多摩行:日野

庫部:惰竜抄:twitterまとめ:2013.08.03

東京都日野市の神社巡り。多摩地方は町田や八王子の方と狛江の方を回っておりましたが、そのいずれからも直結しない行程でスキップ気味になぜか日野なのであります。ナニユエ日野なのかというと、むしろ相模原の話からの展開。「おひのもり」の話を皮切りに、「日々神社」などが並んでいたのでした。

▶「おひのもり」(高座行:相模原)
▶「日々神社」(高座行:相模原)

そしてさらに並びそうなのだけれど、これは一体なんなのか、「日」が何故こうも取り上げられたのかと考える上で、周辺その名も「日野」があるではないか、まずはそちらへの理解を持たねばなるまい、という感じの内部ドミノ倒しがあっての日野なのであります。

新撰組とか高幡不動とかで知られる日野市だけれど、ダテで「日野」なのじゃないのですよ。その由来は(例によっていく通りか説があるが)、土地の人にとっては土地の殿様、武蔵七党の西党の宗家・日奉(ひまつり)氏を祀る日野宮権現ありきなのであります。
日奉とは大伴氏に連なる古代からの太陽祭祀のスペシャリスト集団であり、西党はそこから出ているのだと伝えている(日奉氏は母系になるのだが)。周辺の「日」のあれこれを考えるにおいては、まずこの日奉氏と西党の動きを見ねばならんのであります。そんな日野。

多摩市一の宮:小野神社

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んが、スタートはお隣多摩市の聖蹟桜ヶ丘駅から。話の流れ上、まずは古代武蔵一宮の事からはじめたいのであります。大通りからこの脇道に入って行く。結構入り組んだ先なのだけれど地図を見る必要もないねぇ。
写真は何年か前にはじめてここに来たときのもの。たまたまお祭で、町の人と一緒にお神輿や山車をわーっと追いかけて先の道を入って行ったものでした。祭で辿った道というのは忘れないものであります。

そのお社が古代の武蔵一宮・式内「小野神社」さまであります。周知のように武蔵一宮は室町くらいから氷川大社となっていたので、こちら小野神社は代々大社であったわけではない。
むしろ、ほんの最近になって見直されて設えが豪華になってきつつあるお社なのだといえましょう。特にこちらの随神門がスゴイ。
現代のものだが、全面コマゴマとした木造物のてんこ盛りなのであります。現代の匠なめんなという感じでしょうか。
よお、こりゃまた随分とご無沙汰ぢゃねいか……と、風神どの。あいすみませんでしゅ。
雷神さんなんかもうオンステージ状態(笑)。特に上の小さい方がノリにノっている。三つ巴とはなんぞやとよく考えるが、まず太鼓にあるのだということを忘れてはイカンですな。
ごっつい亀さんもおるでよ。随神門というのも明治には寺のもんだというのであちこち壊されてしまったものだが、今はもうこうしてまた構えて良いらしい。
大体多摩の随神門といやあアラハバキ問題そのものの物件であるわけですしね。今回はそういう話ではないのでスルーしますが。ちなみに隣の方に南門という小さな門があって、こちらに古い狛犬さんがおります。格子が密で写真は撮れないけれど。
小野神社は天下春命・瀬織津比咩命を中心に(でも三間社なんだが)八柱の神々を祀る。その由来含めてあれこれ真剣に語り出すととめどもなくなるが、今回は地図を開いてここに武蔵一宮があるのだということを見ていただければ良い。

落川遺跡

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この辺りは「東京」の風景と田畑が入り交じった不思議空間がよくある。♪こんくりーろー(この街にきたら必ずこのネタを入れないといけないというナラワシがあるそうな)。

さて、小野神社のある一の宮(という大字)の隣はもう日野市の落川というところ。ここに「落川一の宮遺跡」という遺跡がみつかった(東京都指定史跡)。日野市側では「落川遺跡」というかな。
ここが大変重要な遺跡で、奈良時代から平安時代の集落が中心となるのだけれど(十四世紀初頭にまで至る)、おそらく古代小野牧(朝廷に献上する馬を飼育するところ)を運営した集落であろうと目されている。多様な馬具類が多量に出土し、それを決定づけた(馬の首のみを埋めた土坑などもある)。
実は小野神社というのは先の多摩の社とは別に、多摩川を渡った府中市にも一宮・式内と伝える小野神社がある。双方論社という位置づけで、もう文献からどちらが本社か決定するのは難しい、と煮詰まっていたという問題があるのだが、考古学的にはこの落川遺跡が決定打になったといって良いだろう。
小野郷・小野牧の中核はここ落川から一の宮にかけてであったと考えて良いと思う。さらにこれを受けて『日野市史』では狭義の小野牧(小野牧の中心となる土地)は、ここから鑓水の方へ遡る大栗川周辺の平野であっただろうと見解している。
この小野牧を管理していた人たち(小野神社の奉斎者でもある)、即ち武蔵小野氏から、武蔵七党筆頭の横山氏が出るわけですな。その辺りは本拠となった八王子の方など参照。

▶「多摩行:八王子」(2013.03.23)

日野市の東端はこのようにしてはじまるのであります。

落川:神明神社

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行く道に汽車ポッポ……ナニユエにこのマークを使い続けるのだろうか。はっ!実はあたしが気がつかないだけで汽車が走っているとか?

落川の鎮守さんは「神明神社」さん。大きな欅の木が脇に聳える。『新編風土記』にあるが、創建など不詳。『神社名鑑』も『日野市史』も概ね不詳とにべもない。
ちょっと注目しておきたいのはこうした小さな祠さんなど。一番手前四角柱は「元御嶽神社」と刻まれている。現在日野市に法人社の御嶽神社は一社もないが、こうして合祀され境内社になっているような例が大変多い。
また、立派な「由来」の石碑があった。ここには各資料にない「寛政八年(一七九七)建立」の記述がある。こうして資料にない情報をちょこまかと集めていくわけです。

落川:大宮神社

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落川にはもう一社重要そうなお社がある。「大宮神社」という。単立なんかね。百草園駅の目の前で百草(もぐさ)地区のようだが住所的には落川であります。
『日野市史 民俗編』によると、大国主神・天宇受命・大宮姫命・宮比売神・矢之波波伎命を祀るという。姫神は同一神格の異名を皆並べたような感じだ。この辺りでは珍しかろう割拝殿風の構え。
「もと上落川の西方三沢境の大宮耕地というところにあった。寛文〜元禄年間に遷宮」とある。創建などは不詳。遷座の経緯などは『新編風土記』にも見えている。ここが、「昔、浅川が中島部落前を流れていたので、水害の影響を恐れて移した」と伝えており、もしかしたら浅川の古い流路を探る上で重要となるお社かも、というのがあるのですな。まだ詳しくは調べていないけれど。
また、なんというか社地のつくりが変わった感じのするお社でもあります。何かこう斜面稜線を形成するように造られていてなぁ……その先の中央の樹が「何か」なのだろうか。

百草:八幡宮

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お隣百草地区は百草園という今は京王が所有している庭園が丘上にあって、そこへ向うと庭園横に「八幡宮」が鎮座されている。天気悪いのでアヤシゲですが、立派な八幡さまであります。
立派も立派、源頼義が奥州征伐の折、男山八幡の土を携えてきており、これをこの地に埋め八幡宮を創建したという。あるいはさらに天平の昔からあり、頼義が再建したのだともいう。古八幡とも呼ばれていたそうな。
その大変な八幡さまの拝殿前にこのお方がおるのですよね。わはははは。さらに前には普通の狛犬もあるのだけれどね。耳より情報によると、これは合祀された御嶽さんの山犬を表しているのではないかという。
御嶽・秋葉・稲荷が合祀され、この三社はこちら境内社として構えられているが、その御嶽さんのお犬さまをこっちじゃなくて八幡の拝殿前になぁ。土地の生活に密着していたのは御嶽さんだった、というようなことを表しているのかもしれない。

真慈悲寺と朝日様

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で、この八幡宮の源頼義の伝だが、ご当地伝説ではない。実際、この地には『吾妻鏡』にも見る源家の祈願所であった古刹「真慈悲寺」があったのだと考えられている。鎌倉時代のうちに廃しているので、詳しい事はまだわからないのだが。
その真慈悲寺の本尊であったという阿弥陀如来像が廃寺となってあとは八幡宮の本地仏として守られてきたということで、この像は国指定重要文化財となっている。左上写真の朱のお堂が奉安殿。
同じ写真奥の庭園・百草園に真慈悲寺あったのだろう(古瓦などが見つかっている)、という位置関係で、八幡宮はお寺の守護神ですね。源頼義の伝も本質的には真慈悲寺の伝、ということであったと思われる。こういう重要なところが百草の山上にはあるのですよ。
そして、あたし的にはこの百草園拡張(?)の際の話に気になるものがあるのだ。百草園の裏にあたる西側の谷戸の奥に「朝日様」と呼ばれた小高い場所があったという。ここを削る際に骨壺のようなものが出たそうな(消滅)。
例によって「祟る塚」といわれてきており、分倍河原の合戦の戦死者を葬ったところだなどといわれてきたというが(『日野市史 民俗編』)、「朝日様」である。日奉氏の地を行こうというのだから、これは気にしないわけにはいかない。現状これ以上何もわからないが、まずその名を覚えておきたい。
下る途中でまたじゃぶじゃぶと水が湧いていた。鑓水の方みたいに、横に竹挿しゃ水が飛び出るような斜面なんかね。

三沢:八幡神社

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高幡へ行く手前に三沢という地区があり、そこの鎮守さんは「八幡神社」さん。寛永の棟札があるだけというが、正和元年の古史料に記述があるそうで、その辺りに遡るらしい。
戦前はもっと山上の小字八幡台という所にあったそうで、今の社殿ができた昭和五十三年が実質の遷座時期となるようだから、ここに八幡と構えられたのはごく最近ということのようだ。ここには神明さんがあり、他に諏訪・山王を合祀している。
で、ここは御嶽さんを合祀という記録はないのだが、三沢の土地そのものはよく御嶽さんを信仰していたようで、お犬さまの伝説などがある。その八幡元地の方の守屋家という旧家の畑の墓地に山犬のねぐらがあったそうな。

晩秋のころ里人が畑仕事をしていると、近くの雑木林からよく山犬の遠吠えが聞え、その声をきくと人々は急いで仕事をやめ家路につきました。山犬は御嶽さまの神使いと言う信仰から、人々は山犬を畏敬していました。守屋家ではモノ日にこわ飯をふかすと、これに好物の塩をそえて山犬のねぐら付近に置いてやる習慣を守ってきました(明治中ごろまで)。そのせいか、守屋家の誰かが外出して夜道を帰る時には、山犬がどこからともなく現れて、その人を守るように、後をつけてきました。屋敷の入り口で「もういいから帰んな」というと、山犬はスタスタ去って行ったと言うことです。

『日野市史 民俗編』より引用

武蔵御嶽信仰にまつわる「お犬さま」の感覚をよく示している話だ。日野市域はほぼすべての旧村域に御嶽の代参講があった。御師たちの活動も活発だっただろう。ちょっとそれにとどまらないかもしれない話もあとで出てくるが。

高幡不動

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そして京王高幡不動駅へ。駅前の商店街の通りの向こうに仁王門が見える。THE門前町であります。

いうまでもなく東京都下では指折りの古刹でありまして、このお寺の事を解説しはじめたらそれでおしまいになってしまいます故、概要などは公式サイトをご覧下され。

▶「高幡不動尊」(公式サイト)
ちょっとあまり紹介されていない面白い話としては、お不動さんももともと写真の仁王さんのように金泥眼だったのだけれど、光って往還を行く馬が竿立ちになってしまうので漆で塗りつぶされた、なんて話がある(市史)。
よく見ると二重に参道があるような変わった配置なのだけれど、ここは本来は「金剛寺」であり、後背の高台上(これ重要)にあった不動堂を康永元年に下ろしてきて(写真)からこのお不動さんの方が有名になってしまったのであります。
今はこちらの奥殿と呼ばれる宝物殿にお不動さんも安置されている。「自由参拝」だけれど、中に入って見るのは300円(笑)。
土方歳三の菩提寺でもあるためか(お墓は東の方の末寺・石田寺にある)、お若い方々も結構きていた。これですね、この像を撮ろうとしたらいきなり日が射したんですよね。役者やね(笑)。

旗かけの松

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さて、色々な話のある高幡不動さんなのだけれど、現状あたしの行程で問題となっているのは「はた」の点。武蔵相模の空をはたが飛び交う伝説を追う一環でありまして、ここの「旗かけの松」にもはたが飛んできたという。写真は二代目だそうな。しかし、古い写真も同じ位置に初代の松が聳えており、感じとしてはまぁ、変わらない。
で、ここは西党から出て源平合戦で活躍した武将・平山季重(すえしげ)が、源氏の白旗を立てかけたのでそういうのだという話がまずあるが、飛んできたはたの伝説もある。

昔鑓水に与兵衛さんという人が住んでいました。その家の女衆は毎日機に上り、きれいな幟旗を織っていました。織り上げるとそれを戸外に広げて干して置くのが常でした。あるときにわかにつむじ風が起り、干してあった幟旗を吹き上げて、どこへとも知れず飛ばしてしまいました。仕方なく人に尋ねながら探し歩いたすえ、それが多摩丘陵の山々を越え、はるか東北にある高幡不動堂内の松の木にかかっているのを見つけ出しました。このとき与兵衛さんは、この不動さまに願をかけていたことを忘れていたことに「はた」と気がつきました。

『日野市史 民俗編』より引用

満願の暁には幟旗を奉納しますと願を掛けていたので、はたが飛んだというお話。与兵衛さんはあわてて幟旗を奉納して、それ以降家業はますます栄えた、のだそうな。高幡不動ではこういった養蚕機織の重要地だった鑓水との関係を語る話もある。

▶「鑓水」(多摩行:八王子)

八王子市西寺方町に大幡というところがあり、そこの宝生寺に「鈴のついた大きな旗」がどこからともなく飛んできて、大幡に落ち、また飛んで高幡不動へ行き、最後に相模落幡へ飛んで行ったという伝説があることは紹介した。

▶「大幡」(多摩行:八王子・連)

これが高幡の方では鑓水からだというのですな。また、相模落幡へ飛んで行ったとは特にいわないようだ。ふーむ。そもそもこの伝説群に関しては「源氏の白旗」の話なのか「養蚕機織の幡」の話なのか、という問題があるのだが、ここでも両方いうわけではある。
ここで問題となるのは「高幡」という名そのものなのだけれど、これはどうも「高畑・高畠」がもとであったようだ。家康のころの記録でも「高畠村」とある。先にいったように、不動さんは高台上にあったのだが、そこを「高畑・高畠」といったという(市史)。そうなるとそれが「高幡」となる経緯と「はた」の伝説との間にかなり関係があると思われるのだが、よく分からない。桑都の人たちはよくお参りに来たりしたのかね。
ここまで大きいお寺になると全方位に信仰されてしまうので、特定の業種との関係が特異にあるかどうかというのも分かりにくくなりますな。浅川の向こう岸の方は「桑田村」といったか。日野本町の方には養蚕試験所もあったか。しかしこの辺蚕影神社的な存在は少ないのだよね。うーむ。
あるいは境内の写真の弁天さんがカギを握ってたりせんかね、と思いつつ、今回はこうして「飛ぶ幡伝説パズル」に高幡不動の旗かけの松を追加、という感じであります。
何やら変梃な格好をして後ろ脚をバタバタさせている高幡不動の猫さん。
見たにゃ?

駒形公園

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そこからは今度は浅川を渡りまして、川辺堀之内という所へ。ここに「駒形公園」と見えたので寄った。
寄ったら本当におんまさんがいた(笑)。「なんかくださいや〜」という感じににゅっと顔を出すのだけれど、やったらイカンと書いてある。残念でした。

『新編風土記』には駒形明神社と見えており、実際駒形さんの祠があったらしい(今でも個人持ちであるようだが)。そして、次のような伝説がある。

昔、府中に国府があったころ、毎年駒競べが府中で行われていた。ある年、川辺堀之内の馬が参加した。この馬は非常に足が早く、駒競べで一等になったが、馬はそのまま駈け続け、とうとう川辺堀之内の自分の故郷まで駈けとおし、そこでばったり倒れて死んでしまった。

『市史余話』より引用

村人はその馬を憐れに思い、駒形明神としてお祀りしたそうな。国府の時代の話というので、この辺りに官牧があった頃のことをいっているのじゃないか、という点がまず気になる。さらに、ここからこの土地に武蔵高麗郷の高麗氏の関与があったのじゃないか、というところが重要となるのだ。高麗氏の件はこの先の豊田の方を見てからまた述べよう。

川辺堀之内:日枝神社

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川辺堀之内の鎮守さんは「日枝神社」さん。写真のような実にこまい道を行かないとたどり着かない。
すぐお隣が延命寺というお寺で、その守護神の山王さんといったところだ。先の駒形さんも延命寺持ち。とりたてて何だという由緒はないが、天王さんの話があって、これは少し覚えておきたい。
今は御祭神にも合祀記録にも見えないが、かつて天王さんが流されてきて、これを併せ祀ったという土地の伝がある。故に、山王さんなのにそのお祭は天王祭といったそうな。いずれ、この天王さんがどこから流された、なんて話も出てくるかもしれない。
日枝神社さんのすぐ後ろが浅川なのだけれど、遡れば八王子横山であります。そちらの方で見たように、この川も流される天王さんの問題があるのですよ。

▶「八幡八雲神社」(多摩行:八王子)
日枝神社さんは拝殿のぐるりにこのように白玉砂利を敷き詰めてあって、ここまで真っ白にこだわるのは珍しいですな。
また、御本殿真後ろに大きな御神木のムクノキが聳えるお社でもあります(市指定天然記念物)。市内では最大のムクノキだそうな。なんか伝説とかありそうだけどね。
ちなみに、この日枝神社さんの解説は、隣の公園にあった。中央右の立て札。参拝に来た人がこちらまでは気がつかないじゃないの、という。実は百草八幡宮の解説も随分下の公園にあったので、もしやと思って公園に寄ったのだけど。土地柄?

