来宮・杉桙別命神社

索部:伊豆神社ノオト:2011.10.27

この河津来宮・杉桙別命神社に関しては、式内社である点・キノミヤの代表的な社である点・伊豆山権現と深くかかわる社である点、の三つの点が大きく問題となる。すなわち伊豆半島東側に見る、伊豆三嶋信仰・キノミヤ信仰・伊豆山修験という極めて重要な要素が重なるのであり、要するに話が長くなる。以下の各項に分けて述べることにする。

INDEX

基本情報と式内社である点について

祭 神:杉桙別命
相 殿:五十猛命
    少彦名命
創 建:不詳(和銅年間再建・伝)
    式内:杉桙別命神社
例祭日:十月十四より十六日
社 殿:流造/南南東向き
住 所:賀茂郡河津町田中

『河津町の神社』など

大概の資料に合祀社として姫宮神社・若宮八幡神社・蔭山神社の名があるが、これらは姫宮神社(式内:佐々原比咩命神社)として近年復祀されている。また、社殿(本殿)は南南東に向いているが、御神体は北北東天城山を向いて置かれていると言われる[資料2](共に後述)。

来宮・杉桙別命神社
来宮・杉桙別命神社
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伊豆急河津駅下の道を北北西へ向い、「河津桜観光交流館」の少し先から細い道へ入る。かつての参道の名残りだろう。そのあたりからは既に社叢が見える。駅からは1km弱、くらいだろうか。一帯は田中という字だが、社地は木野という小字だったという。西側に河津川を望み、少しだけ高くなった土地に鎮座される。

式内:杉桙別命神社であるとされ、ほぼ異論はない。諸本一致でまず確定だろうとされる。中世の『伊豆國神階帳』に見る「従四位上 ほこわけの明神」として源頼朝・将軍:藤原頼経・将軍:足利義稙らの再建・修復があったと伝わり、幕末の早い時期から「ほこわけの明神=杉桙別命」と確定社とされたので式内社としての議論はこれにつきる[資料1]

文書記録の有無を別にしても(河津川の洪水に苦しんだ神社なので古記録には恵まれない)河津来宮・杉桙別神社は古来河津一帯の総鎮守であることに疑問の余地のない社だ。南東400mほどの所に復祀された(元地は別)同じく式内確定社とされる「姫宮神社(式内:佐々原比咩命神社)」と併せて「奥伊豆最古の社」の看板を謳っている[資料2]

姫宮神社
姫宮神社
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これは、考古学的にも根拠のある話で、河津来宮・杉桙別神社の南側・笹原地区の平地からは縄文晩期末から弥生時代中期、古墳時代、平安時代の複合遺跡「姫宮遺跡」が発見されている。特に五世紀から六世紀にかけてのものと思われる青銅製儀鏡、土製の丸玉・鏡、石製の勾玉・剣形品・有孔円板・紡錘車などの遺物は南伊豆町の賀茂の中心と見られる日詰遺跡に同様する出土状況であり、ともに南豆を代表する古墳時代の祭祀遺構とされる[資料6]。南豆は南伊豆町青野川・下田市稲生沢川・河津町河津川の三本の河川流域に文化のセンタがあったと考えられ、そのひとつとなるわけだ。並みいる伊豆の式内社の中でも別格の祭祀地であったことは間違いない。

しかし、地元ではここは「キノミヤ(来宮)さん」であり、杉桙別命と御祭神を伝えてきた訳ではない。近世を通じて「来宮明神・木野明神・木野宮明神」などであり[資料2]、杉桙別命神社の社号となったのは明治二年のことである。おそらく現在でも周辺ほとんどの方は杉桙別命という名は認識していない。先に述べたように式内社としての確定が比較的早いので社伝や周辺伝承も「杉桙別命が……」と語られるが、もともとは「来宮大明神が……」だったと思われる。さらに、杉桙別命そのものの神格・係累などもまったく分からない。伊豆三嶋神話をまとめた『三宅記』にも見ない。

つまり「式内杉桙別命の社だ」ということを言っても、この地にどのような信仰が連綿としてきたのかを語ることにはならないのだ。では、その「キノミヤさん」というのがどのようなもので、河津来宮がどのような側面を持っているのかを見ていこう。

周辺地図
周辺地図
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キノミヤとしての側面

伊豆半島東側から西相模の(多くは)海側に「キノミヤ(来宮・木宮など)」と称する神社が点在しており、「海より流れ来る神(来宮)」「樹木の神(木宮)」「忌み事を課す神(忌宮)」の意が交錯している信仰である。ここ河津来宮は棟札などに「来宮・木の宮・木野明神」と見えるように古来キノミヤであり[資料3]、そのすべての側面を強く今に伝えている、あるいはキノミヤ信仰のひな形かもしれない社である。

鬼ヶ崎
鬼ヶ崎
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まず、このうち「海より流れ来る神・来宮」の側面を見てみよう。河津来宮の御祭神は海上舟で「木崎明神」とともに来られ、河津川河口の南側に突き出している木ヶ崎(現・鬼ヶ崎)に上陸されたという。木崎明神はそのまま岬にとどまり祀られ(かつて来宮の下の宮と呼ばれていた)、来宮大明神は現社地へと遷られ鎮座されたそうな[資料2]。私はキノミヤ信仰には浜に祀られる「来宮」が内地に遷って「木宮」となるベクトルがあるのではないかと考えているのだが、この話もそうであると言えよう。

