多摩行:八王子

庫部:惰竜抄:twitterまとめ:2013.03.23

東京都八王子市というのは古代から八王子といったわけではなく、小田原北条氏あたりがこの地域を八王子方面といっているのが初見となる(八王子信仰そのものは延喜年間まで遡るという)。小田原北条氏、四代当主北条氏政の弟北条氏照が八王子城を築き、これが全国制覇目前の豊臣秀吉方に落とされた際の印象が後代に強く残り、広域に八王子と呼ばれるようになっていった。
平末から中世は武蔵の武士団、武蔵七党の筆頭横山党の本拠であり、横山荘(船木田荘)だった。近世の土地の中心(今の八王子駅付近)は八王子宿ともいったが、まだ八王子横山宿ともいった。横山氏は国造氏族小野氏の後裔と思われ、彼らがいつ頃どこまで南下していたのか、という問題は相模のことを考える上でも第一級の課題である。あたしはこれをもって神奈川県央部から多摩の北までのラインを「八王子ライン」と呼んでいる。
その八王子ラインの中核である所の八王子なのですな。そして、今回はその古代史的な問題もさることながら、近世から盛んとなった関東養蚕文化の大きな流れがここにある、ということも課題となるのであります。八王子自体が「桑都(そうと)」というまたの名で呼ばれた養蚕絹織物の土地であったのにくわえ、周辺各地の織物が集まる場所でもあった。つまり、八王子周辺の養蚕文化の発信源であるのだ。今回はそんな八王子への最初の一歩なのであります。

鑓水日影

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まずは相模との境であります橋本駅で降り、多摩美行きのバスに乗りまして、八王子市鑓水というところへ。♪さ〜くら〜ひら〜ひら〜……って、まだ咲いたばかりなんだけど、神奈川県央の人はこれが耳にこびりついているでしょ(笑)。
(小田急線海老名駅とかはいきものがかりの「SAKURA」が電車の発車ベル(?)なのだ)
ここが鑓水(やりみず)。かつての鑓水村。幕末横浜開港を受けて、輸出するために周辺から集められた織物がここに集積された。ここで活躍した商人たちを「鑓水商人」という。

その鑓水の鎮守さんへ参る前に、「日影弁財天」という所へ。ちょっと確認したいことがあったのですな。地図上「日影伏見稲荷神社」となっていて、写真手前の赤祠がその稲荷さん。
んが、まわりの緑地公園も「日影弁財天緑地」とあったので、写真の弁天さんの方が主なのだと思うが。ともかく確認したかったことというのは鑓水の小字日影(古くは「あら屋敷」とも)がどこかということ。ここで良いようだ。
そこから県道を渡って北側へ。大栗川という川に「御殿橋」という大仰な名の橋がかかっている。鑓水商人たちの活動の中心だった所だ。
ここに八王子片倉方面から絹織物が運ばれてきたわけで、そのルートは今「絹の道」と呼ばれる。
行き来した商人たちが目指した道標の石柱も橋のたもとにある。

鑓水の諏訪神社(子の権現)

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その絹の道ではなく、橋先から西へ入った所に鑓水の鎮守「諏訪神社」さんが鎮座される。家々の奥だが、通りに案内看板が出ているのですぐ分かる。ここがなかなか惑わしてくれていたのですよ(笑)。
実は、ここに祀られていた鑓水村の鎮守は「子の権現」だったのだ。諏訪神社というのは先に確認してきた日影という所に祀られていた。その諏訪神社ともう一社八幡をここ子の権現に合祀した際、なぜか諏訪神社になってしまった。
御本殿は大きなものが三社分並んでいるので、覆殿も横に長い。そして、向って左のこのちょっと不思議な空間にさらに覆殿がある。中には子の権現の旧本殿が据えられている。今の御本殿は寛政年間のものだから、それ以前のものである。
この旧本殿の覆殿内に、このように養蚕にまつわる絵馬やら何やらが奉納されているのですな。そう、ここの子の権現さんは、養蚕守護の子之神であったのだ。 前回綾瀬行で、子之神が養蚕守護である話というのはあまりないが、といっていたが、鑓水にあったのであります(蛇神とはいわないが)。

綾瀬行:子之社(綾瀬市小園)

