豊島池の大蛇

愛知県田原市

寛延の頃、古田に鉄砲の名人である六蔵という領主付の御狩番がいた。ある日狩に出て、前山のあたりで眠気を覚え、草原に昼寝をした。すると、何か足に触れるものがある。目をあけると尺に足らぬ蛇が足を越えようとしていたので、六蔵は鉄砲で払った。

と、突然前方に大猪が駆けるのを見つけ、六蔵は西山へと追い、撃ち取った。しかし、近づいてみると、猪ではなく丈余の大蛇が苦しんでいた。折から嵐となり、六蔵は命からがら家へ逃げ帰った。そして、止めのために、裏の小窓から金銀の弾丸を撃った。

翌日行くと、大蛇は死骸となっていた。六蔵はその頭を切って持ち帰ったが、間もなく名も知れぬ病で死んだという。一説には、逃げ帰る間に山田村の泉福寺に到り、和尚の勧めで止めの弾を撃ったともいう。

また、この時六蔵の妻は身重で、生まれた娘「おくす」は美しく育った。しかし、長ずると、自分は豊島池の主である、成人したら人を呑む、などと口走るようになったので座敷牢に入れられた。後にこれを破って豊島池三本松のところで入水したという。

六蔵の妻も娘の死んだ翌年に死んだ。かくして六蔵の家は絶えたが、その田畑山林を相続するものも、家に不具者が出来たり不幸が絶えなかったという。

愛知県教育会編『愛知県伝説集』
(郷土研究社・昭12)より要約

今の田原市亀山あたりの話になる。豊島池(とじまがいけ)はもうないが、豊島神社があり、そのあたりにあったのだろうと思われる。この池は、白馬がそのヌシであったという話もあり、辰・巳・午に亥と揃った場所であった。

猟師が切り札として持つ(多くはそれを使ったら猟をやめないといけないという)、止めの弾を対象が見えないところで撃っているところなど興味深いが、今は竜蛇が猪に化けている事例の参考話として引いた。