話により異同があるが、鬼ヶ崎の南のセンゾクという名の岩が両神が乗って来られた舟だと伝わり、大島より来られたのだという[資料9]。岬・湾の海上・海中の大岩を神の乗ってきた舟・神の舟のついた神石に見立てることは西伊豆宇久須の出崎神社、下田の白濱(伊古奈比咩命)神社、伊東の新井神社、伊東宇佐美の比波預天神社などにも見られ、この地域の寄り神信仰の典型なのだと思われる。

この河津来宮の「来宮譚」は、実はまとまった話としては伊豆山権現の地主神・白道神の熱海よりの来訪としても伝えられているのだが(伊豆山との関係に関しては後述)[資料2]、周辺各社の伝承との類似を見ていくと伊豆山の介入を待たずして共有されていた話があるのだろうと思わざるを得ない。では、他のキノミヤとの類似点を見てみよう。特に、伊東の八幡宮来宮神社の来宮譚と熱海来宮神社の来宮譚との類似点を指摘しておきたい。

八幡宮来宮神社
八幡宮来宮神社
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伊東八幡宮来宮の来宮(式内:伊波久良和氣命神社の論社でもある)の神は、海上甕(亀とも)に乗りやって来られ、海岸の岩倉に鎮座されたが、大層酒好きであり、洋上酒を積み行く船を停めてしまうので、海の見えない現社地に遷された、と伝わっている[資料5]

一方、河津来宮大明神も「御神体を浜の方角に祀ると沖を通る船が進まないので、天城山の方角に向けて祀っている」と伝承されている。御神体は十寸ほどの体形で、ほかに白紙幣束と小剣一振りだそうな(また、本地仏として地蔵と薬師の像)[資料2]。酒を積んだ船を停める、とは言っていないが、そもそもキノミヤの神というのは大酒飲みが祟って失敗された神であるので(後述)、酒好きという点はもとより共通している。

熱海・来宮神社
熱海・来宮神社
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そして、熱海来宮の御神体は海上漂ってきた「ボク(木の根)」なのだが、これが「波の音が甚だ耳障りだ」と言われたので内地に遷されたのだと伝わる[資料5]。船足を停める、という話とは違うが、『日本の神々』(白水社)でこの辺りの東伊豆の神社について担当された木村博はキノミヤの内地への遷座という共通項の背後には「潮騒の禁忌」という理があったのではないかと指摘している。

また、熱海と河津の来宮にはさらに類似している点がある。熱海来宮のボクの御神体は潮騒を嫌い、「これより西方の山地に七株の樟の木があり、そこは波の音が聞こえない静な所だから……」と申されたというのだが、一方の河津来宮が遷られた現社地にはかつて「河津七抱七楠」と呼ばれた七本の楠の巨木があったのだと伝わる(来宮・杉桙別神社御神木の境内案内文より)。これは偶然ではないだろう。

このように「来宮譚」というのは中世以降の格式立った神祀りとはかけ離れたプリミティブな由来を語る面が多々あり、それらが一連のものとして伊豆半島東側に共有されていたならば、河津来宮の来宮譚もまたそうであったと思われるのだ。そこから伊豆山修験の介入による再構成までの道のりがどうであったのかは私見となるので最後に述べるが、いずれにしても上のような周辺各社の類似の伝承を通して見て行くことが肝要であることには注意しておきたい。

河津八幡神社
河津八幡神社
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ちなみに河津来宮大明神と一緒に来られたという木崎明神はその後、河津駅から河津川を渡った谷津の「河津八幡神社」に合祀されている[資料2]。現在鬼ヶ崎の上には「龍宮神社」の小祠があるが、これが木崎明神の元地なのかどうかは分からない。

御神木の大楠
御神木の大楠
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では、次にその「木宮」の側面を見てみよう。

現在社殿向って左奥に上写真の大楠が御神木として祀られている。樹齢千年をこえると見られる国指定天然記念物の堂々たる大樹で、先の「河津七抱七楠」の最後の生き残りだと伝わっている。しかし、御祭神が杉桙別命だとすると杉が御神木であるのが本来ではないかと思われるのだが、この点に関しては『南豆神祇誌』の足立鍬太郎が以下のように述べている(『南豆神祇誌』上ではない)[資料2]。これは他に見ない話なので引用しておこう。

足立鍬太郎は、杉桙の由来として、「ほこわけの神は、初め杉の大木を桙杉として、御神体に祀っていた。この杉の大木はいつしか枯れてしまった。その後、楠が大木となって御神木になったが、永く御神木であった桙杉がいつしか杉桙となり、式内神・ほこわけの頭に杉桙をつけて、すぎほこわけと呼ばれるようになったのであろう。」と、説明している。

