志理太乎宜神社(来宮神社)

索部:伊豆神社ノオト:2011.10.12

祭 神:志理太乎宜命
別 殿:五十猛命
創 建:不詳(康永二年再建)
    式内:志理太(乎)宜命神社(論社)
例祭日:十月二十四・五日
社 殿:流造/東南東向
住 所:賀茂郡東伊豆町白田

『東伊豆町の神社・仏閣』

志理太乎宜神社
志理太乎宜神社
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志理太乎宜命は「しりたおぎのみこと」である。伊豆急片瀬白田駅から西側に150mという所に鎮座される。国道135号線が大きく曲る所に大きな公孫樹と鳥居が見えるだろう。

式内:志理太(乎)宜命神社の論社である側面と、キノミヤである側面とを併せ持つ。さらに、中世には八幡宮であったと思われ、加えて隣接地区片瀬の鎮守片菅神社との関係も大きく、とやや煩雑な解説となる。

まず、式内論社としての側面を見てみよう。御祭神の志理太(乎)宜命であるが、括弧つきで記述されるのは古い史料に志理太宜命と見え、「しりたき・しらたきのみこと」が本来ではなかったかと考えられているため[資料1]。当白田は社号・祭神名ともに公的に「志理太乎宜」と登録されているのだが、式内社・祭神を言う場合は志理太(乎)宜命とする。

志理太(乎)宜命は三宅島にいます伊豆三嶋大神の后神・佐伎多麻比咩命の御子神であるとされる。佐伎多麻比咩命は三嶋大神との間に八柱の御子神をもうけたと、伊豆三嶋信仰の神話をまとめた通称『三宅記』に見える。志理太(乎)宜命の『三宅記』上の名は「志たひ(したい・しだい)」である。

八王子の弟神に片菅命(かたすげのみこと・『三宅記』上は「かたすけ」)がおり、白田から白田川を挟んだ対岸の片瀬の鎮守「片菅神社」の御祭神である。この兄弟神(しらたき命・かたすげ命)が祀られていたことにより土地の名が「片瀬白田」となったのだと考えられて、戦前までは両社が式内:志理太(乎)宜命・片菅命神社の最有力論社と見られていた。これが現代になって『三宅記』の研究が進んだことにより、これらの神々は島嶼に祀られるのが本来だ、ということになり今では双方最有力論社は三宅島に鎮座する社とされている(志理太(乎)宜命神社は現・椎取神社)[資料1]

片菅神社
片菅神社
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それでは一体この片瀬白田の方はどうなるのだという話になるが、志理太(乎)宜命・片菅命の古くからの分霊であると概ね考えられている。まずは妥当な所だろう。地名の由来もひとまず保たれることにはなる。しかし、実際この土地にそのような話が伝わってきたのかというと、これがそうでもないのだ。覆殿の中には二棟の本社殿があるのだが、それぞれの社標は「八幡宮」と「木の宮」なのである[資料3]。式内論社の妥当性の件はひとまず置いておき、次にキノミヤとしての側面を見てみよう。

鳥居の額・来宮社
鳥居の額・来宮社
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そもそもこの神社は地元では「来宮社・来宮神社」に他ならない。「白田のキノミヤさん」という認識である。伊豆半島東側から西相模の(多くは)海側に「キノミヤ(来宮・木宮など)」と称する神社が点在しており、「海より流れ来る神(来宮)」「樹木の神(木宮)」「忌み事を課す神(忌宮)」の意が交錯している信仰である。

先に述べたようにここ白田はまず第一に「木の宮」の社標である。木の神であることから御祭神を五十猛命とするキノミヤは他にもままあり(熱海来宮など)、白田もそうだろう。ただし、古い記録にはもとは素戔鳴尊を祀っていたともあり[資料4]、五十猛命となったのは現代のことかもしれない。御神木としては公孫樹(イチョウ)を祀っている。キノミヤに祀られる御神木としては一に大楠、二に大杉というところで公孫樹であるのは異例だ。これは中世期に八幡宮とされたことと関係するかもしれない。ちなみに現在は鳥居両脇の公孫樹が見事だが、これは樹齢三百年ほどだという。しかし、社殿後背にかつて千年を超えるかという公孫樹があったそうな(昭和初年に枯死)[資料3]

鳥居両脇の公孫樹
鳥居両脇の公孫樹
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さらに「来宮」「忌宮」の側面。康永・貞治(南北朝時代)の上梁文に「白田來濱神社」とあり、後に「木の宮」になったという[資料2]。このことからは、はじめは「来宮」の意が強く、後に「木宮」の意に転じたのではないかと見て取ることも出来るだろう。さらに「白田來濱」が「しらたきはま」であるとすると、「志理太宜(しらたき)命」を意味している可能性は大である(後述)。

そして、キノミヤ信仰には年末「鳥精進酒精進」といって、鳥肉食・飲酒を禁じる風習があり、「忌宮」の意は主にここにあるのだが、白田にもこれがある(白田は十二月十七日から一週間)。白田では特にお酒好きで「酒断ち」が厳しい人は「時計をみつめて待っているとか、時計の針を進めるとか、神様に背を向けて飲む」と、活き活きとした(?)話が伝わっている[資料5]。「鳥精進酒精進」は白田より南西に9kmほどの河津来宮・杉桙別命神社のものが有名だが、ほぼ同じものだと言えるだろう。この辺りのキノミヤの分布と類似に関しては後に私見を述べる。

また、秋の例祭時の神輿の渡御にも「忌宮」の側面が見える。「神輿を担ぐ人は、くじ引きできめます。かっては神榊の葉を口にくわえて声を出さないようにしていました」とあり、これは片菅神社でも同じだった[資料5]。伊東の方にも同じような記録があるが、これは伊豆諸島、特には強力な忌事を持つ神津島などに見える風習と似ている。伊豆諸島では年末は「神が飛行する」ので強力に忌み閉じ籠り、期間中島の聖地を巡る神職・氏子総代は「決して口をきいてはいけなかった」という。しわぶき一つではじめから辿りなおさねばならなくなったそうな。この伊豆諸島の忌事は、半島のキノミヤ信仰の「忌宮」の側面に大きく関係していると考えられており[資料6]、志理太乎宜神社の神輿の渡御の例は重要となるだろう。

いずれにしても、このような「キノミヤさん」であることが、土地の認識であったのであり、式内社であるという伝があった訳ではないようだ。現在は社頭掲示に「志理太乎宜命ハ事代主命ノ三宅島ノ丑寅ノ方ノ后佐伎多麻姫命ノ第五王子デ片菅命ノ御兄神ニアラセラレル」とあり、土地の民話伝説としても「志理太乎宜命と片菅命が祀られた片瀬白田」と語られるのだが、おそらくは近世にこの比定がなされて以降の伝だろう。特に片菅神社の方は『豆州志稿』にも「八幡社」となっており、中世以降八幡だった[資料4]

境内社
境内社
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あとは境内社に関して。本社殿向って左手に一社と石祠が見える。しかし、各種資料には境内社の記載はない。実際なんであるのかは分からなかったのだが、あるいはここが八幡宮であったことに関係するかもしれない。先にも見たように、代々ここの社は「八幡宮・木の宮」であった。しかし、御祭神が志理太乎宜命となっている以上は、八幡宮の社標の本殿をそれとしているのだろう。そうなると本社殿内には八幡宮の居場所がなくなっていることになる。これを境内社として外に祀ったのではないだろうか。

なお、「白田」の「五十猛命」を祀る社である、ということから、新羅が白田の由来であるとする説があるが、あたらぬだろう(五十猛命は父神・素戔鳴命とともに新羅に天降り、後日本へと来られた、と『日本書紀』の一書曰に見る)。これまで見たように素戔鳴命・五十猛命を祭神とするのは「木の宮」となる段階以降であり、下る。私はやはり伊豆三嶋大神の御子神・志理太(乎)宜命が来られた「白田來濱」が本意であると考える。

参拝記と私見

社頭
社頭
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志理太乎宜神社へは平成二十二年の九月四日に参拝している。伊豆大川から片瀬白田まで残暑の厳しい中を歩いた。志理太乎宜神社はその日の最後で、参拝後白田の海に行ってしばし放心していた(笑)。その後、道祖神さんの調査などの際も再度参拝している。

片瀬の片菅神社へ先に参拝していたので、両社の似ている感じがとても感じられた。木造物なども良く似ている。しらたき命・かたすげ命の兄弟神を祀るという話がずっと伝わってきた訳ではないだろうと述べたが、片瀬の八幡・白田の来宮というような対となる社なのだという感覚はずっとあったのじゃないかと思う(いや、私はそもそも片瀬白田はやはり片菅・志理太宜だったのだろうと思ってはいるのだが)。

蟇股の龍
蟇股の龍
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さて、では周辺のキノミヤとの関係を述べておこう。白田から南西9kmには河津来宮神社(式内:杉桙別命神社)が鎮座し、北北東9kmには伊東の八幡宮来宮神社(式内:伊波久良和気命神社最有力論社)が鎮座する。これだけ見ても一連の社なんではないかと思う所だが、その比較からは色々示唆される所がある。

まず、河津来宮では、祭神が海を行く船の足を停めるので、社殿が海を向かないようにした、という伝がある(今は河津港の方を向いているが)。そして、伊東八幡宮来宮では来宮はもとは海岸の岩屋に祀られていたが、酒好きであり、酒を積んだ船を停めてしまうので、海の見えない所へ遷し、再度八幡宮の森へと遷した、とされている(岩屋は今もある)。向きを変えるのと海の見えない所へ遷すのは違うが、河津来宮の祭神は木ヶ崎に上陸し、現社地へ移ったという「海際からの移動」のモチーフも持っている。

似た話は熱海来宮にもあるのだが、この様にキノミヤには「海から寄り来たって海際に祀られ、後内陸地へ移動する」というベクトルがある。南伊豆町の手石阿弥陀窟側の来宮と、青野川を遡った下賀茂・二条の来宮も同様の次第であったかもしれない。

そして、これは「木の宮」化する次第にも対応している。現在海際に祀られる南豆手石の来宮や、伊東・八幡宮来宮の来宮元地の岩屋や、河津の木ヶ崎などは大樹とは縁がない。内地に遷ったところで大樹を御神木として持つ(二条三島神社(黄宮を合祀)・杉桙別命神社・八幡宮来宮神社・熱海来宮神社は皆そうである)。

この傾向は私見であり、特に他で指摘されていないが、もしこのようなベクトルがあるのだったら、白田はどうなのだ、ということなのだ。白田の海は河津の海と良く似ている。白田川・河津川が切り開いた平野という所も似ている(規模は違うが)。川が平野を造るのは当たり前だが、伊豆半島東側では数えるほどしかない地勢なのだ。

白田の海
白田の海
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先にも見たように、鳥精進酒精進の次第などは河津とまったく同じである。また、伊豆三嶋大神の眷属が海から寄り来たり、というのは伊東の八幡宮来宮神社と同じである。これは関係するのか分からないが、そもそも白田も「八幡宮来宮神社」であったのだ。

このような信仰空間が白田にも共通していたのならば、白田来宮ももっと内地に入って「木の宮」と化した……はずなのだ。しかし、現社地はどう見ても海際のそれである。そこで思うのだが、片瀬神社との関係が本来それにあたっていたのではないだろうか。片瀬神社は白田川を遡った所に鎮座している。

白田川
白田川
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1. 志理太宜命・片菅命を奉じる人々が白田の浜についた。
    ↓
2. 白田の浜には志理太宜命が「白田來濱神社」として祀られた(海際の来宮)。
    ↓
3. 内地(片菅神社)へ片菅命は遷座した。
    ↓
4. 本来なら片菅神社が「木の宮」となるはずだったが、志理太宜→白田來濱の方が「来宮」として定着してしまった。

といった次第を想像している(文字通り想像だが)。埒のない話と言ったらそれまでなのだが、ここには大変重要な問題が関わっている。すなわち、キノミヤ信仰と伊豆三嶋信仰は関係するのか、という点だ。実はこれがよく分からない。三嶋大神の眷属であることとキノミヤの神であることがはっきり重なっているのは河津来宮・杉桙別命だけである。しかし、杉桙別命の係累は不明だ。伊東の八幡宮来宮も伊波久良和気命は伊豆三嶋大神の眷属と思われるがどういった神格なのかは不明である(さらに式内:伊波久良和気命神社の論社は複数ある)。

もし、片瀬白田がその線上にのるのだとしたら、三宅島・佐伎多麻比咩命の八王子のうちの御子神がキノミヤとなった、という係累を辿ることのできる大変貴重な例となるのだ。この可能性を放逐するわけにはいかない。

白田の浜から伊豆諸島を望む
白田の浜から伊豆諸島を望む
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脚注・資料
[資料1]『式内社調査報告 十』式内社研究会:編 皇學館大学出版部(1981)
[資料2]『静岡縣神社志』静岡県郷土研究協会:編(1941)
[資料3]『東伊豆町の神社・仏閣』東伊豆町文化財審議委員会:編(1980)
[資料4]『増訂 豆州志稿』秋山富南・萩原正平著(寛政十二年/明治二十八年)
[資料5]『ふるさとのならわし 東伊豆町年中行事』東伊豆町文化協会:編(2008)
[資料6]『海と列島文化7 黒潮の道』網野善彦:編 小学館(1991)

志理太乎宜神社(賀茂郡東伊豆町) 2011.10.12

伊豆神社ノオト: