若宮神社

索部:伊豆神社ノオト:2011.09.22

祭 神:物忌奈命
相 殿:大山祇命
    市杵島姫命
    倉稲魂命
    菅原道真
創 建:不詳(建久三年・伝)
    式内:竹麻神社三座(論社)
例祭日:十一月二日
社 殿:流造/西北西向
住 所:賀茂郡南伊豆町湊

『静岡縣神社志』など

『静岡縣神社志』には相殿五座としてさらに「少童命」の名があるが[資料3]、現在は本社殿外に祀られているので別とした。しかし、もともとはこの少童(小童)命のみが相殿にあり、他四座は周辺社の合祀によるものと思われる(後述)。

若宮神社
若宮神社
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下田駅から石廊崎行きのバスの多くは湊地区を循環するので、それに乗ると良いだろう。後に述べるように手石の月間神社と深い縁のある所なので、セットで回るのも良い。ただし、月間神社から歩くといったん北上して青野川を渡ることになり、見た目よりも歩きでがある。

御祭神の物忌奈命(ものいみなのみこと)は、伊豆諸島神津島にいます伊豆三嶋大神の后神・阿波命の子で、本地は神津島。今も式内:物忌奈命神社が神津島に鎮座されている。詳しくは手石の月間神社の方で述べたが、この阿波命が後の后、三宅島にいます伊古奈比咩命が叙位を受けたこと嫉妬し怒り狂い、神津島を噴火させた、という『続日本後紀』承和七年九月の記述があり[資料5]、これを受けて半島側から神津島を遥拝すべく創建されたのが竹麻神社であると伝わる。三嶋大神・阿波命・物忌奈命の三柱を祀るので竹麻神社三座と言う。

月間神社
月間神社
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竹麻神社の本座はそののち手石の月間神社として三嶋大神を祀ることになり、后神・阿波命と御子神・物忌奈命はさらに下って分裂遷座したとされる。ここ、湊の若宮神社はそのうち、式内:竹麻神社三座の末として物忌奈命を祀る社、と目されている所である。論拠が云々というよりもずっと「ここは月間神社から分かれた物忌奈命を祀る社」、と伝わってきたので、その点疑問視されることもない。

これは社殿の向きにも如実に現われており、若宮神社は正確に月間神社の方を向いている。竹麻神社三座が分裂遷座したのかどうかという点に関しては異論もあるが、分霊にせよ分裂遷座にせよ、この若宮神社が月間神社に由来する物忌奈命を祀る神社である、という点は動かないだろう。南伊豆の神祀りを網羅的に検討したものは足立鍬太郎の『南豆神祇誌』(昭和三年)がほぼ唯一で、その足立は分裂遷座説に懐疑的なのだが、それでも「彼の祭神三座別社の論は肯ひ難いが、後に若宮だけを或は湊に分祀したかもしれぬ。」と述べている[資料4]。分霊・分裂遷座時期は不明だが、「建久三年手石への遷宮の時、物忌奈神を湊へ分祀したものといふ」ともある(出典不明)[資料1]

いずれにしても現在「式内:竹麻神社三座」といったときは、手石の月間神社・湊の若宮神社・下田市吉佐美の八幡神社相殿(阿波命)の三社がそうであるという比定が一般的である[資料1]。無論他の社を比定する論も数々あるが、それはそれぞれの所で述べよう(青市三島神社を比定する、また下田高馬を基準とする、など)。

竹麻神社三座
竹麻神社三座
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次に相殿となる神格に関して。大山祇命・市杵島姫命・倉稲魂命・菅原道真の四座に関しては詳細は解らない。周辺の山神社・弁天社・稲荷社・天満宮が合祀されたのかと思うが、『増訂 豆州志稿』の増訂に「相殿五座ハ近年合祀ス」とあるのみだ[資料2]

興味深いのが残る一座の「少童(小童)命」である。先に述べたように『静岡縣神社志』には相殿五座として記録されており、他に『増訂 豆州志稿』に「少童」とあり、『式内社調査報告』に「境内神社に小童命を祀る。明治二十二年神社明細帳には、物忌奈命を主神に、小童命を相殿としてゐる。」とある[資料1]。現在は本社殿向って右手に祀られており(下写真)、私は見落としてしまったが、「小童神社建立…」と書かれているそうな(web「玄松子の記憶」様)。以下私見となるが、続けて述べよう。

小童社
少童(小童)社
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これの何が興味深いのかと言うと「小童」の記述があることである。「少童」と書いた場合は「わたつみのかみ」のことであり、要は海神のことで、手石の漁師が海神を祀っていたのであろう、ということでさほど問題はない(ただし、この表記で海神を祀る例は伊豆半島東側には見ない)。「小童」が「少童」の誤記であったなら、それで良い。しかし、もし意図的に「少童(わたつみのかみ)ではない」、ことを意味していた場合どうなるだろう。

伊豆三嶋神話では、伊豆諸島を三嶋大神が造島するのだが(これを「伊豆の国焼き」という)、そのさい眷属の「童子」たちが松明を掲げて跳び回り、海を焼いて島を造る。この童子が祀られてきたのではないか、という可能性があるのだ。この事はしっかり覚えておき、より何かヒントになるものが見えて来ることを期待したい。

なお、ここ若宮神社だけの話であったら誤記か、そうでなくても孤証ということになるのだが、実は熱海の来宮神社にも過去「小童」が祀られていた記録がある(現在境内社にはない)[資料3]。来宮の方で神社の方に尋ねたのだが、さっぱり要領を得なかったのが残念だが(正式なご神職ではなかったかもしれない。その記録の存在も知らぬ様だった)。

参拝記

若宮神社へは平成二十二年の十一月二十三日に参拝している。下田市の吉佐美からずっと歩いて湊まで来て、かなりへたばっていた(笑)。

社頭
社頭
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式内論社と言っても下っての分霊ないし分裂遷座であり、社地は極めて低地にある。低地と言うか上写真に見るように砂浜の延長のような所だ。古代からの社というには異例であろう。しかし、鳥居右奥の御神木の楠は公式には樹齢不明となっているが、境内には八百年と書かれていた。また、下の境内由緒書き脇にあった樹木も(なんだか分からないが)相当な樹齢を感じさせる。津浪でも来たらひとたまりもなさそうな海浜ではあるが、周囲の松林を含め、相当の年月踏みとどまってきた社地なのであると感じさせる。

由緒書き脇の樹木
由緒書き脇の樹木
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さて、若宮神社自体のことに関してはこのような次第なのだが、「若宮」の表記は伊豆三嶋信仰を考える上で基礎知識となるところがあるので、そこを述べておこう。

全国的に普通若宮と言う場合、これは八幡信仰に関して応神天皇(誉田別命)の子、仁徳天皇(大鷦鷯尊)を祀る「若宮八幡神社」の事を言う。また、例の多少は分からないが、神明系で天照大神の子神を祀る「若宮」もあるだろう。

若宮の額
若宮の額
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しかし、伊豆半島東側では若宮というのは三嶋大神の御子神・眷属を意味する。これはしばしば式内社の論社比定の決め手ともなる。例えば同じ南伊豆町では岩殿の諏訪神社が式内:伊波氐別命神社の最有力論社とされるが、決め手のひとつは「若宮」と称されていたという伝による[資料1]

伊豆国の神名帳に記された名は伊波氐別命とか多祁伊志豆伎命とか穂都佐氣命とか、頗る「面倒な」名前となっているので、地元では早くに忘れられてしまったものと見え、早くも中世の伊豆国神階帳では多くは「(土地名)の明神」となってしまっており、神格は総称として「若宮さん、王子さん、天神さん」などと呼びならわされてきた。同時に下ってそれぞれの全国区の信仰と混同してしまっている場合も多い。ここ湊の若宮神社も物忌奈命を祀ると伝えてきているにも関わらず、近世・近代の記録のいくつかには「若宮八幡」と記されている[資料1]

これは、逆に言えば伊豆半島東側の神社で「若宮・王子・天神」と呼ばれてきた伝がある場合は、奥に古代伊豆三嶋信仰があるのじゃないかと考えることができる、ということでもある。この例は大変多いので、あちこちで目にすることになるだろう。

浜から神津島を望む
浜から神津島を望む
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あとは、参拝を終え、神社からすぐの浜におりた時の感想を。上写真のように、この手石湾からは伊豆諸島のうち神津島だけが見える(写真では左の端にうっすらと)。竹麻神社三座に関してはこの手石周辺以外にも比定する向きがあるのだが、私はこの光景を見て「ここに違いない」と確信した。思えば当たり前の話で、ここに来るまでに思い至らなかった私が間抜けなのだが、それで良かったとも思った。その時の神社巡りレポートでも「まったくなんで今までそんな簡単なことに気がつかなかったのかという話だが、気がつかなくて良かったとも思う。実際その土地でその景色を見て気がつく。これは良い経験だ」と書いている。

浜から神津島を望む(望遠)
浜から神津島を望む(望遠)
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脚注・資料
[資料1]『式内社調査報告 十』式内社研究会:編 皇學館大学出版部
[資料2]『増訂 豆州志稿』秋山富南・萩原正平著(寛政十二年/明治二十八年)
[資料3]『静岡縣神社志』静岡県郷土研究協会:編(1941)
[資料4]『南豆神祇誌』足立鍬太郎:著(昭和3年)
[資料5]『増補六国史7』佐伯有義:編 朝日新聞社(1940)

若宮神社(賀茂郡南伊豆町湊) 2011.09.22

伊豆神社ノオト: