大池の弁天様

神奈川県茅ヶ崎市


昔、清兵衛新田のあたりに茅・葦に囲まれた大池があった。そこを清兵衛が開拓しようとしたのだが、どこから鎌・鍬を入れたらよいものか、手のつけようもない。そこで清兵衛は人夫を促し、火を放ち焼き払おうとした。

ところが、火が燃え広がると同時に、穏やかだった空は俄かに掻き曇り、大風に荒れた。そして、鳥獣が逃げまどい、火勢は天をも焦さんとする刹那、猛獣か大蛇か恐ろしい怪物が、火にを呼び風に乗って黒雲とともに西の千ノ川の下流に落ちた。

こうして天は晴れ、風もおさまったが、あれは大池の主の大蛇だったのだ、と皆言い合った。その後、清兵衛の家には凶事があり、池畔に祠を建てて弁財天を祭った。百年ばかり前のことだ。(『茅ヶ崎郷土史』昭和34年)

『茅ヶ崎の伝説』
郷土史研究グループ「あしかび」
(茅ヶ崎市教育委員会)より要約

追記

今、清兵衛新田という名は地図などにも見えないが、茅ヶ崎駅北口を出てすぐ東側(元町地内)となる。葦原・大池などの面影はもうない。清兵衛は伊藤清兵衛といい、子孫が明治に入って醤油屋を開いた。駅前カギサンビルの前身である。

凶事とは二代目あたりの伊藤醤油本社全焼のことだろうか。件の弁天はその後、二遷三遷して、今は茅ヶ崎駅北口から西に行ったところの新栄町厳島神社に合祀されている。

もっとも、上で怪物の出現と語られている話も、大池で遊んだ記憶もある古老の話では、開拓に伴って死んだ蛇の供養程度の話となっており(「大きな池のあった神社」)、ここにも話の大きさにギャップが見える。

このあたりの幕末から明治あたりに拓かれた湿地の話には、ままこういった傾向があり(「へーべー塚」など)、現実的な供養の話から怪異譚が出てくる様子がうかがえる。

ところで、薄い線ではあるが、伊藤醤油屋がそもそも蛇・弁天を祀っていたということはないか、という興味がある。醤油屋にはそういう例があるのだ(「玄蕃山の白蛇」)。醤油屋はきき醤油に蛇の目のお猪口を使うが、そのあたりの痕跡があったら面白い。