多摩行:日野
庫部:惰竜抄:twitterまとめ:2013.08.03
東京都日野市の神社巡り。多摩地方は町田や八王子の方と狛江の方を回っておりましたが、そのいずれからも直結しない行程でスキップ気味になぜか日野なのであります。ナニユエ日野なのかというと、むしろ相模原の話からの展開。「おひのもり」の話を皮切りに、「日々神社」などが並んでいたのでした。
▶「おひのもり」(高座行:相模原) ▶「日々神社」(高座行:相模原) そしてさらに並びそうなのだけれど、これは一体なんなのか、「日」が何故こうも取り上げられたのかと考える上で、周辺その名も「日野」があるではないか、まずはそちらへの理解を持たねばなるまい、という感じの内部ドミノ倒しがあっての日野なのであります。 新撰組とか高幡不動とかで知られる日野市だけれど、ダテで「日野」なのじゃないのですよ。その由来は(例によっていく通りか説があるが)、土地の人にとっては土地の殿様、武蔵七党の西党の宗家・日奉(ひまつり)氏を祀る日野宮権現ありきなのであります。 日奉とは大伴氏に連なる古代からの太陽祭祀のスペシャリスト集団であり、西党はそこから出ているのだと伝えている(日奉氏は母系になるのだが)。周辺の「日」のあれこれを考えるにおいては、まずこの日奉氏と西党の動きを見ねばならんのであります。そんな日野。 |
多摩市一の宮:小野神社
落川遺跡
この辺りは「東京」の風景と田畑が入り交じった不思議空間がよくある。♪こんくりーろー(この街にきたら必ずこのネタを入れないといけないというナラワシがあるそうな)。 | |
さて、小野神社のある一の宮(という大字)の隣はもう日野市の落川というところ。ここに「落川一の宮遺跡」という遺跡がみつかった(東京都指定史跡)。日野市側では「落川遺跡」というかな。 ここが大変重要な遺跡で、奈良時代から平安時代の集落が中心となるのだけれど(十四世紀初頭にまで至る)、おそらく古代小野牧(朝廷に献上する馬を飼育するところ)を運営した集落であろうと目されている。多様な馬具類が多量に出土し、それを決定づけた(馬の首のみを埋めた土坑などもある)。 |
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実は小野神社というのは先の多摩の社とは別に、多摩川を渡った府中市にも一宮・式内と伝える小野神社がある。双方論社という位置づけで、もう文献からどちらが本社か決定するのは難しい、と煮詰まっていたという問題があるのだが、考古学的にはこの落川遺跡が決定打になったといって良いだろう。 | |
小野郷・小野牧の中核はここ落川から一の宮にかけてであったと考えて良いと思う。さらにこれを受けて『日野市史』では狭義の小野牧(小野牧の中心となる土地)は、ここから鑓水の方へ遡る大栗川周辺の平野であっただろうと見解している。
この小野牧を管理していた人たち(小野神社の奉斎者でもある)、即ち武蔵小野氏から、武蔵七党筆頭の横山氏が出るわけですな。その辺りは本拠となった八王子の方など参照。 ▶「多摩行:八王子」(2013.03.23) 日野市の東端はこのようにしてはじまるのであります。 |
落川:神明神社
落川:大宮神社
百草:八幡宮
真慈悲寺と朝日様
三沢:八幡神社
晩秋のころ里人が畑仕事をしていると、近くの雑木林からよく山犬の遠吠えが聞え、その声をきくと人々は急いで仕事をやめ家路につきました。山犬は御嶽さまの神使いと言う信仰から、人々は山犬を畏敬していました。守屋家ではモノ日にこわ飯をふかすと、これに好物の塩をそえて山犬のねぐら付近に置いてやる習慣を守ってきました(明治中ごろまで)。そのせいか、守屋家の誰かが外出して夜道を帰る時には、山犬がどこからともなく現れて、その人を守るように、後をつけてきました。屋敷の入り口で「もういいから帰んな」というと、山犬はスタスタ去って行ったと言うことです。
武蔵御嶽信仰にまつわる「お犬さま」の感覚をよく示している話だ。日野市域はほぼすべての旧村域に御嶽の代参講があった。御師たちの活動も活発だっただろう。ちょっとそれにとどまらないかもしれない話もあとで出てくるが。 |
高幡不動
そして京王高幡不動駅へ。駅前の商店街の通りの向こうに仁王門が見える。THE門前町であります。 | |
いうまでもなく東京都下では指折りの古刹でありまして、このお寺の事を解説しはじめたらそれでおしまいになってしまいます故、概要などは公式サイトをご覧下され。
▶「高幡不動尊」(公式サイト) |
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ちょっとあまり紹介されていない面白い話としては、お不動さんももともと写真の仁王さんのように金泥眼だったのだけれど、光って往還を行く馬が竿立ちになってしまうので漆で塗りつぶされた、なんて話がある(市史)。 | |
よく見ると二重に参道があるような変わった配置なのだけれど、ここは本来は「金剛寺」であり、後背の高台上(これ重要)にあった不動堂を康永元年に下ろしてきて(写真)からこのお不動さんの方が有名になってしまったのであります。 | |
今はこちらの奥殿と呼ばれる宝物殿にお不動さんも安置されている。「自由参拝」だけれど、中に入って見るのは300円(笑)。 | |
土方歳三の菩提寺でもあるためか(お墓は東の方の末寺・石田寺にある)、お若い方々も結構きていた。これですね、この像を撮ろうとしたらいきなり日が射したんですよね。役者やね(笑)。 |
旗かけの松
昔鑓水に与兵衛さんという人が住んでいました。その家の女衆は毎日機に上り、きれいな幟旗を織っていました。織り上げるとそれを戸外に広げて干して置くのが常でした。あるときにわかにつむじ風が起り、干してあった幟旗を吹き上げて、どこへとも知れず飛ばしてしまいました。仕方なく人に尋ねながら探し歩いたすえ、それが多摩丘陵の山々を越え、はるか東北にある高幡不動堂内の松の木にかかっているのを見つけ出しました。このとき与兵衛さんは、この不動さまに願をかけていたことを忘れていたことに「はた」と気がつきました。
満願の暁には幟旗を奉納しますと願を掛けていたので、はたが飛んだというお話。与兵衛さんはあわてて幟旗を奉納して、それ以降家業はますます栄えた、のだそうな。高幡不動ではこういった養蚕機織の重要地だった鑓水との関係を語る話もある。
▶「鑓水」(多摩行:八王子) 八王子市西寺方町に大幡というところがあり、そこの宝生寺に「鈴のついた大きな旗」がどこからともなく飛んできて、大幡に落ち、また飛んで高幡不動へ行き、最後に相模落幡へ飛んで行ったという伝説があることは紹介した。 ▶「大幡」(多摩行:八王子・連) これが高幡の方では鑓水からだというのですな。また、相模落幡へ飛んで行ったとは特にいわないようだ。ふーむ。そもそもこの伝説群に関しては「源氏の白旗」の話なのか「養蚕機織の幡」の話なのか、という問題があるのだが、ここでも両方いうわけではある。 ここで問題となるのは「高幡」という名そのものなのだけれど、これはどうも「高畑・高畠」がもとであったようだ。家康のころの記録でも「高畠村」とある。先にいったように、不動さんは高台上にあったのだが、そこを「高畑・高畠」といったという(市史)。そうなるとそれが「高幡」となる経緯と「はた」の伝説との間にかなり関係があると思われるのだが、よく分からない。桑都の人たちはよくお参りに来たりしたのかね。 ここまで大きいお寺になると全方位に信仰されてしまうので、特定の業種との関係が特異にあるかどうかというのも分かりにくくなりますな。浅川の向こう岸の方は「桑田村」といったか。日野本町の方には養蚕試験所もあったか。しかしこの辺蚕影神社的な存在は少ないのだよね。うーむ。 |
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あるいは境内の写真の弁天さんがカギを握ってたりせんかね、と思いつつ、今回はこうして「飛ぶ幡伝説パズル」に高幡不動の旗かけの松を追加、という感じであります。 | |
何やら変梃な格好をして後ろ脚をバタバタさせている高幡不動の猫さん。 | |
見たにゃ? |
駒形公園
そこからは今度は浅川を渡りまして、川辺堀之内という所へ。ここに「駒形公園」と見えたので寄った。 | |
寄ったら本当におんまさんがいた(笑)。「なんかくださいや〜」という感じににゅっと顔を出すのだけれど、やったらイカンと書いてある。残念でした。
『新編風土記』には駒形明神社と見えており、実際駒形さんの祠があったらしい(今でも個人持ちであるようだが)。そして、次のような伝説がある。 |
昔、府中に国府があったころ、毎年駒競べが府中で行われていた。ある年、川辺堀之内の馬が参加した。この馬は非常に足が早く、駒競べで一等になったが、馬はそのまま駈け続け、とうとう川辺堀之内の自分の故郷まで駈けとおし、そこでばったり倒れて死んでしまった。
村人はその馬を憐れに思い、駒形明神としてお祀りしたそうな。国府の時代の話というので、この辺りに官牧があった頃のことをいっているのじゃないか、という点がまず気になる。さらに、ここからこの土地に武蔵高麗郷の高麗氏の関与があったのじゃないか、というところが重要となるのだ。高麗氏の件はこの先の豊田の方を見てからまた述べよう。 |
川辺堀之内:日枝神社
川辺堀之内の鎮守さんは「日枝神社」さん。写真のような実にこまい道を行かないとたどり着かない。 | |
すぐお隣が延命寺というお寺で、その守護神の山王さんといったところだ。先の駒形さんも延命寺持ち。とりたてて何だという由緒はないが、天王さんの話があって、これは少し覚えておきたい。 今は御祭神にも合祀記録にも見えないが、かつて天王さんが流されてきて、これを併せ祀ったという土地の伝がある。故に、山王さんなのにそのお祭は天王祭といったそうな。いずれ、この天王さんがどこから流された、なんて話も出てくるかもしれない。 日枝神社さんのすぐ後ろが浅川なのだけれど、遡れば八王子横山であります。そちらの方で見たように、この川も流される天王さんの問題があるのですよ。 ▶「八幡八雲神社」(多摩行:八王子) |
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日枝神社さんは拝殿のぐるりにこのように白玉砂利を敷き詰めてあって、ここまで真っ白にこだわるのは珍しいですな。 | |
また、御本殿真後ろに大きな御神木のムクノキが聳えるお社でもあります(市指定天然記念物)。市内では最大のムクノキだそうな。なんか伝説とかありそうだけどね。 | |
ちなみに、この日枝神社さんの解説は、隣の公園にあった。中央右の立て札。参拝に来た人がこちらまでは気がつかないじゃないの、という。実は百草八幡宮の解説も随分下の公園にあったので、もしやと思って公園に寄ったのだけど。土地柄? |
豊田:若宮神社・鹿踊の話
白髯神社
まつり塚
豊田駅を越えまして、さらにちょっと寄り道。富士電機という会社があって、その敷地内なのだけれど「まつり塚」という塚跡がある。市指定史跡。 赤い松が見えておるのがそれ。もともと塚が現役だった頃の松は黒松だったそうだが。ここは今は富士町という新しい大字名となっているが、かつては豊田村と平山村の境であり、豊田から八王子へ向う稲城往還という道だったそうな。そして…… |
その両側には松の木が植えられ、松の根本は土壇になっており、数基の石仏があったが今はない。ここは塞の神に祈願する場所であった。人々は流行病のとき、ここに注連縄を張り通切りの祈禱を行って疫病の侵入を防ぎ、また病魔送り出しをした。
高幡:若宮愛宕神社
住職の心からのもてなしを受け、更にしばらくの滞留をすすめるのを辞して、旅僧は去ってゆきました。僧俗大勢が見送って村境近くまで来た時、旅僧の姿がふっと人々の眼から消えました。人々は唯呆然とするばかりでした。「あの旅僧は只者ではない。きっと仏の化身だったに違いない」。人々はささやき合いました。そして旅僧の消えた地を別旅(わかたび)と名づけ、そこに一社を建てて宇佐八幡を勧請しました。これが別旅明神で、のち若宮明神と改めます。
石明神社
浅川を渡る。渡っているのはすげえ立派な橋なんだけど人道橋なんだよね。東京はオッカネェとこずら(笑)。
▶「ふれあい橋」(PDF) |
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渡った先、今は石田地区となるが「石明神社」さんが鎮座される。本来は南側の新井村の鎮守であった。新井は主に川向こうなんだけどね。これも流路変更の何かかね。 | |
堰大明神・石大明神ともいわれたといい、「せきの明神」が本来なのだろう。不詳ながら南北朝の創建と伝える。御祭神は猿田彦命。『新編風土記』にも御神体の石棒の図が描かれているが、まぁ、つまりは石神さんであります。 | |
しかしこれすぐ前の公園が「石明(せきめい)公園」とかになっているのは微妙にどうなのかね。「石の・明神」であるのか「石明の・神」であるのか、将来胡乱になっていきそうな。明神さん系はこういうの多いが。 | |
で、ですな。ここは大問題なのが境内社の御嶽神社さんなのだ。コンクリ造の境内社というからこちらだろう。合祀社という記録はなく、昔から境内社であるようだ。こちらがですね御祭神が「櫛麻知姫之命」であると『市史 民俗編』にあるのですよ。 武蔵の神社メグラーでもないと何が問題なんだかワカランですね?武蔵の式内社に大麻止乃豆乃天神社があり、幾つか論社があるのだが、御祭神を櫛真智(くしまち)命としている。青梅の御嶽神社も有力論社で主祭神は櫛真智命。この櫛真智命は奈良の天香山神社の神に同じで卜事を掌る神であるとされ、天児屋命の別名という人もいて、つまりは男神だと思われるのだが、ここで石明神社さん境内社の御嶽さんには櫛麻知「姫」之命が祀られているというのだ。ちょっと今のところ他でこういった話は聞いたことがない。 はたして櫛真智の神はヒコ・ヒメで祀られるような神格だったのだろうか。それとも妃神・娘神を語るような神族を形成する側面があったのだろうか。はたまた単に『日野市史』の誤りなんだろうか。と、非常に問題なのであります。 ここまで実は御嶽さんが多かった、ということをちらちらいっていたのはこの問題があったからなんですな。はたしてこの地に、今はもう知られなくなってしまった御嶽信仰の一側面があったのかどうか。この「櫛麻知姫之命」の名はしっかりと覚えておきたい。 |
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ちなみに石田村というのは土方歳三で有名な石田村ですな。土方新田という所もあった。石田寺に土方歳三の墓がある。あたしは特に縁がないので行かんが。 |
下田:八幡大神社
宮:別府社
飯縄権現
坂西横穴群
神明:神明社
普門寺の八幡石
ようやく日野本町に入りまして、「普門寺」というお寺に寄り道。先の神明さんや次の八坂さんの別当だったお寺。かつては日野宿の寺といったらここだったのじゃないか(もっと西にあったというが)。 | |
しかし、こちらにお邪魔したのは、お寺の話というよりも写真の石の話なのであります。解説がなかったら単なる庭石のようだが、これが伝説の石なのだ。「八幡石」という。 |
寛文のころ、普門寺のお坊さんがある夜不思議な夢を見ました。夢のお告げに「昔北条氏照という大名が建てたお社が、今は荒れ果てている。それを探し出してお寺にまつり直しなさい」とありました。告げられたとおり、お坊さんは高倉の西北(今の日野台五丁目付近)にある小さな塚を掘ったところ、大きな石が出てきました。
ということで、このときの大石運搬の遷座祭には、日野宿中の人々が飯の炊き出しをしたりして、大さわぎになったそうな。で、この氏照の建てた社というのが八幡だったという話であり、八幡石という。この話そのものも八王子の方との関係を考える上で重要だが、石脇には更に興味深い記述があった。「その大きさ形状等から見て、古墳の石室の天井石と考えられ……」だそうな。なるほどね。これは、あとで繋がってきます。 |
日野本町:八坂神社
日野宮神社
ようやく日野の由来といわれる「日野宮神社」へ。昔は日ノ宮権現といった。まず、鷄卵問題は棚上げして、関係するトピックをフラットに並べてみよう。
日野地名の由来:国府が今の日野台に烽火台を設けていた、それで飛火野といったから、という「飛火野」説。そして西党日奉氏が守護社として日野宮神社を構えていたから、という「日野宮」説。さらに、日野中納言の玄孫の宮内資忠なる人が来住したからという「日野中納言」説、の三説がある。「日野中納言」説は『新編風土記』が既にアヤシいといっているし、先の二説は日野台で火を焚いたのが日奉氏だった、とすれば同じことともいえるので、概ね日奉氏に由来するのが日野であると考えてしまって良いだろう。大体、『新編風土記』では日奉氏を日野宗頼とか日野宗忠とか「日野氏」として記述している(現在一般にはこの氏族を「日野氏」とはしない。自ら日野と名のってもいない)。土地の感覚も「そういう武将が居たから」というところだろう。 日奉氏・日奉部:日奉とは最初に述べたように大伴氏に連なる太陽祭祀の古代品部として設立され、武蔵国府におけるその日奉部の末が武蔵日奉氏なのだということになる。ここから平末の武士団、武蔵七党の西党が起る。西党(小川氏)の系図では、藤原道頼の子の(藤原)宗頼が下向し、これが日奉氏の女を妻として「日奉宗頼」と名のったといい、この人が西党の初代という位置づけになる。つまり藤原氏を父方祖、古代日奉氏を母方祖とするのが西党(西姓日奉氏という)。しかし宗頼が藤原道頼の子というのは諸記録に見えず、例によってこの系図は仮冒であり、西姓日奉氏も横山党小野氏が小野篁の末とするの同じで、本当は国造末流であろうと見る向きもある。 太陽祭祀:それでその太陽祭祀が実際行なわれていたのかというと、特に西党にそのような祭祀の伝承はなく、祭祀遺跡なども報告がない。しかし、日奉氏の館があったと伝えるここ日野宮神社から東光寺(廃寺)、七ツ塚古墳群あたりからは、冬至の日の入りの方向に正確に富士山がくる。これは今でも日野市の名物になっている。 ▶「日野でダイヤモンド富士を探そう」 (日野市観光協会) このラインに日奉の名があるのは偶然とは思えず、やはり日奉氏としての役割もこの地で果たしていたのだろう。 |
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いずれにしてもその西党・西姓日奉氏宗家が館を構えていたのが日野台であると伝わり、その守護社として創建されたというのがここ日野宮神社なのであります。 | |
初代の日奉宗頼とその孫・日奉宗忠、そして大伴・日奉氏の祖神となる高魂尊(高皇産霊尊)、更に祖神となる天御中主尊を御祭神とする。もっとも額面通りなら少なくとも『吾妻鏡』辺りには見えそうなものだが、ない。 ではずっと下るものなのかというと、この下からは中世の大型集落が見つかっている。「栄町遺跡」というが、概ね十四世紀の集落址で、その頃に重要な土地になっていただろうことは間違いない。西党に関しては、小野牧の北側の小川牧を管理していた人たちだろうとも思われ、そちらに武蔵古代二宮の小河大明神(現・二宮神社)があり、小野氏と日奉氏と考えたらそちらが日奉氏の根本社じゃないのかという問題があるが、この日野との新古関係がこれからの課題になるだろう。 |
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とまあこのように、これらのうちのどれが古くに遡るのかというのも難しい日野宮なのだけれど、この土地(昔は四谷といった)にはさらに、虚空蔵菩薩と鰻の禁忌の伝承がある。もとは四谷の部落持のお堂にあったというが、近世の虚空蔵菩薩像(先の写真)や室町に遡る阿弥陀如来座像などが、現在日野宮神社に安置されている。虚空蔵菩薩は日ノ宮権現の本地仏であるという了解らしい。 なぜかナマズの殿下の秋篠宮文仁親王が二度に渡って見学に来られたそうで、語りぐさになっているが、ここにあるのは鯰の伝承ではなく鰻の伝承である。 普通に虚空蔵さんのお使いだから(像の袖が鰻を象っているのだそうな)食べないともいうが、それだけではない。 |
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神社のすぐ北が多摩川だが、ある洪水の時に壊れかかった多摩川の堤防の穴にたくさんの鰻が入り込み、村を洪水から守ってくれたのだという話もあるのだ。単に虚空蔵信仰があるというより一歩踏み込んだ伝のある土地といえよう。 下野星宮のところで指摘したように、虚空蔵信仰というのは「国造(くにのみやつこ・こくぞう)」と掛けているのだ、と語られる場合がある。ここまで見てきた日奉氏の話に虚空蔵さんと鰻の話が絡んでくるのもあるいは偶然ではないかもしれない。 |
安産薬師と姫の権現
枝栗を供える古くからの言い伝えを守り、今でもそのとおりに行なわれています。その縁起は、安産を祈願する妊婦の夢枕に立たれた薬師さまのお告げによったものと伝えられています。
七ツ塚古墳