『河津町の神社』より引用

この地に楠の前に桙杉なる大杉があった、という話を伝えるのはこの話だけなのだが、吉田東伍が河津の項にわずかに「来宮は此に杉樹を祭れる者と知るべし」と記していることは一応付しておく(来宮一般のことを言っているのかもしれないが)[資料14]

境内社
境内社
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なお、現在来宮・杉桙別命神社では上写真のように境内社が固まっており、多くは手前の石祠として祀られているが、奥の一宇に別格として三社の祠が祀られている。額には「秋葉山神社・山神社」の二社の名のみ見えるが、三社目が「大楠神社」であり、祭神不詳となっているが、御神木の大楠の社に相違なかろう[資料2]

さて、杉であっても楠であっても、キノミヤが内地に遷って大樹を祀る、あるいは大樹のある内地に遷されるという次第は共通であり、伊東八幡宮来宮神社(大杉)も熱海来宮神社(大楠)も大樹を祀っている。が、何故海より来る来宮が樹木信仰の木宮に変換、ないし接続するのかというとよく分からない。ものすごく大枠をとると南海九州から紀伊、そして伊豆・房総と黒潮の流れに沿って大樹を信仰したのだとされ、折口信夫は以下のように言う。

我々の祖たちが、此国に渡って来たのは、現在までも村々で行なわれている、「ゆい」の組織の強い団結力によって、波濤を押し分けて来ることが出来たのだろうと考えられる。その漂着した海岸は、「たぶ」の木の杜に近い処であった。其処の渚の砂を踏みしめて先、感じたものは、青海の大きな拡りと妣の国への追慕とであったろう。

折口信夫『上代日本の文学』より引用

このように、海を渡って来た人々が漂着の記憶を漂著神(ヨリガミ)として祀り、大海を渡った舟の材料となるタブの木や楠・樟(くすの木)を神木として祀った、その流れの一環であるとはされ、私もキノミヤの根底はそうだと思う。しかし、その帰結として具体的にどのような海と大樹を繋ぐ信仰・民俗が残されているのかというと、難しい。伊東市宇佐美の春日神社に、境内の大楠が刈られ、徳川家光の御座船「安宅丸」の船材として使われたのだが、安宅丸の船倉からは夜な夜な「伊豆いこう」という奇怪な声が聞こえた、という話があり(境内の掲示による)、なるほどと思わせる所もあるが、他に類似の話を聞くこともない。

一方で、私は各キノミヤが一定間隔に鎮座している可能性を考えており、もしそうであったならば大木は海上からのメルクマール「あて木」になるのではないかとも思っている。

キノミヤの分布
キノミヤの分布
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無論「可能性」であり、現状それを示唆する他資料というものも見ない。詳細に関してもこれはキノミヤ全体に関する議論となるので稿を改めよう。ここでは海・船・大樹を繋ぐ線として、その可能性を指摘するにとどめる。

いずれにしてもこれらが来宮・木宮の側面となるのだが、漠然とはその連絡が感じられるだろうか。海より来る神は内地に遷ってその海を見守る大樹の神となる。大筋ではそういうことだろう。しかし、キノミヤにはさらに第三の特徴「忌宮」にまつわる側面がある。これは来と木を繋げるよりもさらに難解だ。河津来宮はその「忌宮」についても強力な祭祀を今に伝えており、続いてその詳細を見ていこう。

御籠り堂
御籠り堂
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本社殿向って左の手前には上写真の「御籠り堂」がある。この建物そのものも河津川上流の小鍋にある小鍋神社の別当寺の建物を移築(外装は現代のものか)したもので、その話も興味深いのだが、それは小鍋神社の稿に譲る。ともかく、ここを中心に河津の年末の物忌みの祭祀が行われるのである。これを「鳥精進・酒精進」と言い、十二月十七日より二十四日の一週間、河津では酒を飲むこと、鶏肉(卵までも)を食べることが禁じられる。これは御祭神の失敗談に基づくとされ、以下のような話が伝わっている[資料5]

大昔、杉桙別命が酒に酔っぱらって歩いていたが、そのうち眠くなって、枯草のなかで眠ってしまった。そのとき野火が起こり、命の近くまで迫ってきた。ようやく目を覚ましたときは、もうすっかり野火に取り囲まれ、絶体絶命の状態であった。すると、どこからともなく小鳥の大群がやってきて、濡れている羽から水滴をたらしていった。それは次から次へとくり返された。そして、さしもの野火も消え、命は危うく一命をとり止めることができた。そのため、当社の氏子たちは十二月十七日から二十四日までの一週間酒を断ち、小鳥を捕らないことになっている。その禁を犯せばたちまち神の怒りに触れ、火に祟られる。

『日本の神々』より引用

と、いうことなのだ。これはお隣東伊豆町白田の来宮・志理太乎宜神社でもほぼ共通している。また、熱海来宮も「禁酒の神徳(酒断ちの神徳)」で有名である(物忌みとは少し違うが)。

さらなる源流としては伊豆諸島神津島に見るような強力な年末の物忌み(忌の日・きのひ、という。年末は神々が飛行するとして、一定期間家からも出ない)があるかと思うが、半島側で一定の式次第をもってまとめられたものとして河津の「鳥精進・酒精進」の忌事は「忌宮」の側面を代表しているだろう。この島嶼の「忌の日」と河津の「鳥精進・酒精進」との比較には大変重要なポイントがあるので、私見ではあるがここで述べておこう。