豊田:若宮神社・鹿踊の話

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豊田地区へと行きまして、東豊田に「若宮神社」さんが鎮座される。東といっても昔の豊田村であり、ここが豊田全体の鎮守ということになる。昔は八幡神社が別に鎮守としてあったようだが。
若宮さんは小社だったが、その八幡以下豊田村の各社を合祀して大きくなった。応神天皇・仁徳天皇を祀るので、まぁ、若宮八幡さんであります。慶安五年建立の棟札があるが、実際の創建はずっと遡るだろうという。
ホッホー?

ところでこの豊田村だが、話がとんで三陸鹿踊と縁がある土地であります。花巻の方の春日流は、武蔵豊田村の清左衛門なる人が花巻に来て振り付けをしなおしたという。時期は不明。中興の祖みたいな感じなのかしらね。
しかし、市史の調査では何の伝も見つからなかったそうな。鹿踊は念仏踊りから出たのだという説もあり、日野の東光寺の昔の踊りと関係があるかもしれないという(『日野市史 民俗編』)。春日流はもとより空也上人をその祖とするので、念仏踊りとは縁が深いようだ。
そうなると時宗辺りがまたアヤシいわけなのだけれど、伊方の方で述べたように、鹿踊は仙台藩から宇和島藩へと流れており、一遍上人の故地河野氏のお膝元にぐるりと戻っていることになる。日本も広いやら狭いやらという感じではあります。
これは合祀の記念碑。あちこちの社で合祀のことを語るこういった碑を見た。特徴的といえるだろう。ということはかなり合祀に抵抗があったのだろうということでもある。で、ここに「白髯神社」さんが合祀されているのですよね(後述)。
先に今回の狛犬さんコーナーを。もう第二弾か?何にしてもこの表情をご覧頂きたい。嘆きの狛、というよりもはや「慟哭する狛さん」といえよう。本社殿でなくて脇の方にある。
おうおうおう、と何がそんなに悲しいのですか、という。
また、境内には立派な屋根付きの土俵と、さらに脇に小さな土俵があった。土俵が二つある神社さんなんかはじめて見たかも。奉納相撲が盛んなのかもしれない。
行く道にまた汽車ポッポ。やっぱ本当は余所者に見せないように走ってるのじゃないのか(笑)。
そしてまた道行きの不思議物件。なんであろうかね。よもや安産祈願物件だったりじゃないだろうね。日野には少し面白い安産祈願の話がある。将棋の駒の「香車」を象ったものをお祀りするのだそうな。前にしか進めない香車にあやかって早く産まれるように祈るのだという(『市史 民俗編』)。それ関係のものということはないかしらね。

白髯神社

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さて、JR中央本線豊田駅の近くに「白髯神社」さんがある。若宮さんに合祀されたというが残っているのだろう。門柵があって、これ以上近づけない。
ここで、高麗氏との関係を考えておかねばならない。市史の方でもここの白髯神社は高麗氏の関与の表れではないかと見解している。高句麗の王族だったともいう高麗王若光を長として霊亀二年に高麗郷が設置されたが、若光はまた晩年白髭を蓄え白髭さまと呼ばれていた、という伝説がある。または、若光自身が猿田彦命を信仰したともいうが、いずれにしてもこれらにちなんで高麗郷の方では猿田彦命を祭神とする白髭神社をよく祀る。近世高麗郡には白髭社が二十七社もあった。この系統の白髯神社ではないか、ということなのだ。
先に見たように、隣接して駒形神社があったことも関係する。駒形神社にもまた高麗に由来する系統がある。高麗郷の行政的な中心だった女影にも駒形神社があったが、社頭の由緒には「高麗王若光により霊亀二年(西暦七一六年)に創建された社であると伝えられる」と明記してあった。

実際、日野地域への高麗氏の関与はあった。高麗忠綱なる人が鎌倉末期以降に日野市域に所領を持っていたことが明らかになっている(『日野市史 通史編』)。大雑把にいうと、鎌倉北条と命運をともにしてフェードアウトして行った西氏(日奉氏)に変わって、高幡を中心に展開したらしい。
しかし、重要なのはもっと昔、古代牧が展開していた時期に関与があったのかどうかだ。あたしは、高句麗からの人などを束ねて高麗郷があの場所に設置された理由は、第一にこれら武蔵の牧を運営するための技能を頼りにされて、ということだと考えている(第二が銅絡みか)。
そして、そこから武蔵七党の武士団が興ってくる流れに、どれだけ高麗氏の関与があったのか、という所が最大の課題なのだ。なんとなれば、その武士団によって担ぎ上げられた頼朝の鎌倉は、その鎌倉神話の中心とでもいうべきところに、相模大磯高麗山に降り立った神々、というモチーフを据えるのである(箱根・伊豆山・三嶋の縁起)。
横山党小野氏を追う過程では、現状はっきりと高麗氏との縁は見えない(豊田村は横山党の船木田郷だったともいうが)。しかし、こちら西党日奉氏の方にはそれがあるかもしれない(日奉氏も北側小川牧の管理氏族だった)。豊田の白髯神社とお隣の駒形神社にはこういった面の展開が期待できるのであります。

まつり塚

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豊田駅を越えまして、さらにちょっと寄り道。富士電機という会社があって、その敷地内なのだけれど「まつり塚」という塚跡がある。市指定史跡。 赤い松が見えておるのがそれ。もともと塚が現役だった頃の松は黒松だったそうだが。ここは今は富士町という新しい大字名となっているが、かつては豊田村と平山村の境であり、豊田から八王子へ向う稲城往還という道だったそうな。そして……

その両側には松の木が植えられ、松の根本は土壇になっており、数基の石仏があったが今はない。ここは塞の神に祈願する場所であった。人々は流行病のとき、ここに注連縄を張り通切りの祈禱を行って疫病の侵入を防ぎ、また病魔送り出しをした。

