有鹿の輿巻

神奈川県海老名市


万治四年の旱魃の際、水引行事から帰るところの有鹿の郷主以下の衆を前に、枯死寸前の田の前で、座間・桜田の農民が、水争いをしていた。有鹿の一行が、諭し戒めると、農民たちはいきり立ち、水引行事が済んでも雨の一滴も降らず……と、農具で神輿に襲い掛かった。

するとその時、一天俄かにかき曇り稲妻雷鳴が走り、何処から来たものか、大きな蛇が神輿を幾重にもまいて、乱暴する農夫たちの眼前に頭を持ち上げた。そして、水は一人のものにあらず、我は有鹿霊泉の神である、しばらく辛抱せよ、と告げ消えた。

驚いてひれ伏していた農民たちだったが、我に返りあたりを見ると、田には一面に水が滴り、稲は青々と露を持っていた。農夫たちはこの不思議を語り伝え、その今の座間農協から北西方の地名も誰かが語るままに、輿巻というようになった。

『海老名の史跡探訪』
(海老名市農業協同組合)より要約

追記

式内の有鹿神社の神霊は水引といって、玉石として北の勝坂の湧水源(上の有鹿の霊泉、有鹿谷)に運ばれ、一定期間を過すが、その正体は蛇体であるという(「勝坂の有鹿谷の霊石」)。この話もその姿が現れた一例として知られる。

話の座間あたりは鈴鹿明神の領でもあり、太古から有鹿とは争ったというところであり、そちらでは鈴鹿明神が、領下を通る有鹿神の神輿を神風で巻き落としたことを輿巻の由来と語っている(「鈴鹿と有鹿の神争い」)。

つまり、輿巻の地名ひとつにも有鹿側と鈴鹿側で言い分が食い違うということだ。しかし故に、上の話は確実に有鹿側の話であり、それが有鹿の神霊は蛇体だといっている事例となる。