伝説 有鹿姫

原文:神奈川県海老名市


室町時代の中ごろ、愛川町角田の小沢(こさわ)という所に小沢城、相模原市の磯部に磯部城という城があった。城といってももちろんこのころのことであるから、天守閣がそびえる城郭と呼ばれるようなものではなく、いざというときに立てこもる程度のものであったらしい。

愛川町郷土誌によると、小沢城は中津台地の東北隅の突端に位置し、現在城址の北半分は山砂利採取のために消失し遺構としては空堀、土塁、曲輪跡などが残ってるという。城の大手にあたる坂は「城坂」と呼ばれ、空堀はその坂上の平地にあって北側が本丸跡とされている、とある。

また、磯部城については新編相模国風土記稿に「磯部城蹟。今其地を詳かにせず、村の西南の方に堀之内、二重堀等の小名あり、これ城蹟の遺名なるべしと云へり……」とある。 小沢城主は関東管領山ノ内上杉顕定の老臣長尾景春に属する金子掃部助という武将であった。

文明九年(一四七七年)の正月に、景春は主家に背いて軍を起こした。当然のことながら掃部助も景春に味方し、兵を集めてこの城に立てこもった。これに対し扇ヶ谷上杉氏の執事太田道灌は、兵を送って小沢城を七日七夜にわたって攻め立てた。そして激しい攻防戦の末、その年の四月十八日に城はついに敵の手に落ちた。

一方景春は磯部城に軍を集結し、武蔵、相模の各地に転戦したが、戦利あらず翌十年三月、ついに城を捨て敗走せざるを得なかった。そして、これらの戦に参戦したらしい我が郷土の海老名氏や厚木の溝呂木氏らの同志とともに、他日を期して西丹沢の三保の奥に落ち延びたのであった。

この戦乱の際、掃部助の奥方は折悪しく臨月の身体であった。だが、気丈にもやがて生まれ出る我が子を護らねばと、金子家累代の菩提寺である下荻野(厚木市)は新宿の法界寺を避難場所と決め、城を逃れ出た。そして侍女一人を伴い、ひたすら角田より荻野への道を急ぎに急いだ。

ところが、中津川にかかる才戸橋を望む坂本の集落へたどり着いたとき、心身の疲労のため路上にどっと倒れ込んでしまった。侍女はあまりのことにただおろおろするばかり。これを見た村人たちは大層あわれに思い、厚い介護の手を差し伸べた。そればかりか折から産気づいた奥方を励まし、無事出産の介添えまでしたのだった。

奥方はこの里人のひとかたならぬ親切心にほだされて、この地を第二のふるさとと決め永住したのだった。これが坂本にある金子姓の起こりという。

生まれた赤児は女子で梅ヶ枝と命名されたが、哀れにもたちまち亡くなってしまった。境院容誉光童子はその戒名で、檀那寺の法界寺には今も高さ四十六センチのその位牌が安置されているという。

掃部助と奥方との間にはすでに成人した美女の姫君があった。姫は早くから有鹿郷士海老名某の御曹司と婚約中で、河原口の海老名館に来ていたが、小沢城危うしの風聞に急ぎ小沢に戻って行った。

が、時すでに遅く父は戦死、母は下荻野へ落ちて行ったと聞き、すっかり生きる望みを失ってしまった。

覚悟のほぞを決めた姫は、見苦しい姿を人目にさらしたくないと、薄化粧に盛装し、ほど近い還浄寺の裏手の崖上に立った。そしてまだ燃えしきる城を後に天に向かって合掌し、ざんぶとばかり相模川に身を投げたのである。

するとどうであろう。さしも美しかった姫の身体は、たちまち恐ろしい大蛇に変身し素早い泳ぎを見せて下流に向かった。

途中、勢い余って六倉集落の突鼻に突っ掛かり大きく身震いした。と、相模川の水が空高く舞い上がって中津の原に大きな水溜まりができた。さらに水しぶきを上げながら下って行ったが、河原口に近づくと、姫は再び息絶えた人の姿になって、有鹿神社の裏の河原に打ち上げられた。

神社の氏子らは、海老名に嫁ぐ日を夢見ていた姫の死を悲しみ、せめてもにと「有鹿姫」の名を贈り、神社の鐘楼堂跡の空き地にその亡きがらを葬った。

今、有鹿神社の鳥居と道一つ隔てた向かい側の有鹿小学校の校地の一隅に、高さ百九十四センチ、幅十五センチの一つの碑が建っている。それには正面に「有鹿姫の霊地史跡」左側面に「元鐘楼堂跡」右側面に「昭和五十七年七月十四日建」と刻まれており、若くして散った娘をしのぶよすがとなっている。(池田武治)

『海老名むかしばなし 第六集』
(海老名市広報広聴課)より

追記