伊豆諸島では忌の日の間に外に出て「飛行する神々を見てしまうと障りがある(命がない)」としているが[資料6]、根本的な話として忌の日とは神々の移動・神々の不在に関するものだ。本来的には神が不在となり、普段の守護を受けることができなくなる時期なので忌み籠るのである。この点が河津の鳥精進・酒精進を見る上でも重要となる。上で見た由来の説話では「その禁を犯せばたちまち神の怒りに触れ、火に祟られる」とされているのだが、そうではなく、「鳥・酒をとると火に祟られる」のがデフォルトなのだ。普段は火に祟られないように神による守護があるのである。その神が不在となる間(鳥精進・酒精進の期間)は守護が受けられないので鳥・酒をとると火に祟られてしまう。そう、考えるとつじつまが合ってくる。

それが何故「鳥・酒」なのかというと、分からない。特にアイデアもない。しかし、「神の不在」という点が「忌宮」の主軸なのだとすることによって、「来宮・木宮」と接続して行けるのではないかと考える。浜に来られ、内地に遷ったキノミヤの神は、年末には内地から浜へ、そして海上へと一旦去るのではないか。そのような動的な次第が「忌宮」としての第三の軸をキノミヤ信仰にもたらしているのではないかと思う。

以上、河津来宮・杉桙別命神社がキノミヤとして持つ「来宮・木宮・忌宮」三つの側面を概観した。一部私見に走っているが、おおよそこの社のキノミヤとしての特徴は紹介しただろう。そして、このキノミヤの幾つかの特徴に関しては、実は思いがけなく古い記録があるのである。

伊豆山(走湯)権現の縁起である『走湯山縁起』は鎌倉初期、十三世紀初頭には成立していたと思われるのだが、ここにすでに「……楠山の麓に勧請す、世の人来(き)の大明神と号す是なり。之れに依り来の明神は酒味を憎み云々」とある[資料12]。キノミヤの最古記録でもあるのだが、来・木(楠山)・酒を憎み、と三要素が揃っている。先にも述べたように、実はキノミヤ信仰には大きく伊豆山権現(走湯権現)がかかわってくる。この「御祭神の酒での失敗」に関しても伊豆山側ではまた少し違った話を伝えているのだ。では次に、そこに伊豆山がどのように関係してくるのかを見ていこう。

伊豆山権現との関係

伊豆山神社
伊豆山神社
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掛川誌稿伊豆国の来宮大明神の項に「五十猛を祀る。一説に伊豆山の地主白道明神なりと云へり、伊豆権現高麗に飛去り給し時、此明神、迎に行て大に酒に鎮酔し、期日に誤る。故に今祭礼の間、社人・社僧十二月朔日より廿四日まで禁酒す。郷中の者も十七日より八日の間酒及び鳥肉を禁す」と書かれている。

『河津町の神社』より引用

『掛川誌稿』は江戸時代後期、文化年間頃の今の静岡周辺の動向を伝える貴重な史料なのだが、そこではこのように先の「鳥精進・酒精進」の由来が語られているのだ[資料2]。すなわち伊豆山の地主の神・白道明神が来宮大明神なのであり、それは五十猛命なのだということになっている。この流れは河津来宮・杉桙別命神社にも入っており、社伝では「来宮」の項で見た河津に海上来られた神をこの白道明神であるとしている。また、そもそも来宮大明神の祭祀者である地蔵院の本寺は伊豆山権現別当の般若院なので、来宮は伊豆山の管轄下にあると言える[資料2]

しかしこれも難しい話で、伊豆山の勢力が拡大する以前からあったキノミヤ信仰を伊豆山が吸収・再構成した、のであるか、そもそもキノミヤ信仰とは伊豆山が発案して広めたもの、なのであるのかと問うとにわかに答えることはできない。来宮(来の大明神)の初見は『走湯山縁起』なのであり、それより古い文書記録はないのだ。

前段キノミヤの側面に見たように、この信仰には大変古くに遡るようなモチーフがままあることから、基本的に前者であるとは思われる。が、そうなると今度は「何故伊豆山はキノミヤを吸収しようとしたのか」という問題が浮上してくる。話を先取りするならば、これは、伊豆山に先んじて伊豆半島・伊豆諸島に根づいていた古代伊豆三嶋信仰と伊豆山修験との関係そのものを語ることでもある。河津来宮・杉桙別神社への伊豆山の影響を考えるには、この「伊豆山の目論み」を承知している必要があるのだ。以下やや遠回りになるが、キノミヤ信仰・伊豆三嶋信仰と伊豆山との関係に視点を置いた論があまりないこともあり、そのあたりの基本的な事柄を解説して行く。

詳細は箱根神社なり伊豆山神社なりの稿とし、大雑把に大枠を述べよう。源頼朝の旗揚げに際しそれを助けた箱根権現と伊豆山権現は、鎌倉幕府(幕府とは当時は言わないが)成立後厚遇され、鎌倉総守護の鶴岡八幡宮に準ずる準宗祀の神格とされた。頼朝がその恩を忘れずに毎年箱根・伊豆山を詣でた「二所詣」は有名である。

