鎖大師

神奈川県鎌倉市


手広に真言宗飯盛山青蓮寺がある。寺によると、弘仁十年、弘法大師がこの地で護摩を修していると、美しい天女が現れ、護摩の助法や食事の世話を勤めたという。天女は護摩が終わるとともに、自分は西南の孤島(江ノ島)へ行き、大師の来島修法を待つ、と告げ消えた。

翌朝傍らの池には一夜のうちに蓮華が生じ、青色の花を咲かせたので、大師は有縁の地と悟り、江ノ島で修した護摩の灰で弁才天像を作り、故地には一寺を建立した。これが青蓮寺であると。

『書かれない郷土史』川口謙二
(錦正社)より要約

追記

青蓮寺は今もある(鎖大師というのは寺の通称・鎖を持った大師像がある)。天保に火災にあうまではかなり大きな寺であったという。弁天像というのは今はもうないだろうか。青蓮寺の話は藤沢市の資料のほうによく見えるのだが、現住所としては鎌倉市となる(寺のすぐ南の切通しが境だったのだろう)。

さて、上の話だと江の島弁天が弘法大師を招いたという話で、この地はその縁故の地というほどのものなのだが、昔話としては、江の島の竜はもともとここに棲んでいたとするものがある(「江島弁天と大師さま」)。

手広から南西は、縁起にいう五頭竜のいたという湖(「江島縁起・五頭竜と弁才天」)が想定される土地であってみれば、そこに何かあるのか、という気もする。