伝説 有鹿姫

神奈川県海老名市


文明九年、相川町角田の小沢城が太田道灌に攻め滅ぼされ、城主・金子掃部助は戦死し、臨月の奥方は菩提寺のある荻野へ逃れた。荻野に逃れ倒れた奥方を土地の人々が厚く介護したところから、荻野坂本に金子姓がある。生まれた女児は死んでしまったが、荻野の法界寺に位牌があるという。

また、掃部助夫婦にはすでに成人した美しい姫がおり、このときに婚約していた海老名氏の居館に寄っていた。小沢城危うしの知らせを聞き、もどったが、すでに父は戦死し、母は落ち逃れた後であった。

姫はこれに望みを失うと意を決し、盛装すると還浄寺の裏手の崖から相模川に身を投げた。すると、美しかった姫の姿はたちまち大蛇となり、流れを下った。途中、六倉の突鼻で身震いし上げたしぶきが中津に水たまりを作ったという。

しかし、海老名館のある河原口まで下り、有鹿神社の裏に上がると、人の姿に戻り息絶えたのだそうな。人々は姫を哀れに思い、有鹿姫の名を贈り、神社の鐘楼堂跡に葬った。今、鳥居から道を隔てた有鹿小学校の一隅に「有鹿姫の霊地史跡」の碑がある。

『海老名むかしばなし 第六集』
(海老名市広報広聴課)より要約

追記

相模原市の田名から磯部あたりに語られる小沢城落城の伝説(「小沢城落城悲話」)が、海老名の有鹿ではこのように語られる。六倉で身震いしたら中津に池が出来たなど、細かなシーンも共通するので、元は同じ話だったと思われる。

相模原の方では姫の名が語られなかったのに対し、こちらでは有鹿の人たちが有鹿姫の名を贈った、とするところが特徴的だろうか。これにより、有鹿神社の蛇体の女神という有鹿比女命との混交がはなはだしくなる(「大角豆を作らない由来」など)。

また、前段はどちらかというと史話寄りの話だろうが、金子氏が厚木市荻野の方と繋がりを強く持っていた、と語られる部分も覚えておきたい。荻野には海老名氏の姫が嫁いだという話もあるそうで、荻野神社には「有賀神社」の境内社がある。