鈴鹿と有鹿の神争い

原文:神奈川県座間市


相模国高座郡座間鈴鹿大明神之御地を奉尋に、伊勢国鈴鹿大明神を勧請仕也、人皇四十代天武天皇之時、鈴鹿大山祇子孫御座在しとき、其此天智之御弟清見原王子へ御位をゆつり給ふ故、清見原之王子逃なされ、鈴鹿山江来り、大山祇の所へ来らせ候ニより、先御先祖之伊勢に御参詣可被成と申候、鈴鹿之川出水にて候時、不思議かな鹿二ツ来りひさまづく、是に打乗、太神宮へ御さんけい被成、右鈴鹿之処に被成御座候ニより、鈴鹿之おきな娘いやしからさるにより、御てうあい被成候ヘ共、清見原押かけ参らんとおもわれ候ニ付、すゞかのおきなせきの長者を頼ミ、長者くわん八州を催し、ついに大友打負候、天武王子位を請候也、鈴鹿のおきな鈴鹿大明神となり、大山祇と申ハいさなぎの御子也、人皇四十二代文武天皇之比、鈴鹿御祭之時船壱そう宮川江付給ふ、宮川江舎り、其時一人御船にのり出給ふに、其御船相模国入海に付セたまう、御船の中にハ御輿にハ宝物有候へハ、宝剣・宝玉其外御宝物有し、其時高水浪立て、御船てんどう仕候ニより、法印達いのり、其時御船より鈴鹿之おきなあらわれ、宝剣を海になげ入、宝玉を持、龍神之おこなハれ給へハ浪風しずまり、浪七里引、七里か里と申ニ、龍神よろこび東の清水之上の古木に龍燈上り、其時御船居付鈴鹿之森と成、鈴鹿ハ七里、高座郡之中なるにより、郡頭座間村と在名付、さて、鈴鹿之南に梨之木といふに諏訪在古社なり、諏訪之下海中ニ弁才天有、其外稲荷・山王、鈴鹿之社内に勧請仕、其比座間七ケ村之内に勝坂と申所に在鹿と申而、蛇身に而、穴ニ御すみ有しが、鈴鹿之森ニからまり、宝玉を心掛候により、社地之内成諏訪と弁天追出し、南之やのふけに三神大蛇ニ而戦ひしが、在鹿かなハずして南大川にかくれおち、海老名ニ留り、其村之ちんじゆと祭る、其後、在鹿ハ四月八日に勝坂へ御通りあり、梨之木ハ諏訪坂をよけ、ほしのや坂よりたいこを打賑やかに有し時、鈴鹿之森より神風吹来る、在鹿を西の田へ巻落しやうやうあかる、勝坂之穴ニ御入被成、今に鈴鹿之森の西をこしまきと字に言、其時よりなしの木諏訪坂ハ御通りなし、然に、六月七日にハ鈴鹿御祭礼にて、森より鎮守御出在、大川原ニ浜下りに御出あり、それより鈴鹿森下ニ宮川と言者之前に、同月十四日迄御休息在、同日に在鹿も海老名江御返り在時、其時在鹿、石と成給ふ、祢宜かますに入、馬に付、御へいをさして御返り在時、座間之御輿鈴鹿の宮江御入なき内ハ祢宜前ひろに控へ、鈴鹿之御こし宮へ御入有之、其あとを御通りあり、昔よりの礼かき有之、近年享保之比ゟ御輿にて在鹿を御むかいに参り、海老名氏子礼相違したる事

鈴鹿大明神ハ今明和七年丑の年まで千二百三十四年に成、こゝに宮川と申すハ、伊勢之宮川ゟ明神に付添て参り候者なり、其後元暦元年鎌倉御代之時、上ハ屋敷といふに長宿と言町屋出来、鎌倉ゟちゝぶ・上州江の駅宿なり、東の方ハ本堂と申所、以前星の谷観音御座被成、其時にハ長宿町にきやか也、其後正慶二年鎌倉ほろぶ、長宿の者鎮守之北清水通り江引

・やのふけ(谷の深) 桜田一帯の低湿地帯。
・大川 相模川のことを地元ではこう呼んでいる。
・こしまき(腰巻) 市立座間小学校付近
・浜下(降)り 祭礼のとき神輿を海や川の瀬に入れてもむこと。現在、地元では神輿の水浴びと言い、河原宿の左岸用水路の堰付近で行われている。

現代文:

相模国高座郡座間に鈴鹿大明神が祭られているが、その起源の地を尋ねれば、伊勢国の鈴鹿大明神をこの地へ勧請したものである。

人皇四〇代天武天皇の時代、大山祇神の子孫が伊勢の国の鈴鹿におられたときのことである。そのころに、天智天皇が弟の清見原(浄御原)王子へ天皇の位を譲られると言われたので、清見原王子は逃げられて鈴鹿山の大山祇の子孫の所へ来られた。

(天智天皇は男子がなかったので、実弟の大海人皇子=清見原王子を皇太子に任じ、政務をとらせていた。後に実子大友皇子が生まれ、その後、天智天皇が重病の床にあるときに、どうしても大友皇子にあとを継がせたく、一応大海人皇子を呼んで皇位を授けると言った。かねての情報によりもし受諾すれば、陰謀の計画があるかもしれないと危険を感じた大海人皇子は、これを固辞して出家する旨を述べ、吉野宮で修道する許可を得て、危機を脱し吉野へ逃れた)

大山祇の子孫である鈴鹿の翁は、清見原王子に、まず御先祖の伊勢神宮へ御参詣するように言われた。その時、鈴鹿川は洪水であったが、不思議なことに鹿が二頭出て来て王子の前にひざまずいた王子はこの鹿に打ちまたがって、無事に伊勢大神宮の御参詣を済ますことができた。

清見原王子は、鈴鹿の地にしばらく滞在していたが、鈴鹿の翁の娘が大変上品な娘であったので、御寵愛になった。

鈴鹿の翁は、近江朝廷に立ち向かおうとする清見原王子の気配を察知して、鈴鹿の関の長者は、関八州の兵力を動員し、激しい戦の末、ついに大友皇子を打ち負かしてしまった。そして、清見原王子は天武天皇として即位され、鈴鹿の翁を鈴鹿大明神として祀った。また、大山祇というのは、伊弉諾尊の子供である。

人皇四二代文武天皇のころに、伊勢の鈴鹿明神の御祭礼のとき御座船一艘が宮川へ着いた。その時、舎人が一人御船に乗り込んで、海へ御船を出したが、たまたま大時化に遭い、御船は流されて相模国の入海に着いた。御船の中の神輿の中の神輿の中には宝物が納めてあり、それは宝剣や宝玉、そのほか色々の宝物であった。

相模国の入海でも高波が立ち、御船は転覆しそうになったので、法印たちは波風が静まるようにお祈りした。その時、御船より鈴鹿の翁が現れ、龍神の怒りを静めるため宝剣を海中へ投げ入れ、翁は宝玉を持って海中に龍神を訪ねた。龍神は大変喜び、たちまち波風は静まり、海の水は七里南へ引いて陸地となった。それ故ここを七里が里といった。またこの時、鈴鹿の東清水の滝の古木に龍燈が上って御船を導き、この御船が居着いた場所が鈴鹿の森となった。鈴鹿の地は、七里の里である高座郡の中心に当たるので、郡頭座間村と名付けられた。

鈴鹿の南、梨の木という所に諏訪明神という古社がある。また、諏訪の下の海中に弁財天があり、そのほかに稲荷・山王を鈴鹿明神の社内に勧請、合祀した。そのころ、座間七ヶ村のうちの勝坂という所に、有鹿といって蛇身の神が穴に住んでおり、鈴鹿の宝玉を盗ろうと思って、鈴鹿の森へ絡まり、機会を狙っていた。鈴鹿の社内にいた諏訪明神と弁財天がこれを追い出し、南の谷の深(やのふけ)という所で、この三神がそれぞれ大蛇の姿となって戦った。有鹿はかなわなくなり相模川に逃げのび、海老名に上がって、そこにとどまった。村人は有鹿明神は四月八日に勝坂へお通りになったが、梨の木では諏訪坂をよけて、星の谷坂より太鼓を打ち、にぎやかに神輿を進めて来た。この時、突然鈴鹿の森より神風が吹き、有鹿の神輿を西の方の田に巻落として、ようやく風が収まり、有鹿はやっとのことで勝坂の穴に入ることができた。それで今でも鈴鹿の森の西を輿巻という小字で呼んでいる。それ以来、有鹿明神は梨の木の諏訪坂をお通りにはならなくなった。

昔から鈴鹿様の御祭礼の時、六月七日には鈴鹿の森より神輿が出御され、大川原へ浜降りにお出になった。そのあと、鈴鹿の森の下の宮川という家の前に、同月の十四日まで御休息になり、鈴鹿の宮へお帰りになった。同じ日に有鹿の神も海老名へお帰りになったが、その時には有鹿の神は石になり、祢宜はこれをかますに入れて馬の背に載せ、御幣をさしてお帰りになった。そして、途中、座間の神輿が鈴鹿の宮へお入りになるまでは、祢宜は前もって控えていて、鈴鹿の神輿がお宮へお入りになってから、そのあとをお通りになった。これが昔からの儀礼であったのに、近年の享保のころより、神輿で有鹿をお迎えに行くようになったが、これは昔からの儀礼を欠いたやり方で、海老名の氏子のやり方は間違っている。

鈴鹿大明神は、現在の明和七年寅ノ年(一七七〇)までに一二三四年にもなっている。鈴鹿の神輿がお休みになる宮川というのは、伊勢の宮川より鈴鹿明神に付き添って来た人である。

その後、元暦元年(一一八四)の鎌倉の御代のとき、上ハ屋敷という所に長宿という町屋ができて、そこは鎌倉より秩父、上州への駅宿となっていた。また、ここの東の方は本堂という所で、以前は星の谷観音堂があり、そのころは長宿の町はにぎやかであった。その後、正慶二年(一三三三)に鎌倉幕府が滅亡してからは、長宿の人たちは、鎮守の北の清水通りに引っ越した。

座間市史資料叢書1『座間古説』
(座間市立図書館市史編さん係)より

追記

「鈴鹿と有鹿の神争い」の題は独自に付けた。一般的には『鈴鹿明神の縁起』となるか。