鈴鹿と有鹿の神争い

神奈川県座間市


壬申の乱の折、大山祇神の子孫の翁が伊勢鈴鹿におられ、大海人皇子を助けて関八州の兵を動員し、鈴鹿大明神と祀られた。文武天皇の頃、鈴鹿明神の舎人が宝物を積んだ船ごと海に流され、相模の入海に来た。高波に苦しんでいると鈴鹿の翁が現れ、宝剣を龍神に捧げて上陸することができた。それが座間の鈴鹿の森である。

さて、鈴鹿の南、梨之木というところに諏訪の古社があり、その下の海中に弁才天があった。そのほかに、稲荷・山王を鈴鹿の社内に勧請した。またその頃、座間七ヶ村の内の勝坂に、在鹿という蛇身の神が穴にお住みになっていたが、この蛇神が鈴鹿の森に絡まって、鈴鹿の宝玉を欲した。

これを諏訪と弁天が追い出そうとし、南の湿地に三神が大蛇となって戦った。在鹿はこれに敵わず、大川に逃れ、海老名に留まって鎮守と祀られた。その後、在鹿は四月八日に勝坂にお通りになるが、鈴鹿の神風により西の田に巻き落とされて以来、梨之木の諏訪坂は通らない。またそれで鈴鹿の森の西をこしまきという。

鈴鹿の祭礼は六月七日より神輿が出御され、十四日にお帰りになるが、同じ日に在鹿の神も石になり、馬の背に乗ってお帰りになる。この時、鈴鹿の神輿がお帰りになるのを待って、在鹿の神は通ったのだが、近年享保の頃より神輿で在鹿をお迎えに行くようになったのは海老名の氏子が礼を誤っているのだ。

座間市史資料叢書1『座間古説』
(座間市立図書館市史編さん係)より要約

追記

座間の総鎮守である鈴鹿明神社の縁起となるが、明和年間に著されたと思われる『座間古説』という史料に記されている(神争いの題は独自につけた)。二段目と三段目の神争いの場面はほぼ現代語にした程度。前段と後段の部分は元は長いが、大幅に省略した。『座間古説』はこの他にもいろいろ入谷付近の故事を記した当時の地域誌だが、神争いの話は以上となる。

大蛇の争った湿地は今の桜田一帯、大川というのは相模川のこと。この縁起では、これにて有鹿(文中在鹿)の神は勝坂より海老名に遷ったということになる。こしまきというのは座間小学校あたりになるそうな。

また、梨の木坂の諏訪神社は小社ながら今もあり、弁天というのは今は鈴鹿明神社境内社となっている弁天さんになるらしい。鈴鹿明神社の池では、龍神いじめと称される雨乞いが行われたというが、これが弁天にあたるのだろう(「入谷の雨乞い」)。

さてそれで鈴鹿の神とは何者かというと、これがよくわからない。一見して思うように、在地の有鹿の勢力に対して入り込んで来た新興の勢力と思え、鈴鹿王なる豪族が構えたのだともいうが、確たるものはない。現在素戔嗚命が並祀されるのは、天王社の側面があったためという。

一方で、式内社ながら自身の史料に乏しい有鹿の神を蛇だといっている最古の史料という点も重要となる。鈴鹿の方から在地の神を蔑んでそういっているようにも見えるが、有鹿神社の方でも有鹿の神は蛇だといって臆することもないようなので、そればかりではないだろう。

面白いのは、有鹿の神は今も四月に勝坂に行って、六月に帰ってくるのだが(「勝坂の有鹿谷の霊石」)、上では帰ってくるときに石になる、というニュアンスで語られているところだ。無論実際には御神体の石が行って帰ってくるのだが、少し違う感覚だったのかもしれない。