『日野市史 民俗編』より引用

ということであります。今は昔という感じだが(写真右の樹々が塚跡)。ともかく、このあたりは土地がかなり入り組んでいて良くわからないのだが、この塚の話は単なる村境の話というより、郷境の話であったように見える。東側の豊田が船木田郷だったといい、西から南側の平山が平山季重の西党の土地というのだから巴のようになっていたようだが。西党と横山党の関係、という点で一つの焦点にはなるだろう。

で、その平山へ行くと、日野で一番なじみ深い領主(と市史に書いてある)、西党日奉氏平山季重の本拠なのだけれど、もうすぐ隣が八王子市域ということで、横山党との関係がどうなのかという点をより学んでから参ろうと思うので、こちらは今回ここまで。バスで高幡にびょーんと戻るのであります。

高幡:若宮愛宕神社

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もどりまして、高幡は高幡不動があるわけだが、鎮守のお社はというと、京王線を浅川の方へ越えた先の「若宮愛宕神社」さんが鎮守さんとなる。ベースとなるのは若宮神社の方。
ここは高幡不動と密接に関係するお社なのだ。昔、まだ不動尊一体で脇の童子像二体がなかった頃、とある旅の僧が来て、その不備を残念がったという。そこで時の住職がこの旅の僧に童子像の作製をお願いしたところ、旅の僧は一室に籠り、像を彫り上げてくれた。これが今の矜羯羅童子と制咤迦童子の両脇士像であるそうな。この作業中、住職は三度も夢に八幡大菩薩が一心に鑿を入れる姿を見たという。そして……

住職の心からのもてなしを受け、更にしばらくの滞留をすすめるのを辞して、旅僧は去ってゆきました。僧俗大勢が見送って村境近くまで来た時、旅僧の姿がふっと人々の眼から消えました。人々は唯呆然とするばかりでした。「あの旅僧は只者ではない。きっと仏の化身だったに違いない」。人々はささやき合いました。そして旅僧の消えた地を別旅(わかたび)と名づけ、そこに一社を建てて宇佐八幡を勧請しました。これが別旅明神で、のち若宮明神と改めます。

『日野市史 民俗編』より引用

このような伝説の八幡大菩薩の化身である(と思われた)旅の僧を祀ったのが、この若宮さんなのだそうな。小地名が別旅であったようで、その名ありき、という線で考えるとまた八幡は付会ということになるだろうが。
そういったお社なので地区の鎮守さんではあるのだけれど、こうして鰐口が手前に掛けられるわけですな。今高幡不動の方で何かしてはいないのだろうかね。
また、先の話からは大石がどうこうというのは伺えないのだが、社頭にはこのような大石が祀られていた。ここが別旅の境の印だった、とかかしら。大石が八幡を示すというコードも先に行ってあるので、わからんが。
さらにまた、ぶっちゃけこのような伝説は、寺の再建などに大きく関与した氏族の事を伝説化したものだったりするのじゃないかと思うのだが、境内に風前の灯という感じではあるがお稲荷さんがある。
このお稲荷さんを「小野稲荷」というのですよね。なぜ小野とかつけるし。『市史』にちょこっと出ていて、森久保なる一族の同族神なのだとあるが、それ以上は現状不明。

石明神社

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浅川を渡る。渡っているのはすげえ立派な橋なんだけど人道橋なんだよね。東京はオッカネェとこずら(笑)。

▶「ふれあい橋」(PDF)

渡った先、今は石田地区となるが「石明神社」さんが鎮座される。本来は南側の新井村の鎮守であった。新井は主に川向こうなんだけどね。これも流路変更の何かかね。
堰大明神・石大明神ともいわれたといい、「せきの明神」が本来なのだろう。不詳ながら南北朝の創建と伝える。御祭神は猿田彦命。『新編風土記』にも御神体の石棒の図が描かれているが、まぁ、つまりは石神さんであります。
しかしこれすぐ前の公園が「石明(せきめい)公園」とかになっているのは微妙にどうなのかね。「石の・明神」であるのか「石明の・神」であるのか、将来胡乱になっていきそうな。明神さん系はこういうの多いが。
で、ですな。ここは大問題なのが境内社の御嶽神社さんなのだ。コンクリ造の境内社というからこちらだろう。合祀社という記録はなく、昔から境内社であるようだ。こちらがですね御祭神が「櫛麻知姫之命」であると『市史 民俗編』にあるのですよ。
武蔵の神社メグラーでもないと何が問題なんだかワカランですね?武蔵の式内社に大麻止乃豆乃天神社があり、幾つか論社があるのだが、御祭神を櫛真智(くしまち)命としている。青梅の御嶽神社も有力論社で主祭神は櫛真智命。この櫛真智命は奈良の天香山神社の神に同じで卜事を掌る神であるとされ、天児屋命の別名という人もいて、つまりは男神だと思われるのだが、ここで石明神社さん境内社の御嶽さんには櫛麻知「姫」之命が祀られているというのだ。ちょっと今のところ他でこういった話は聞いたことがない。
はたして櫛真智の神はヒコ・ヒメで祀られるような神格だったのだろうか。それとも妃神・娘神を語るような神族を形成する側面があったのだろうか。はたまた単に『日野市史』の誤りなんだろうか。と、非常に問題なのであります。
ここまで実は御嶽さんが多かった、ということをちらちらいっていたのはこの問題があったからなんですな。はたしてこの地に、今はもう知られなくなってしまった御嶽信仰の一側面があったのかどうか。この「櫛麻知姫之命」の名はしっかりと覚えておきたい。
ちなみに石田村というのは土方歳三で有名な石田村ですな。土方新田という所もあった。石田寺に土方歳三の墓がある。あたしは特に縁がないので行かんが。

下田:八幡大神社

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石明神さんから北西に。「八幡大神社」というお社がある。現在の位置づけはよく分からないが、住所は万願寺地区になり、その鎮守という所なんだろうか。
んが、昔はここは下田村といい、万願寺村とは違った。西党嫡流西太夫宗忠の弟由井別当宗弘の孫、田村駄二郎知実がこの地(のちの下田から宮・上田)に住んだという土地。知実が男山八幡を勧請したといい、つまり西党直轄地であります。
もっとも、この後ろの方にある安養寺が田村氏の館のあったところといい、八幡さんは寺の守護の社であり、『新編風土記』でも安養寺内の社のように書かれている。今境内社となっている十二天社さんの方が代々下田の鎮守であったらしい。
上田(かみだ)の方は今天満宮(北野神社)があるが、これは旧農家の屋敷神だったというから、十二天ないし下田八幡がそちらまで含めた鎮守さんだったのかね。そちらは平山季重を出す一流となるから、日野−田村(下田・上田)−平山という感じに西党の色が濃いのかしら。

宮:別府社

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更に北西へ。ここはもう昔から万願寺村だったと思うが(ちなみに「万願寺」というお寺の名が大昔から地名になっているが、このお寺のことはまったく不明。どの辺りにあった何系のお寺なのかも分からない。名のみ伝わりつづけたお寺なのであります)、藺沼(いぬま)という沼があったそうな。これが小字になり、今は公園になっている。
ここに「おしゃもじさん」がある……というのだけどね。昭和五十一年の記事だとまだ「田んぼの中に、ひっそりとこの神様がまつられています。小さなほこらですが、地元の人々はとても大切にしています」とのことなのだけれど、今はもうそもそも田んぼがなかったですな。おしゃもじさんの祠も見当らなんだ。
先に石明神さんがあって、この近い距離におしゃもじさん(社宮司だったか石神だったか、その辺はよく分からない。風邪を治す杓文字が奉納された)が別にあったとしたら、石神とはまた違うのだ、という認識があったかもなのだけれどね。もうワカランぽいのでありました。残念。

そこからすぐ西に「別府社」が鎮座される。いきなり何だという目をひく名のお社で、「別府太郎」なる人物を御祭神としている。周辺を見渡しても唐突な観の強い特異な神社だ。先に伝説を見ておこう。
別府太郎は武将で、分倍河原の合戦に敗れてここに逃げてきて、先の藺沼にはまってしまい死んでしまったのだという。村民これを哀れに思い社を建て云々、というお話。別府太郎が白馬に乗っていたので、土地ではこれを禁忌とし、明治以降まで豚や犬猫も白いものを飼うのを避けたそうな。
また、社伝では別府太郎という地頭がおり、彼が身を持って村境の土地争いに勝訴したのでその霊を祀ったともいう。
んが、武将にせよ地頭にせよ別府太郎なる人物の存在はまったく記録に見えず、存在自体が疑わしい。で、このお社はもっと古くに遡るのじゃないか、と考えられている。
そもそも今鎮座地はまた万願寺地区になってしまっているのだが、本来は南西側に広がる「宮」という大字地区の社であり、つまり宮村の鎮守であったのが別府宮。『新編風土記』には永禄の頃に高麗豊後守・同越前守の子孫が描いた絵図に、別府宮とあり、ここから宮村の名もあるのだろうという。で、この地名は概ね平安時代の荘園の一形態「別符」に由来するのだろうと考えられている(大分の別府もそう)。その別符の社だったのがこの別府社だろうと。そうなるとかなり遡りますな。
さらに『武蔵名勝図会』では、別府社の御祭神は伊狭知直であるとあり、胸刺国造の名を挙げている。あるいはそういった国造時代にさかのぼる土地であるという認識があったのかもしれない。
もしそういった面があるのなら、共に国造末流ではないかともいわれる小野・日奉氏の土地であり、このあと見るが、古墳が姿を見せ始める場所でもある。もしかしたら、と思っておいても良いだろう。今は宮の地でもなくなった、大きな道脇にぽつんとたたずむ小さなお社ではあるけれど。

といったところで。ナンだよもう日が落ちてんじゃん、という写真が続いてますが、えぇ、そうなんです。日野宿に着く前に日が暮れてしまった(笑)。だがしかし、ここで話を終わらせては何の日野行だかわからん、ということで、しっかり日野宿の話も続くのであります。

飯縄権現

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日野行なのに日野宿に着く前に落日というテイタラクぶりを遺憾なく発揮しましたあたくしは(アホ)、翌午後からさまモードでまた日野に赴いたのでした。まる。おっちゃんはひつこいんやでー(笑)。
さて、日野駅で「ひの〜、ひの〜」と降りまして、駅南方へまわると「飯縄権現」の小社がある。ここがちょっと面白いので寄り道。
正治元年に創建されたというから本当なら周辺のお社より古い。近世に武田の遺臣が持ってきたという伝もあるが。ともかく、高尾山の飯綱権現はここから飛んだものなのだという伝があり、「飛び飯縄」の名があるのだそうな。
まったくのお伽噺かというと、土地の旧家文書には「いづな森」は高尾山持の添え書きがあるのだそうで、何らかの関係はあったらしい(『市史 民俗編』)。あー、飯縄は団扇が下向きなのかね。

坂西横穴群

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さらに駅南方へまわると「坂西横穴墓群」がある。線路の向こうの林状になっとるところですな。中央道路下部が開いているが、そこに重要な一号墳がある。
都指定史跡で七世紀後半の横穴墓群と考えられているが、既に各横穴は埋め戻されているので、開口しているところが見られるわけではない。
んが、写真とか石室の一部の露出なんじゃないかね。ただ斜面があるだけだろうと思って来たが、来ればなんか気になるものが見えるものだ。
そして、この内の一号墳というのが「内部の壁全体が白色粘土で塗布されており、きわめて珍しい例として日野の横穴墓を有名にしたものである」とのことなのだ(『市史 通史編 I 』)。で、あたしが気になるのは、その粘土面に馬の線刻があった、という点。
だがしかし、なんたることか同時にここには「永仁年号」が刻まれてしまってもおり、鎌倉時代に開けられているということで、馬の線刻も七世紀代のものなのかどうか不明となってしまっているのだ。
ううむ。馬の線刻が間違いなく横穴造営時のものだったら、牧の運営を示す物件として落川遺跡とともに超重要な物件になったに相違ないのだが、決め手に欠けるのですねー。
どこへ行くのかカブトムシくん……多摩ってすげえな(笑)。

神明:神明社

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とはいえ、中央本線の谷部を挟んで日野台と神明(台)という台地があるのだが、その台地上に奈良時代の計画的な大型集落があったのははっきりしている(特に神明上遺跡)。市史では「小野郷の中でも、重要な位置を占めた官衙的なものと考えることができよう」と見解している。
今は台地上も住宅が広がるばかりだったが。下りたところに神明(大字)の名のもとと思われる「神明社」さんがある。
もっともこちらのお社は元亀元年に源平合戦に破れた西国の人々(名からすると伊予の人か)が移り住んできて祀ったものだそうな。何かこう鎌倉御家人の所領にはこういう平家方の人の里があるね。三浦とかもね。
各資料あっさりしたことしか書いてないが、社脇にはこの谷伊予という一族の末の人の筆によると思われる一族の興亡が細々としたためられている。こういうのが貴重なのですよ。今回の話とはあまり関係ないので自家薬籠のものとしますが(笑)。

普門寺の八幡石

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ようやく日野本町に入りまして、「普門寺」というお寺に寄り道。先の神明さんや次の八坂さんの別当だったお寺。かつては日野宿の寺といったらここだったのじゃないか(もっと西にあったというが)。
しかし、こちらにお邪魔したのは、お寺の話というよりも写真の石の話なのであります。解説がなかったら単なる庭石のようだが、これが伝説の石なのだ。「八幡石」という。

寛文のころ、普門寺のお坊さんがある夜不思議な夢を見ました。夢のお告げに「昔北条氏照という大名が建てたお社が、今は荒れ果てている。それを探し出してお寺にまつり直しなさい」とありました。告げられたとおり、お坊さんは高倉の西北(今の日野台五丁目付近)にある小さな塚を掘ったところ、大きな石が出てきました。

『日野市史 民俗編』より引用

ということで、このときの大石運搬の遷座祭には、日野宿中の人々が飯の炊き出しをしたりして、大さわぎになったそうな。で、この氏照の建てた社というのが八幡だったという話であり、八幡石という。この話そのものも八王子の方との関係を考える上で重要だが、石脇には更に興味深い記述があった。「その大きさ形状等から見て、古墳の石室の天井石と考えられ……」だそうな。なるほどね。これは、あとで繋がってきます。

日野本町:八坂神社

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普門寺から駅の方へと戻って行きますと「八坂神社」さんが鎮座される。日野の中心地区のお社であり、現在は代表するお社というところだと思われる。
んが……んが……これはどうなのだ。どうなんですか日野の人。まぁ、本殿はしっかりあるのだから覆いは覆いだとやそうなんだが。
その辺どうなんでしょうか狛犬どの。うーん。

こちらも創建伝説は興味深く、今度は多摩川を流れてきて土淵(日野の旧名でもある)という淵で怪光を発していた天王さんという、またもや流れてきた天王さんの伝。実際には先の普門寺の守護社というところだが、「土淵郷」といった地名(また、このお社を含め管理される古い神官家が土淵家)からしても先々重要となる伝かもしれない。多分、次の今回のメインとなるお社日野宮神社のあるあたりだとも思われるし、土淵。
昔はこんな。まぁ、昔も無骨といったらそうではあったようだ。ところで、日野は街中にこういった昔の写真が沢山掲示されていて、そこは大変勉強になる。楽しい。
道行きお地蔵さんと庚申さん。
覆い屋に解説があったが、三尸を三尺と書いていた。実はまま見る。三尺と書くのは結構「あり」なのかね。全然別件だが、ちょっと八坂さんを「八尺」と書く例が出てきていたりして、少し気になった。

日野宮神社

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ようやく日野の由来といわれる「日野宮神社」へ。昔は日ノ宮権現といった。まず、鷄卵問題は棚上げして、関係するトピックをフラットに並べてみよう。

日野地名の由来:国府が今の日野台に烽火台を設けていた、それで飛火野といったから、という「飛火野」説。そして西党日奉氏が守護社として日野宮神社を構えていたから、という「日野宮」説。さらに、日野中納言の玄孫の宮内資忠なる人が来住したからという「日野中納言」説、の三説がある。「日野中納言」説は『新編風土記』が既にアヤシいといっているし、先の二説は日野台で火を焚いたのが日奉氏だった、とすれば同じことともいえるので、概ね日奉氏に由来するのが日野であると考えてしまって良いだろう。大体、『新編風土記』では日奉氏を日野宗頼とか日野宗忠とか「日野氏」として記述している(現在一般にはこの氏族を「日野氏」とはしない。自ら日野と名のってもいない)。土地の感覚も「そういう武将が居たから」というところだろう。

日奉氏・日奉部:日奉とは最初に述べたように大伴氏に連なる太陽祭祀の古代品部として設立され、武蔵国府におけるその日奉部の末が武蔵日奉氏なのだということになる。ここから平末の武士団、武蔵七党の西党が起る。西党(小川氏)の系図では、藤原道頼の子の(藤原)宗頼が下向し、これが日奉氏の女を妻として「日奉宗頼」と名のったといい、この人が西党の初代という位置づけになる。つまり藤原氏を父方祖、古代日奉氏を母方祖とするのが西党(西姓日奉氏という)。しかし宗頼が藤原道頼の子というのは諸記録に見えず、例によってこの系図は仮冒であり、西姓日奉氏も横山党小野氏が小野篁の末とするの同じで、本当は国造末流であろうと見る向きもある。

太陽祭祀:それでその太陽祭祀が実際行なわれていたのかというと、特に西党にそのような祭祀の伝承はなく、祭祀遺跡なども報告がない。しかし、日奉氏の館があったと伝えるここ日野宮神社から東光寺(廃寺)、七ツ塚古墳群あたりからは、冬至の日の入りの方向に正確に富士山がくる。これは今でも日野市の名物になっている。

▶「日野でダイヤモンド富士を探そう
 (日野市観光協会)

このラインに日奉の名があるのは偶然とは思えず、やはり日奉氏としての役割もこの地で果たしていたのだろう。
いずれにしてもその西党・西姓日奉氏宗家が館を構えていたのが日野台であると伝わり、その守護社として創建されたというのがここ日野宮神社なのであります。
初代の日奉宗頼とその孫・日奉宗忠、そして大伴・日奉氏の祖神となる高魂尊(高皇産霊尊)、更に祖神となる天御中主尊を御祭神とする。もっとも額面通りなら少なくとも『吾妻鏡』辺りには見えそうなものだが、ない。
ではずっと下るものなのかというと、この下からは中世の大型集落が見つかっている。「栄町遺跡」というが、概ね十四世紀の集落址で、その頃に重要な土地になっていただろうことは間違いない。西党に関しては、小野牧の北側の小川牧を管理していた人たちだろうとも思われ、そちらに武蔵古代二宮の小河大明神(現・二宮神社)があり、小野氏と日奉氏と考えたらそちらが日奉氏の根本社じゃないのかという問題があるが、この日野との新古関係がこれからの課題になるだろう。
とまあこのように、これらのうちのどれが古くに遡るのかというのも難しい日野宮なのだけれど、この土地(昔は四谷といった)にはさらに、虚空蔵菩薩と鰻の禁忌の伝承がある。もとは四谷の部落持のお堂にあったというが、近世の虚空蔵菩薩像(先の写真)や室町に遡る阿弥陀如来座像などが、現在日野宮神社に安置されている。虚空蔵菩薩は日ノ宮権現の本地仏であるという了解らしい。
なぜかナマズの殿下の秋篠宮文仁親王が二度に渡って見学に来られたそうで、語りぐさになっているが、ここにあるのは鯰の伝承ではなく鰻の伝承である。
普通に虚空蔵さんのお使いだから(像の袖が鰻を象っているのだそうな)食べないともいうが、それだけではない。
神社のすぐ北が多摩川だが、ある洪水の時に壊れかかった多摩川の堤防の穴にたくさんの鰻が入り込み、村を洪水から守ってくれたのだという話もあるのだ。単に虚空蔵信仰があるというより一歩踏み込んだ伝のある土地といえよう。
下野星宮のところで指摘したように、虚空蔵信仰というのは「国造(くにのみやつこ・こくぞう)」と掛けているのだ、と語られる場合がある。ここまで見てきた日奉氏の話に虚空蔵さんと鰻の話が絡んでくるのもあるいは偶然ではないかもしれない。

安産薬師と姫の権現

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日野宮から西へ行くと「成就院」というお寺がある。東光寺というお寺が大昔あって、地名も昔は東光寺といったのだが、これは中世に廃してしまい、成就院にその東光寺の薬師堂が再建されている。
東光寺は日奉宗頼が館の鬼門除けに建てた寺だと伝わり、要は東光寺と日野宮がセットだったということだろう。どちらかといったら東光寺が主で日野宮はその守護社だった、というように見える。で、この東光寺の薬師さんが「安産薬師」として信仰されてきた。面白いことに栗を奉納する。

枝栗を供える古くからの言い伝えを守り、今でもそのとおりに行なわれています。その縁起は、安産を祈願する妊婦の夢枕に立たれた薬師さまのお告げによったものと伝えられています。

『日野市史 民俗編』より引用

また、穴の開いた石を眼病治癒の祈願に奉納するともいう。どちらも現物は見えなかったが。で、これらの話は面白くはあるが日奉氏とは関係ないようにも見えるが、あるいはそうでもないかもしれない。
かつて日野宮神社南には「姫宮権現」という社があって、日奉宗頼の妻を祀るといわれていたという。今も「姫の森公園」があって、祠はある。
杜があった頃の姫宮の写真があった。昔はもっと大きなお社であったともいうが。
そして、さらに近くには姥久保という小地名もあるのだが、あたしは東光寺安産薬師・姫宮・姥久保は一連のものなんじゃないかと思う。つまり、一族の初代の日奉宗頼の妻を祀るというより、日奉祖神の后神が祀られていた、というような。そうなると、やはりここの地が古いのかな、という感じではある。

七ツ塚古墳

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さて、そんな感じでお社巡りはおしまいでして、最後は成就院から南に日野台へ登ったところにある「七ツ塚古墳群」へと行ったのでした。写真下った先が成就院の方ですな。結構登る。

あ、塚上に金毘羅さんがあるからまだお社巡りでもあった(笑)。六〜七世紀の古墳群と考えられ、またこの地に日奉氏の館があったともいわれるので、そうなら国造末流の線が強くなるだろう。
このポイントから冬至の日の入りの方向に線を引いたら富士山頂にブチ当たってあたしは魂消たのですな。行く前に気がついていたらその方向でもっと色々見てきたのに……orz
戦前には図のような埴輪も発見されていたといい、古墳時代、という感じであります。
「七ツ塚」というけどもっと古墳だらけだったともいい、先に見た普門寺の八幡石が一キロちょい南から出ていることが符合する。今も五基墳丘があるというのだが、良くわからんかったですな。これかな。
ということでその七ツ塚に何らかの配置の形があったのかどうかは分からないのだけれど、これもまた下野星宮の方と符合する話だ、とはいえるだろう(佐野市天明宿星宮神社の近くには北斗七星の配置の七ツ塚があったという……今はもうなかったが)。いつの時代のどんな信仰によるのかは現状不明だが、やはり星宮と日野宮には何か似たところがあるのかもしれない。というより、天御中主尊・虚空蔵・鰻・七ツ塚ときて星宮がないのが不思議だというくらいの日野ではある。あるいはそもそも日野に来た動機である相模原の方の「日」にまつわるあれこれにしても、日野宮にも星宮のように増殖して行く似た面があった、とかいう線があるかもしれない。

ともかく、結局二日にまたがった日野行であり、あれこれ考えて行くためのヒントは大量に入手できたといえましょう。また、ここまで来て思うのは、今までどこから手をつけたら良いのかと放り出していた、小河大明神の方が射程に入ってきたかも、という感触がある。さらに抜けて青梅、武蔵高麗へと繋がりそうなカードもあった。
もしかしたら、こちらが「八王子ライン」へのキラーパスを持っている土地だったのかもしれない。そんなことを思いつつの日野行でありました。

補遺

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補遺:


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多摩行:日野 2013.08.03

惰竜抄: