をもって土地が切り拓かれたとする話は各地に多い。領主の動向が語られているところもそれを暗示しているだろう。

そして、そうであるとすると蛇塚(現状は不明)は、沼の生き物たちを供養するためのものだった可能性が強い。足柄平野から秦野盆地に抜ける経路にある蛇塚には、そうした話が伝わっている(「蛇塚の由来」)。

ところが、この越路の話は、現代に再話されるにあたって「鉄の神が大蛇を退治した話」という筋になる(「大蛇を退治した神さま」)。これが単なる現代的な翻案なのかどうかでまた話が違ってくる、という点は覚えておきたい。