天野家の伝説

神奈川県相模原市中央区


淵野辺に天野という旧家がある。元和の頃は代官であり、旧幕時代は代々名主であった。その先祖は、南北朝の頃に主君と意を別にして、七人の従士と淵野辺に来て落ち着き、皆天野を名乗ったのだという。

今の当主は、大沼の大蛇を退治したのは天野家の祖先である、という。屋敷から見晴らす広いところが昔池で、そこに棲む大蛇を天野の屋敷から矢を放って退治したと。その矢の止まったところを「矢ばけ」といい、今も地名に残っているという。

南北朝時代と大蛇退治ということで、淵辺義博の大蛇退治の伝を髣髴とさせ、天野家を淵辺居館跡とする向きもあるが、火事で記録を失ったといい、文書は何もない。(小泉輝三朗「護良親王の最後に関する伝記(その二)」要約)

『郷土相模原 第七集』相模原市教育研究所
(相模原市教育委員会)より要約

追記

当地には足利直義の家臣・淵辺伊賀守義博が住み、大池の大蛇を討伐したという伝説がある(「義博の大蛇退治」)。その一方で、土地の旧家にこのような伝もある、ということだ。

悩ましいのは天野一族と淵辺義博の関係で、時代背景としては天野一族が義博の臣下であった、という可能性もある。しかし、これがわからないのだそうな。大蛇討伐の話も、巷では淵辺義博が討ったというが、天野家では天野の先祖が討ったと伝えてえている、という風だ。

淵辺義博の大蛇退治の話は、大塔宮殺害の汚名をそそぐべく語られたものという面があり(「翁頭宮」)、もともと義博とは別に大蛇退治の話はあったのじゃないか、とは十分に考えられる。