天野家の伝説

原文:神奈川県相模原市中央区


渕野辺に旧家天野重勇氏という家がある。新編相模国風土記稿にも旧家として記され、元和の頃天野孫平はこの土地の代官であり、旧幕時代にはずつと名主を勤めた名家である。

家に伝わる伝説として、天野家の祖先は南北朝の頃自分の主君と意見の合わない事があつて、主君と別れ、自分の従士七人と渕野辺に来て落付いた。七人の従士は皆天野姓を名乗り、小者一人には高坂姓を名乗らせたという渕野辺七百四十五番地高坂竹松氏方でも右に相応した様な言伝がある。近古迄はこの一族は冠婚葬祭年賀等には、宗家たる天野重勇氏方に皆集つたものであるという。当主重勇氏などは、大沼の大蛇を退治したのは天野家の祖先である。天野の屋敷から見はるかす広い処が昔は水を湛えた広い池で、そこに住んでいた大蛇を天野の家から矢を放って退治した。矢の止つた場所を「矢ばけ」といい今も地名に残つている。といつている。

主君と意見の合わぬ事があつて、主従七八人が南北朝の頃帰農したというあたり、又大沼の大蛇を退治したというあたり、更に又、天野の屋敷は中渕古渕あたりを一目に見渡せる高台で一町歩位もありそうな大きな屋敷が、昔は下屋敷中屋敷上屋敷という三段に分れていたなどいうあたり、渕辺伊賀守の伝説に髣髴するものがあるが、天野家も火事で記録を失つたといつて文書は何もない。上屋敷下屋敷という事は、鈴木家文書にも出て来る事であり、相模風土記稿や、相模風土記稿に拠て書いている神奈川文庫などは、天野家の屋敷をこめて、三町四方ばかりの高台を渕辺居館の地と見ている。(後半・天野家の菩提寺の記など略)

『郷土相模原 第七集』相模原市教育研究所
(相模原市教育委員会)より

追記