箱根神社
箱根神社
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これに応じて権現側ではそれに見合った縁起の編纂がすすめられた。これは箱根側のものだが、箱根山縁起の『二所権現事』が『神道集』に収められているので読みやすいだろう[資料10]。同時に伊豆山の『走湯山縁起』も編纂されたが、この段階では箱根・伊豆山の縁起は大きく異なっている(大磯高麗山からの遷座など、既に細部に共通項はあるが)。ここで注目されるのは箱根の『二所権現事』の方で、箱根・伊豆山の両方の縁起となっている点だ。すなわち、ゆくゆくはこの辺りを統合した神話が構築されるはずだったのではないかと思われる、ということだ(あるいは『日本書紀』のように「一書曰く」のようにまとめるつもりだったのかもしれない)。

さらに、加えて頼朝が厚遇したこの地の信仰に伊豆三嶋大明神がある。こちら側でも二権現同様に縁起の編纂がすすめられ、これは通称『三宅記』という伊豆三嶋大神の神話として結実して行く(伝世した各書に統一した題名はない)[資料13]。『二所権現事』と『三宅記』は筋書きはまるで違うが、細部の構成などを見比べれば同じような発想に基づくものである事は一目瞭然である。

そして、箱根・伊豆の二権現の縁起に加え、三嶋大明神の縁起もそこに接続される予定だったのではないかと思われる節があるのだ。頼朝の当初の二所詣が、後に箱根・伊豆山・三島大社と詣でる「三所詣」となったことにまずそれが現われているが、史料上もそれを思わせるものがある。神奈川県足柄上郡山北町平山の平井家に伝世した『箱根権現縁起絵巻』という安土・桃山時代の絵巻がそうだ[資料11]。『二所権現事』に同様の箱根山の縁起絵巻である。平成十三年にはじめて公的な見分が行われ、平成十六年に報告が出たものなので、まだあまり各論に反映されていない。『神道集』に収められた『二所権現事』は鎌倉末から南北朝期の編纂だが、箱根・伊豆を舞台に縁起は終る。しかし、『箱根権現縁起絵巻』(平井家本)では、最後に三島大社が出てくる。では、『二所権現事』と『箱根権現縁起絵巻』の筋を拾って見てみよう。

高麗山山頂上宮跡地
高麗山山頂上宮跡地
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天竺の斯羅奈国の中将には子がなかったが、観音菩薩に参詣して美しい姫・常在御前を得た。常在御前が五歳の時、母が亡くなる。中将は後妻を迎え、今度は霊鷲御前という美しい妹姫を得た。
中将が都に上り不在の間に、後妻の北の方は前妻との間の娘、常在御前を亡きものとしようとする。しかし、妹の霊鷲御前は姉を慕っており、幾度となく助けた。それでも北の方の手は緩まなかったのだが、波羅奈国(高麗)の二人の王子(太郎王子と次郎王子)が通りかかり二人の姫を救う。王子たちは姉妹を波羅奈国に連れ帰り、太郎王子は常在御前を、次郎王子は霊鷲御前を后にした。
都からもどった中将は娘たちがいなくなった事を知り、出家して波羅奈国へ行き、姉妹と面会する。一方の北の方は大蛇の姿となって波羅奈国へと向う。北の方が追って来る噂を聞いた中将・太郎王子・次郎王子・常在御前・霊鷲御前は日本へと逃れる事にした。一行は相模大磯、高札寺(高麗寺)へと至る。

『二所権現事』より要約

ここまでの筋は同様である。神社の由緒としては「高麗山に降り立つ」と表現されるが。この高麗山に一夜とどまり、後、それぞれが箱根と伊豆山、そして三島大社に神として示顕される事になる。ここで話が違って来るのだが、比較すると以下の通り。

『二所権現事』(神道集)
・箱根山の神として、常在御前・太郎王子・中将が示顕する。
・伊豆山の神として、霊鷲御前・次郎王子が示顕する。
・追って来た北の方(大蛇)は次郎王子の呪法により、伊豆・相模の国境で石となる。
・長い年月の後、箱根の神々は箱根万巻上人の前に現われ由来を説く。

『箱根権現縁起絵巻』(平井家本)
・箱根山の神として、霊鷲御前が示顕する。
・伊豆山の神として、常在御前が示顕する。
・三嶋大明神として、中将が示顕する。
・追って来た北の方(大蛇)は万巻上人に調伏される。

姉妹の示顕が箱根と伊豆山で逆転していたり、芦ノ湖の九頭竜伝説と擦り合わせようとしているのも興味深いが、今回そこはさて置く。ここでは『箱根権現縁起絵巻』(平井家本)において、三嶋大明神がこの神話の中に完全に組込まれていることが重要である。『三宅記』では三嶋大明神は天竺から渡ってきた王子であるのだが[資料13]、この辺りも双方から擦り合わせて行こうとしていた意図を感じる(三宅島にいます三姉妹の后神は「箱根の翁の娘」でもある)。

いずれにしてもこのように箱根・伊豆山・伊豆三嶋という三つの信仰圏を中世の同一の神話の中におさめようとしていた節があるのだ(あるいは富士浅間信仰圏まで射程としていたかもしれない)。この背景を通して来宮大明神・五十猛命・白道明神のことを見ていく必要がある。

まず、伊豆山の地主神・白道明神という神格は、伊豆山の地下に巡らされた温泉の水脈を示すという白龍に同様であると思われる。伊豆山には聖地の日金山(旧称:久地良山)の地下には夫婦赤白の龍が交合しており(白龍が夫)、尾を箱根芦ノ湖に浸し、頭は伊豆山の地下にある、という伝承がある(『走湯山縁起』)。白龍が温泉水脈であり、赤龍が溶岩流を示すのだとされる。相模から伊豆の各地にはこの白道明神を雷神として祀る雷電社もままあるが(小田原市の雷電神社など)、これは今回はさて置く。

そして、伊豆山・結明神社にはヒコ・ヒメを地主の神として伝えるものもある。

1. 日金山の大杉から生まれた日精(女)・月精(男)がおり、初島の初木姫のもとで育てられた。後に二人は夫婦となり伊豆権現氏人の祖となった。この日精・月精が結明神であり、古々比の杜に祀られる。(『走湯山縁起』)
2. 初島の初木姫が海を渡り、伊豆山にやってきたとき、逢初橋のところで伊豆山彦と出逢った。逢初橋はまた、源頼朝と北条政子の出会いの場であったとも言われる(土地の伝説)。

この二つの話があるが、いずれ同根の話と思う。注目すべき点は「日金山の大杉から生まれる」点と、初島と伊豆山を海上行き来している点である。これはキノミヤの来宮の性格と木宮の性格に対応している。伊豆山地主神・白道明神とはこのような伝承の束のことであるのだ。ここで河津来宮・杉桙別神社に神が至った経緯をよく見てみよう。

来宮大明神については、明治二年韮山県に提出の田中村名主の書上帳によると、伊豆山権現の地主白道神が来宮大明神であると書いている。白道神は木崎明神と一緒に熱海から舟にのり、河津の谷津の木ヶ崎(鬼ヶ崎、鬼賀崎)に上陸した。木崎明神はそこに留まって木崎明神になった。白道神は谷津から田中の木野の宮に入って来宮大明神となった。

『河津町の神社』より引用

ということであった[資料2]。木崎(きざき)明神が「きさき(后)」の神の意だとしたら、伊豆山のヒコ・ヒメ神をそのまま河津に接続させようとしたのだとも考えられる。個人的には島嶼からのヒコ・ヒメ神の到来が先んじて河津にあり(というより伊豆東一帯にあり)、それを伊豆山に由来するのヒコ・ヒメ神によって統一しようとしたのではないかと思う(そもそも伊豆三嶋信仰の根底には三嶋大神と伊古奈比咩命の古いヒコ・ヒメ神への信仰があると思われる)。杉桙別命(来宮大明神)は先述の姫宮・佐々原比咩命と夫婦の神であるとも地元の昔話にいわれる。あるいは木崎明神と姫宮の神は同神であるかもしれない。

いずれにしても、このような形で「ヒコ・ヒメ」という夫婦神に対する信仰を「霊鷲御前と次郎王子」ないし「常在御前と太郎王子」の神話に吸収しようとしたのだと思われるのだが、一方、「波羅奈国(高麗)」の二王子が相模大磯高麗山に降り立った、という方向からは五十猛命との連絡が出てくる。

神奈川県大磯町に高麗寺と高麗神社がある。四世紀頃に神功皇后が三韓征伐のとき、当所に勧請の神と伝えられている。この神が箱根の駒ヶ岳頂上に祀られて駒形神となった。駒形神が山をおりて箱根神になった。箱根神を伊豆山に勧請して白道神と呼んだという。したがって白道神は高麗から渡来の神で、日本では五十猛命と呼ばれている。

『河津町の神社』より引用

現代に至ってはこのような認識となっている話の背後には、ここまでに述べてきたような権現縁起の編纂があるわけなのだ。

この辺りが重要な点で、キノミヤ信仰の祭神に五十猛命がまま祀られる理由は、その信仰の根が紀伊にあるからだとされるのだが、少なくとも古代においてそうであったとは思えない。もしそのような流れが強力にあったならば、伊豆国式内九十二社の中にダイレクトにそれを示す社があるはずである(ない)。そう考えると、やはり箱根−伊豆山の「波羅奈国(高麗)」の二王子の渡来神話をもとに、同じく渡来の木の神である五十猛命が下って習合したのではないかと思われる。もっとも、紀伊における五十猛信仰が太古の海人族の樹木信仰に由来するというのなら根は共通する、ということではあるが。

白道明神・五十猛命といった神格が来宮大明神の実態であるとされる背景はこれでおおよそ見て取ることができるだろうか。さらに河津に関して言えば、杉桙別命「ほこわけの明神」に関しても、これを「火子別(ほこわけ)」と字をあてることにより「火の神」の性格を持たせ(鳥精進・酒精進を怠ると火事になる)、伊豆山権現・火牟須比命の眷属とした[資料2]。このようにして、箱根−伊豆山の権現はキノミヤ信仰、ひいては伊豆三嶋信仰をそのうちに取り込んでいこうとしたのだと思われる。

以上、河津来宮・杉桙別命神社への伊豆山権現の影響というものの背景を追ってみた。この項の最後の私見に見るように、私は本来伊豆三嶋信仰とキノミヤ信仰はわりと直結していたものだったと考えている。しかし、その後の変質(すなわち今に見る形)にはこの伊豆山修験の介入が影響しているのだと思う。逆に言えば、伊豆山からの影響を見極めてはじめてキノミヤの古型は見えるのだとも言える。

河津来宮・杉桙別命神社はその関係を伝承するほぼ唯一の社でもある。周辺キノミヤにも同様の次第があったのだとは思うが、いずれ中世期の話であり、今に伝える所は他にない。伊豆のキノミヤ信仰の全体を俯瞰する際にも、ここ河津に残されたひとつの典型例は大きく参照されることになるだろう。

その他・境内社などについて

以上でこの社にまつわる重要な部分は紹介する事ができたと思う。後は境内社などに関して述べておこう。まず、もう一柱の相殿の神である少彦名命に関して。

結論から言うと少彦名命が古くからこの社に祀られてきたとは思えない。明治二年に提出された書上には祭神に少彦名命が一神増えた旨が書かれているという。また、当時の神主の言として「萩原正平(『増訂 豆州志稿』の増訂編集者)が県の神社役人で、神社を調査しに来た時、薬師仏を祀っていたのは、医薬の神の少彦名命を祀っていたのであるから、杉桙別命・五十猛命の外に少彦名命を祀るようにと指示された」という話が紹介されている[資料2]。『増訂 豆州志稿』[資料7]の増訂者なら薬師が伊豆三嶋大明神の本地として祀られてきた事は百も承知だったはずであるから少々解せない所もあるが、いずれにしてもそのあたりに祀られたのではあるだろう。

境内社の石祠
境内社の石祠
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境内社としては地域の総鎮守として多くの社を持っていたようだが、現在では石祠の列として祀られているようだ。『河津町の神社』に記録されている社を列挙しておくと、
・道祖神社 佐倍乃加微(さばのかみ)
・宇賀神社 第六天神
・稲荷神社 宇気母智命
・天神社 菅原道真
・水神社 美久麻理之神(みくまりのかみ)
・熊野神社 祭神不詳
・小烏神社 祭神不詳
・歳之神社 大年神、御年神
・火産帰(ほうぶつき)神社 軻遇突智命
・大楠神社 祭神不詳
・塞神社 久那斗命外二神
・山神社 大山祇命
・大那行都佐(おおなごつさ)神社 祭神不詳
となる。

道祖神社として佐倍乃加微(さばのかみ)を祀っている所が面白いだろうか。大那行都佐(おおなごつさ)神社という社が何の神であるかが分からない。なお、細かな異同を指摘しておけば、『式内社調査報告』にある「小島神社」は「小烏神社(こがらす神社・熊野神社関係社と思われる)」の誤り、「産靈神社」は「第六天神」のことだろう[資料1]。また、先にあげた別格で一宇に祀られている「山神社・秋葉山神社・(大楠神社)」に関して秋葉山神社は資料に見ないが、おそらく「火産帰(ほうぶつき)神社」のことと思われる。

境内社と大楠
境内社と大楠
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合祀されていた神格に関しても一点。蔭山・若宮八幡・姫宮が合祀されており、現在は姫宮神社が復祀されたことは述べたが、蔭山・若宮八幡が現状どのような扱いとなっているのか分からない。もとは、蔭山・姫宮が若宮八幡に合祀され、その若宮八幡が来宮・杉桙別命神社に合祀される、という順だった。これらの神格に関しては姫宮神社の項で述べる予定だが、「蔭山神社」のみ今少し述べておこう。

蔭山神社は小田原北条氏に仕える小田原衆であった蔭山氏に由来するが、一族は河津笹原に住んでいた(小田原と河津はこれ以外にも行き来が多い)。蔭山神社はその蔭山氏の祖・蔭山勘解由(かげゆ・足利広氏のこと、足利持氏の子)と木宮大明神を祀る。ここで問題なのが、蔭山氏が紀氏の末であり、五十猛命を祖神とする系譜の氏姓だという点である。『河津町の神社』ではこの件と来宮・杉桙別命神社の相殿に五十猛命が祀られていることとは関係がないと断言しているが、その断言の根拠が分からない[資料2]。前段で渡来の神として五十猛命が箱根伊豆山の神話と習合したのではないかと述べたが、この蔭山氏の一件も覚えておきたい。

ところでこれは余談だが、河津町見高の見高神社について一点指摘しておきたい。見高神社は式内:多祁伊志豆伎命神社の論社ともされるが、いずれ名のみ見る神であり、どのような係累であるかも分からないのだが、その社殿は正確に来宮・杉桙別命神社の方を向いている。これまでにもまま見たが、この辺りの三嶋信仰関係社は「出自の社の方を向く」という性質を持っている(南伊豆町湊「若宮神社」など参照)。あるいは見高神社の神は来宮・杉桙別命神社の神の眷属としてとても密接な関係にある神格であるのかもしれない。ちなみに、杉桙別命神社は正確に三宅島を捉えている。

参拝記と私見

参道入口の一之鳥居
参道入口の一之鳥居
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来宮・杉桙別命神社へは平成二十二年の九月十一日・二十三日に参拝している。十一日はもう夕方になっての到達だったので西日がきつく、二十三日にもう一度撮影に赴いている(今度は雨模様だったが)。東伊豆町稲取から河津に入って、がらっと雰囲気が変わった印象があった。「南豆」というのは曖昧な地域区分だが、個人的な感覚としては河津からが南豆という気がする。

参道入口の大楠
参道入口の大楠
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ここに大楠があるというのは聞いていたが(参拝時はあれこれの詳細には通じていなかった)参道入口の半ば朽ちたような上写真の大楠を見て「これか、すごいね」とか思ってしまったのも良い思い出である(笑)。本当の天然記念物の大楠は上に見たように本社殿脇にあるが。でも今にして思えばこの参道入口の大楠も相当なもので、「七抱七楠」の一ではないのか、という気もするが。

さて、細かなあれこれはここまでに長々と述べたので、以下簡潔に私見を述べよう。伊豆三嶋信仰・キノミヤ信仰・伊豆山修験は以下のような流れを辿ったと考えている。

1. 黒潮に沿って展開した海人族がタブの木や楠を信仰する、漂著神(ヨリガミ)と樹木神の信仰を伊豆半島・伊豆諸島にもたらした。

2. 伊豆諸島を本地として伊豆三嶋大神とその眷属のパンテオンが育った(古墳時代から平安時代)。

3. 同時期、半島東側海岸には、島嶼より来る三嶋大神の眷属を祀る人々の社が建てられ、古い漂著神−樹木神と習合してキノミヤ信仰の原形ができた。

4. これらの社のうち海上からの指標となるべき一定間隔に位置するものが「キノミヤ」として一連の社とされた。

5. 平末鎌初に強勢となった伊豆山の修験勢力が、権現縁起とキノミヤ−伊豆三嶋信仰を接続しようとし、介入・再構成した。

狛犬
狛犬
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繰り返しになるが、このうち島嶼の伊豆三嶋大神に関する信仰がキノミヤ信仰と接続していることを示唆するのは「忌宮」の側面だと思う。伊豆三嶋大神の眷属は年末に去る(神津島に集まって会議をする)のだ。『三宅記』にも神々が神津島に集まる様子が描かれているが(だから神津島は神集島の意だと言う)、島嶼の今に繋がる伝承でも年末に神々が飛行して集まるのだから忌むのだとされる。キノミヤの物忌みは、これに起因する神の不在の期間だと私は思う。

伊豆山の介入により、「火の神」であることを語る話として鳥精進・酒精進という次第に改変してしまったが、しかし介入した理由は三嶋信仰との接続を意図してのことであり、キノミヤが三嶋信仰の一系であったからこそだ、と思うのだ。

河津来宮・杉桙別神社には、これらの仮説を検討するためのすべての要素が流入・伝承されており、長い話となった。しかし、キノミヤと伊豆三嶋信仰と伊豆山は切って考えては上手くいかない、ということは間違いないと思う。それどころか、キノミヤの三つの側面を連続したものとして考えるには、この筋を辿るしかないように思える。

今回の話はこの後の伊豆・相模のキノミヤ信仰全体に関する探求への基本スタンスとなる。すべてのキノミヤを辿ってみて振り返って再度見直されることにはなるだろう。この考察がその航路のための指針となっているのか否かは、キノミヤの神のみの知る所だろうか。

狛犬
狛犬
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脚注・資料
[資料1]『式内社調査報告 十』式内社研究会:編 皇學館大学出版部
[資料2]『河津町の神社』河津町教育委員会(1984)
[資料3]『河津町の棟札』河津町教育委員会(1993)
[資料4]『静岡縣神社志』静岡県郷土研究協会:編(1941)
[資料5]『日本の神々―神社と聖地 10: 東海』谷川健一:編(2000)
[資料6]『海と列島文化7 黒潮の道』網野善彦:編 小学館(1991)
[資料7]『増訂 豆州志稿』秋山富南・萩原正平著(寛政十二年/明治二十八年)
[資料8]『南豆神祇誌』足立鍬太郎:著(昭和3年)
[資料9]『静岡県史 資料編23 民俗1』静岡県:編(1989)
[資料10]『神道集』「二所権現事」(平凡社東洋文庫)
[資料11]『箱根権現縁起絵巻』山北町教員委員会:編(平成十六年)
[資料12]『群書類従』「走湯山縁起」塙保己一:編(続群書類従完成会)
[資料13]『伊古奈比咩命神社』「白濱大明神緣起(三宅記)」
[資料14]『大日本地名辞書』吉田東伍:著(1907)

来宮・杉桙別命神社(賀茂郡河津町浜) 2011.10.27

伊豆神社ノオト: