矢野の大池の主

長野県下伊那郡阿南町

旦開村の庄屋に器量の良い一人娘があり、村中の評判だった。年頃故に村の若者たちも色めいていたが、折から何処の家の者とも知れぬ美男が一人、夜な夜な通うようになった。どこへ帰るのかも言わない男だったが、日が重なり、娘は身重になった。

しかし素性の知れぬ男に悩む娘を心配し、母が巫女に頼むと、相手は魔性の物であり、忍んでくる道筋に針を植えておくよう教えられた。その夜、そのようにしてみると、朝になり大きな鱗が一枚落ちており、その夜限り男は来なくなった。

それから二三日後、猟師が大池の畔で一匹の大猪を撃った。確かに手ごたえがあったが、猪は大池の中へ飛び込み、池の水が真っ赤に染まった。さらに数日後、また猟師が大池の畔へ行くと、水底から話し合う声が聞こえた。

声は、父は猪の姿をして撃たれ、そなたは針に刺されて助かるまい、ヌシの血筋が絶えるのが残念だ、といっており、自分は針の毒で亡くなっても矢野の家へ子どもを残してあるから心配ない、という答えがあった。猟師は庄屋家に通って来ていた者が大池のヌシの子であると知り驚き、庄屋に注進した。

話を聞き、皆腰を抜かして驚いたが、やがて娘が産気づき、幾筋もの小蛇が生まれてきたという。ヌシのなくなった大池は水が涸れて小さな沼となったが、その下を流れる大村川には日に三度ずつヌシの血が流れて来るということである。

岩崎清美『伊那の伝説』
(山村書院・昭8)より要約

現在の下伊那郡阿南町新野内(東側)となる。旦開村と書いて「あさげ」村と読む面白い名の土地だったようだ。話の骨子は「立ち聞き型」に分類される蛇聟譚だが、途中から父のヌシが猪に化けていて撃たれるという話が混ざってきている。