ここでは「子・鼠」であることが重要となっており、そばを白袋に入れて「鼠の餌」として子の権現に納め、祈願したという(繭玉に見立てているのだろう)。鼠は繭玉・蚕を食べてしまう養蚕の天敵なので、餌を納めてお蚕の方はとってくれるな、としたのだろう。
ちなみに、覆殿内の足形のような鉄板の絵馬は繭玉(めーだま、という)を表しているに違いない。なぜかこのように真ん中をくぼめて瓢箪か落花生のような形を作る。これも、こちらで満足して下さい、ということだろう。
このような養蚕守護の子の権現が絹織物の村鑓水の最も重要な鎮守さんであったのだ。本社殿拝殿上の鳳凰の上の翁も、これ多分鼠を抱いているのだろう。今は諏訪神社が表の名だけれど、養蚕守護の子之神ここにあり、と覚えておかれたい。
また、この子の権現の創建は養蚕が盛んとなった近世よりも遡り、北条氏照が滝山城(にはじめは居した)に祀った神を同じく祀った、というので「後北条氏の子之神」という課題においても後々重要となるお社かもしれない。まぁ、実はこの日は絶賛社地の整備工事中でありまして、あんまり落ち着いた感じじゃなかったんだけどね。手前は境内社の集合覆屋(さらにこの内にも蚕影神社が祀られている)。
本社殿から一段下がった所の神楽殿。工事のあれこれが山積みになってしまっていてなんだが、この神楽殿はあとでまた出て来るのでちょっと覚えておかれたい(別に様式とかじゃないよ)。

絹の道資料館

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そこから絹の道に戻りまして北に進むと「絹の道資料館」がある。入館無料。あたしがこの日最初のお客で、管理のおとっつあんが大慌てで館内の明かりをつけた(笑)。
営利目的でなければ気軽に撮影も可。すばらしい。そんな大それた資料が展示してあるわけじゃないけどね。こんな昔の村の写真とかもある。
「その昔、日本がまだ東洋の小国であった頃、多摩丘陵の一寒村にすぎなかった鑓水村が、遠くアメリカやヨーロッパから、「江戸鑓水」と注目を浴びたことがありました。」と展示案内ははじまっている。開国直後にでっかい異人さんたちが生糸や絹織物を買い付けにこの小さな村に次々やって来たのだ。
これはもう昭和の写真だが、先の神楽殿でのお祭の際の様子。鑓水商人たちの活躍は養蚕絹織物が国家主導の産業となるに及んで、また、鉄道輸送の発達により、わりとあっさり消滅してしまったが、この時期にもこのくらい賑やかなお祭があったのだ。
小さな展示館には鉄板であるジオラマ。こんな「ザ・谷戸」という本当に小さな村だったのですよ。そういやシュリーマンは八王子に来て、養蚕の模様とか紹介してたな。鑓水にも来たのだろうか。

絹の道

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古道としての絹の道は車通りから外れて写真の奥に入って行く。石造物がずらり。
またそういや、鑓水では馬頭観音さんを「おんぎょうさん」といっとるのだよね。なぜか茶を献じる咳の神化しているのだが。ともかく、実は八王子北には四国のような首なし馬「夜行様」の伝承がある。なんか関係あるのか。
絹の道は文化庁選定「歴史の道百選」の東京代表でもある。この辺の未舗装部分の道が指定されている。
引っこ抜かれて立てられてんのかと思ってびっくりした(んなわきゃねーだろ)。この辺には絹の道ルート以外にもう一本東からも道が来ており、そちらを東の谷戸というが、「嫁入り谷戸」とか「巫女が沢」とか不思議な小地名がある。
ちょっとメモしておこう。昔、ある鑓水の祭の日に、見たこともない美しい巫女が舞い出したのだが、どこからともなく白羽が飛んできてこの巫女を射殺してしまった、という。そこを巫女が沢というそうな。理由とかそれでどうなったのか、などはまったく語られない。実はその巫女は狐だったのだ(だから神さまが射たのだ)なんぞという解釈もあるようだが、矢を射た所を「弓射り谷戸」といったのが訛って「嫁入り谷戸」になったのじゃないか、などともいう。
まぁ、なんだか分からん話なのだが、あたしとしては「嫁入り谷戸」に関して「鼠をヨメという」という点を少し繋げて覚えておきたい。このヨメとは夜目のことで、鼠の忌み名である。昔はその本当の名を呼ぶとそれが湧いて出てしまうという考えがあったので、鼠や蛇など色々忌み名で呼んだ。

大塚山・道了堂

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この絹の道の最高地点を「大塚山」といい、鑓水商人たちが建てた「道了堂」があった。浅草から勧請したのだそうだが、もとをただせばわが西相模の雄、大雄山最乗寺の道了尊であります。
登り口の「絹の道」の石碑の基部を見ていただきたい。右から桑・糸巻き・繭玉であります。このように繭玉は真ん中をくびれさせて表すのですな。で、子の権現さんの絵馬の鉄板も繭玉だろうと。
登っても既に道了堂は今は昔ではあるが。ここもなんか工事していたから整備はされるのかもしらん。
往昔の様子はこんな。結構立派ですな。

ところでそも「鑓水」とは何ぞや、という話だが、昔養蚕も何もなかった頃、ここに湧き水があって、小山太郎とも大藤小次郎とも語られる武士が退却してきて、その湧き水で槍を研いだので鑓水というのだ、という伝説がある。小山田、だったのじゃなかろうかね。もっとも土地の古老は、谷戸から丘斜面に節を抜いた竹を突き刺すとそれだけで水が飛び出してくるような土地であり、そのことを鑓水というのだといっている。先の資料館ではこれが公式見解となっていた。
また、鑓水といえば遣り水(屋敷内などに細く水を引き入れる流れ)を思い浮かべるが、地元ではそういったものはピンとこないらしい。ただし、吉田東伍はここを「遣水」と表記し、「鑓水とも書く」と鑓水を補足としている。
そんな絹の道でありました(史跡としてはこの大塚山から御殿橋までの間を絹の道という)。おまけで道了堂跡の金神さん。なぜに?
しかし絹の道といってもそれは絹の「出口」にすぎないのでありまして、ここから先が桑都・八王子の古くから栄えた土地となるのであります。いや、写真の新興住宅地は新しいけどね。その先。

中山・白山神社

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大塚山から北東方に広がる台地上の新興住宅街の向こうに中山という所があり、そこの鎮守さんが白山神社。写真ド真ん中くらいに参道入り口の旗竿が見えているが、その後ろの山上になる。

中山の「白山神社」鳥居。こちらも鳥居は表通りからは引っ込んだ所にある(看板があるのですぐ分かる)。一旦谷戸の底に下りているのですな。

下りたからには登るのです。ノボルノデス。

さて、ここは中山というが、古くは広く由木(ゆぎ)という土地の一部であり(今の上柚木・下柚木が遺称)、白山神社はこの由木の鎮守として平安時代まで遡る社だと考えられる(「白山神社」であったかどうかはともかく)。

平末、かの武蔵坊弁慶の血縁であるという比叡山の弁智という僧が法華経を関東の七社に奉納し、その内の一社がここであったと伝えられてきたが、文政九年に社殿裏の塚より本当に法華経十巻が発見され、奥書に「長隆寺西谷書字了勧進僧弁智血縁者僧忠尊」とあり、伝説が本当であったことが分かった。
平安時代の名刹であったと伝わる長隆寺という寺はとうの昔に廃しているが、その礎石であるといわれてきた石も境内にある。うーん、「腰掛け石」の類にはそういう意味もあったりするかも?

で、ですな。この経塚から出た法華経奥書がまた、古代横山荘に関する重要史料なのだ。そこには「武蔵國西郡船木田御庄内」とありまたこの事業を支えたと思われる人物の名として「小野・清原」の名が見える。仁平二年(1154)とあり、これすなわち武蔵船木田荘の初見である。南北朝期の史料などからも、この多摩の横山荘周辺がまた船木田荘と呼ばれていたことは分かっていたのだが、現在では船木田荘がもとあり、そこから新たに広げた土地、ないし船木田荘そのものの通称が横山荘なのだろうとされる。白山神社から出た法華経からは、このような小野・横山氏の平末の様子が伺えるのである。
そして、横山党が船木田荘の下地で武士団的発展を遂げたのであるとすると、相模愛甲との関係も視野に入れたくなる。詳しくは端折るが、相模式内:小野神社が、武蔵一宮小野神社・この奉祭氏族と思われる武蔵小野氏・その後裔という横山氏と関係する社なのかどうかという問題がある。つまり、古代に相模愛甲まで小野・横山氏が進出していたのかということだ。

厚木市には「船木田」が元の名であったという「船喜多神社」がある(左写真・地図)。かつては地域惣鎮守の大神社であった。しかしこの厚木の船喜多神社が武蔵船木田荘と関係あるかどうか、残念ながら史料上それを示すものはない。とはいえ、横山党と相模ということを考える上で、この双方が頭になくて良いということはなかろう。また、この先八王子行ではあれこれ厚木の方との類似がまま見えて行くと思うが、この件もその一つとなるだろう。
しかしなぁ。その経塚とやらはどこやねん、という。社殿後背はこんな風にすぐ落ち込んでいる。よもやこんな斜面なり下に塚は造らんだろう。
そこから白山神社御本殿の方を見上げるとこんな。今本社殿があるあたりに塚があった、ということなんかね。
また、小野・横山氏と強く関係があったかもしれない、という点に関して、当時「白山神社」ではなかった(だろう)としたら、ではなんだったか、ということも考えておきたい。はじめの長い参道階段脇にはこんな石祠があって「産土神社」とあった。『東京都神社名鑑』のここの白山神社さんの稿には境内社の記述がまったくないのでもとより分からなかったのだが、摂末社が列挙されている社頭掲示にも「産土神社」というのはない。あるいは白山神社以前の地主の神をいっているかもしれない。それが何かは分からないが。
そういった難しいお社の白山神社さんだが、まわりのあれこれも。ひとつひとつはあげないが、この日回ったお社は皆こんな風に立派な神楽殿を構えていた。
でっかい釜だ。
摂末社のうちいくつかが、神社に隣接する大きな公園の中に構えられているというのも珍しい光景だった。もうちっと日差しが強くなったら、皆寄ってくるのじゃないか。
大公園の端にさらにまた小さな公園があって、そこにも末社のお稲荷さんが配置されている。公園を走り回る子どもちゃんたちが見守られているようで良い感じだが、お参りはしにくい(笑)。

打越弁財天

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中山から野猿街道の方まで下ってくると、「打越弁財天」と刻まれた燈籠が道両脇に立っている。ここがその弁天さんへの入り口となる。ちなみに中山の方からはここに一旦下りて来ないとこの弁天さんへは行けない。
結構先にお宮の丘がある。今はバイパスが通って半ば削れてしまったが、打越という土地を見晴らす場所に祀られていたのだ、という面影が少しはある。
この笠は鱗模様ということなんかね。石祠なんかも鱗っぽい模様があるのだよね。弁天さん系は鱗模様にするのだ、という共通認識があったのだとはっきりしたら名無しの石祠を見分けていく指標の一つになるのだけれど。

そして先の丘上に「打越弁財天」。神社というよりこの先の梅洞寺というお寺の飛び地弁天である。ごく最近建て直されたようですな。ここが八王子の養蚕信仰を強く集めてきた幾つかの焦点の一つだった。
ここは端的に鼠からお蚕さんを守ってくれる「白蛇」のお宮であった。卵や絵馬を奉納して、「弁天様のお使い蛇」を借りてきて鼠を退治したというのだが、「打越のお使い蛇はよく鼠を捕ってくれる」となんだか本当に蛇がいたかのような話である。
そしてお宮にはまた三つ鱗が。あはーん?梅洞寺って小田原北条氏と関係があるのかしら。ざっと見は特にないが。しかし三つ鱗のまわりにさらに波というと小田原の海に祀られる竜宮さんなんかの紋がそうだが。ううむ。
ところでそもそもこの場所というのは打越弁天といっても奥宮のある場所だった、らしい。こちらの弁天塚という石祠が古いのかしらね。里人が普段お参りする里のお宮は、先の入り口燈籠付近にあったようなのですな。そのあたりは、ちょうど鑓水の方へ行く経路ということもあっただろう(実際あたしがそう辿ってきたわけで)。里のお宮から奥宮のここまでは「蛇の道」といったそうだが、まぁ、今は普通の住宅街とバイパス沿いという感じだ。

道行き・梅洞寺・葬式の臼

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戻る途中の馬頭観音さん。レンガが使われていたようだ、というのは度々目にしたが、現役完全版というのははじめて見たかもしれない。まぁ、古いわけではないようだが。
戻って下ると、もう八王子盆地の市街地である。もう半ば都会である。んが、猪が出るらしい。ワイルド八王子(笑)。

平地市街地に出る前に書いておくが、この八王子市街地には古いものというのはほとんどない(現存しない)。何となればここは「八王子大空襲」にてほぼ全滅してしまったという土地なのだ。

「八王子空襲」(wikipedia)

ということで、神社をはじめ色々な文物もスライドパズルのようにしばしば位置が変わっていたりするので難しい土地なのであります。と、途中こんがらがるかもしれません、という言い訳を先に(笑)。
打越の八幡さんに参ったのだけれど、そのすぐ南側が先の打越弁天さんの本寺の梅洞寺なので先に。名のとおりお寺の紋は梅なので、先の三つ鱗はやはり弁天を意味する紋なのだろう。「霊園墓地」となっているが、さっき述べた通りに八王子は空襲で壊滅しているので、お墓も「霊園」という形態であることが多いようだ。

で、ちょっとここで現物には行会いそうもないこの辺の葬礼に関する習俗を一つ紹介しておこう。なんと(あたしは知らなかったのだが)多摩地方を中心に津久井・愛甲の一部まで、葬儀のあと「逆さにした臼に腰掛ける」という習俗があるのだそうな。昔そうした、というのでなく、今でも葬儀屋さんが臼の絵を準備していてそれに腰掛けるという。マジですか、多摩方面の方々。意味はまったく分からない。臼は「うす(失す)」に通じるので忌中払いになるのだ、などというらしい。全国的には葬儀から帰ってきたら臼のまわりを回るとか何かと臼が出て来るのではあるが、座るってのは他にないのじゃないか。

打越・八幡社

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そして打越の「八幡社」さん。小字は土入になるのかしら。土入八幡、が通るのか、もっと川の方か?ともかく、ここは文治二年に鶴岡八幡宮を土入にあった別当薬王寺の地に勧請したと伝わる八幡。
文治二年(1186)というと鎌倉に入った頼朝が着々と鎌倉の地を整備していたころで、これに歩調を併せて頼朝に合力した横山党の本拠近くに勧請された八幡、ということになる。元々横山党は平氏だ源氏だというより仮冒でも何でも小野氏であるので、横山氏自体の氏神として八幡、という構図はないはずだ。しかし、この日最後の方に参る本拠の横山のお社も八幡ではあって、横山党にまつわる八幡、というオーダーは数えあげていったら面白いことになると思う。
境内に観音さん?個人がそうしたというには手が混んでいるような。後ろの木が何かなのか。子安信仰の何かがあったりもしたのかね。
よーく見たら木鼻の獅子どのがものスゲイお顔をしていた(笑)。

北野町・天満社

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打越から北へ進むと北野町といい、天満天神さんが鎮守なのでそういう。その「天満社」。で、鳥居前左右にすでに「北野天満社」「鹽竃神社」と見えておりますね、えぇ、これが……
……こうなのだ。なんとまぁ。手前が鹽竃神社で奥が天満社。「末社:鹽竃神社」というのだが、これ末社というのかね。
八王子の神社というのは合祀に関してなんだと思うがちょっと特徴的な所があり、一社にまとめるというより並列させる面がままある。例えば「住吉神社琴平神社合社」などといって、それが正規の名称だったりするのだ。天満社は名称はまとめているが、社殿の方が並列している例かもしれない。実はこの鹽竃神社さんのことがよく分からないので何ともいえないが、合祀に対する抵抗感みたいなのは感じられる。
鹽竃神社さんは木鼻が竜ですな。鹿島・香取・塩土老翁命という御祭神の鹽竃神社だが、御神徳は安産なんだそうな。塩土老翁命の御神徳なのか。どういう系統なのか。

さて、主の方の天満社だが、これまた難しいお社である。いつの頃か不詳ながら横山党が北野天満宮を勧請したという伝がある。で、一部ここを式内:大麻止乃豆乃天神社に比定する説がある。『式内社調査報告』には『武蔵演路』(安永年間の地誌)にそうあるとある。
大麻止乃豆乃天神社の論社というのは稲城市大丸の同名社か武蔵御嶽神社の地主の神がそうだったろうというのが双璧で、次いで武蔵総社の地主の神という線か。というわけでここ八王子が、というのは参考程度だしあたしもそう思うが、考えると面白い話ではある。
式内の多摩郡八座中三座は「○○天神社」なわけだが、どこも菅原天神ではなかったろうと考えられる。横山党(小野氏)は多摩の頭領だったわけだから、これらの多摩天神(?)をここにも祀った、ということはありそうな話ではある。
と思うとですね、天満鹽竃両社の間奥に石祠があってですね?アヤシイですねぇ。『神社名鑑』とかには記載がない。
境内には縄文時代の住居址もあって「ほほう!」と思ったのだけれど、これは百メートル程南で発掘されたものがこちらに移され保存されているということだそうな。関係するものかどうか。
社殿向って左手に薮に囲まれながら神池があって、奥にも祠がある。弁天さんがありそうな所だが、これが「古峯原神社」といって日本武尊を祀るそうな。「原」とはなんだ。なんだかよくよく見る程に不思議な神社ですな、ここは。八王子市内には式内社の最有力論社というような古社はないのだが、中山白山神社にしても、ここ北野天満社にしても、おとらぬ伝を持つお社が結構あるのであります。

関根神社

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北野町から北へ、浅川を渡ると大和田町となり、「関根神社」という神社が鎮座される。日枝神社は境内社ということなんだけど、ここも併記ですな。
関根神社は北条氏政─氏照に仕えた関根家の社である。関根家は藤原秀郷らと協力して将門を討った平貞盛の子孫だそうな。関根筑後守光武が氏政より粟ノ須の地を賜ったという。粟ノ須はもっと北の方で八高線の小宮駅の方。
近世は屋号を「元締」といい、木材を扱う商人として活躍したそうな。その関根家の祖を祀る、と『神社名鑑』などは素っ気ないのだが、土地では「関根親子が粟ノ須の大蛇を退治したので、関根大明神として祀った」という話になっている。現在この神社は明治の明細帖に記されたのに従って素盞鳴命を御祭神とする、ということになっているが、これは「大蛇退治」という伝説繋がりでそうなったのだろう。大蛇退治としては「最近」の話であり、あるいは関根家の功績と繋がる話として(治水用水とか)扱うことができる事例かもしれない。
境内道路に面して境内社のお稲荷さん。「安産稲荷」とあるからそういうお稲荷さんのようだ。八王子の稲荷も多くは何らかの御神徳を名に持つ稲荷である。『神社名鑑』だと境内社:稲荷神社とかなので来てみないと分からない。
また、そのお稲荷さん横に渡した縄に……これは初午に習字が納められていた風ですな。ここもお稲荷さんがその役か(最近伊豆修禅寺の方がそうだったので)。多色紙ではないようだが。

修善寺の方のお稲荷さん(この下)

大和田・日枝神社

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そのまま北上して、同大和田の「日枝神社」。普通の山王さんだが(八王子は多い)、由緒によると……
「新選組副長の土方歳三や一番隊組長の沖田総司が京の都に上る以前の血気盛んな頃、昼なお暗い山王さまの杜で大暴れしたくだりが、作家司馬遼太郎の不朽の名作『燃えよ剣』に詳細に描かれております。」とある。
おお、確かに暗いですな、と参道を登りますと……
……随分と明るいんだけどね(笑)。
まぁ、あたしは『燃えよ剣』を読んだこともないし(というか司馬遼太郎の本というのを一冊も読んでいない……orz)、そもそも新選組にどうこうというのもないのだが。八王子の歴史的に、このあたりが江戸から見て八王子の入り口と認識されていた、という点の方が気になって参ったのだ。
八王子には山王さんが多いのだが、ある種道標のようになっていたりするのかね、という。江戸全域にいえることだが。ともかくそれを考えるのならここが入り口ということで(八王子では)起点となるだろう。
ここは狛犬さんがなかなか傑作である。子狛がふんぎゃあとじたばたしておるが、鞠を追っかけているのだ。また後でもこの造形は出てくる。
こちらもお稲荷さんがまた立派に構えられている。大和田では、お屋敷神のお稲荷さんだけど相州秦野の白笹稲荷の流れがあるんだよね。ここは違うのかな。
ちなみに八王子の稲荷信仰に関しては『八王子の歴史と文化 第2号』(八王子郷土資料館)の「八王子の稲荷信仰について」でお屋敷神の稲荷まで詳しくレポートされております。おしゃもじさまとの習合も結構あるらしい。

大和田・八幡神社

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さらに西へ進んでも大和田町の「八幡神社」。ここはどちらかというと地形的な興味で寄った。写真の左奥が丘になってるのが分かりますかね。浅川のならした平地との境が分かりやすくある所なのだ。その河岸段丘の下側に鎮座するというのが特徴なんだけれど、境内由緒書きには明治三十三年に遷座とあるなぁ(『神社名鑑』にはなかった)。もっとも八王子の地形的な信仰の特徴なんかまだまだ先の話だけどね。
八幡さんそのものは創建時期など概ね不詳。正徳年間再建の記録がある。関根・山王と来たが、ここの八幡さんが大和田の総鎮守の社である、ということのようだ。「当町会は八幡神社がすべての原点である」とある。
こちらのお稲荷さんは「大和稲荷」。大和田稲荷でなくて大和稲荷なのだ。なんだ、関係あるのか。
はばーきっとかっと

日月神社

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また北へ。先の段丘を登ると大谷という土地になる。そこの「日月神社」さん。「にちげつ」ですな。なぜか伊弉諾命・伊弉冉命を祀る。
というよりも、お隣の龍谷寺というお寺の「日月両輪宮」といって日輪天王・月輪天王を守護神と祀っていたものが神社化したものだそうな。社殿もお寺の一部のようである。曹洞宗両輪山龍谷寺は寛永十二年の開創。
この大きなお寺が龍谷寺。右奥に日月神社の鳥居が見えるが、昔は境内だったのだろう(ていうかこのお寺、橘紋なんだけど)。西本願寺とは全然関係なくて、土地の名「大谷」と、「近くの弁天池に棲む龍」から一字とって龍谷寺なのだというのだ……いうのですよ……なんですと?あたくしこちらのお寺はまったくノーチェックでして、大谷に弁天池の龍だと?
慌てふためきまして地図など見直すも、弁天池などさっぱり分からん。ということで道行く爺ちゃんに訊いてみましたところ、この先の重要地点、大善寺の向こうに公園があって、そこに弁天池があるという。むぅ、て、いうことは……

大谷弁財天

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とりあえずその公園に来てみましたのココロ。小宮公園という。鳥居があって、なるほど奥に池と赤いお宮が見える。ここが「大谷弁財天」なのであります。
んが、由緒案内もあるのだけれど(日月神社の境外社ということになるらしい)、「池のほとりに石殿を建て、弁財天を勧請し、五穀豊穣と生活の安寧を祈願したもの」とあるくらいで竜の話などまったくない。
これはワカランですなぁ。大谷の竜蛇伝説なんかあったかな。もしあったら八王子の湧水に関する感覚として(特に総鎮守格の子安神社との比較という点で)、結構重要な気がする。これはもう一度調べ直してみないとイカン。

大善寺・機守神社

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さて、そして弁天さん棚上げで参りますは公園のお隣の大善寺というお寺であります。富士見霊園という霊園でもあり、デカイ。浄土宗系の単立寺院。大善寺は北条氏照の開基で、はじめは北の滝山城下にあった。そして氏照に従って八王子城下に移転するが、落城により今の八王子駅の西の方の大横町に移転したという。現代になって大谷に移転した。

で、このお寺そのものも上州の呑竜上人(名のとおり大蛇を呑んでしまったという僧)が三世であったりと興味深いのだが、今回は本堂前にある写真のお宮「機守神社」が重要なのであります。機守で「はたがみ」と読み、一般に「はたがみさま」と呼ばれる。ここが、桐生の白滝姫を祀るお宮なのだ。八王子の養蚕機織りにまつわる信仰の大きな焦点なのであります。これはそもそもこの土地に絹織物の技術が入った由来を語るものでもある。

文政のころ、八王子宿に信仰心の篤い与平という老人がいました。或る夜、夢の中で白滝姫におあいし機織の秘法を授かりました。翌朝目覚めた与平は大変よろこんで、白滝姫のお姿を模写し、大善寺のかたわらに小祠を建て機守神社として、朝夕崇拝したと云います。以来、八王子織物の業に携わる人々から厚い信仰を受けておりました。その後三回の祠の修復が行なわれ、昭和五十七年十二月この地に遷座されました。

境内の由緒(大善寺・八王子織物工業組合)より

『八王子の民俗』(佐藤広:揺籃社)によると、与平は霊夢のあと、実際に上州山田郡仁田山の白滝神社に行って、白滝姫のお姿を模写してきたとあり、その方が具体的な織物技術の伝播があったことを物語っているだろう。
ということでここがあの白滝姫伝説(補遺参照)の八王子への伝播先なのでした。かつては機織り娘たちが髪を切って納め、上達を願ったのだという。

補遺:白滝姫伝説

もともと与平のころの大善寺は大横町にあったのだろうから、まわり廻ってということになるのだけれど、結果大谷弁天さんともとへ弁天縁起の一形だった白滝姫がこうして直線距離にして僅か200mもない所に祀られる次第と相成ったのであります。数奇な、かな。これはなんかあるのかなぁ。
ところで機守神社は、驚いたことに大層立派な門前の随神が守るお宮でもありましたな。ついこの間綾瀬行で、神仏分離前はそういうものが多かったろうといったばかりだが。

門前の神状の石柱(高座行:綾瀬)
おー、あるともよ、といってご登場という感じであります。年号とかなかったなぁ。それは残念だけれど、さすが白滝姫という感じか。山田奴と与平かもしらん。お寺内のお宮故に残った、ということでもあるでしょうな。
そんな大谷の機守さんや弁天さんをあとに、あたしは今度は八王子駅の方へと戻るのであります。また浅川を渡る。こんな大きな川だと思ってなかった。この奥にまた色々とあるんですよね、いーろーいーろーと(笑)。

永福稲荷神社

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八王子市街でありまして、かつての八王子宿としても賑やかだったろうエリアに入ってきますと、新町という地区に「永福稲荷神社」が鎮座される。
昔はこの辺を竹の鼻といったので竹の鼻稲荷ともいう。宝暦六年に近在の力士・八光山権五郎が再建したという(創建は不詳)。燈籠前の社標でもある石は力石と違うんかね(並の人には持ち上がらんだろうが)。
で、ですな。ここ「しょうが祭」をやるのですよね。例祭。今回詳しく検討する材料はまだないので指摘だけしておくが、「しょうが祭」ってのはあきる野市の二宮神社(小河大明神)の祭なのだけれど、二宮神社は北条氏照の信仰も厚く、何かと八王子と関係する所がある。山田の広園寺との関係が竜蛇的に大問題なのだけれど、永福稲荷には間をつなぐ何かがあるのかもしれない。
また、再建した力士・八光山権五郎という人が今はもっぱらに喧伝されるのだけれど、嶋屋という絹問屋の後継ぎであったともある。つまり、宝暦の頃には「絹問屋」が稲荷を構えるくらい立派にあったようだ、ということである。概ねこの宝暦あたりから八王子の養蚕織物は本格化したと考えられている。

八幡八雲神社

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さあ、そしていよいよやってきましたは横山党の横山荘ということならその総鎮守となる「八幡八雲神社」であります。概ね横山党の本拠地を示すお社であるといって良い。
社伝では横山氏の祖ということになっている武蔵国司・小野隆泰なる人物がこの地に石清水八幡宮を祀ったのだという(延長二年)。その子、小野義孝が横山義孝と改め、この人物が横山党の始祖であることになる。もっともよく分かってくるのは六代子孫の横山時兼(小野時兼)が源頼朝に合力して鎌倉の有力御家人に名を連ねてのことで、しかもその代のうちに鎌倉北条氏と対立して負け、横山荘は無くなってしまうのだけれど。
横山党そのものを語り出したらキリがないので、まぁ、つまりその中心地である、ということであります。しかし不思議な形の拝殿でありますな。これも八王子的並列感の一形だろうか。そう、八雲神社(天王社)が並ぶのですよ。
この天王さんは今度は小田原北条の八王子城の歴史にまつわる天王社でありまして、文字通りこの八幡八雲神社は八王子の歴史のツインピークスが並んでいるお社といえましょう。八王子城は八王子と父神となる天王さまを祀っていたのだけれど、この天王さまが回り流されここに落ち着いているのだ。
八王子城落城の折、城兵によって神体は秘かに逃され川口村に祀られていたというが、これが慶長三年の大水で流され、新町の板屋ヶ淵というところで暗夜御光を放っていた所を取り上げられ、八幡神社に並べ祀られることになった。近世は八幡宮と棟を並べた社殿があったというから、やはりそういう「並べる」感覚が強いのだろう。先の不思議な拝殿の形状もその延長にあるのだと思う。
ここは立派な狛犬さんが三段構えになっている。この獅子山タイプは立派だが、高すぎて親狛さんがよく分からん。
反対側なんか見えない(TT)。舞空術が必要だ。
獅子山と拝殿の間には茂みに隠れて見逃しそうになる狛犬どのがおる。これが一番スタンダードなのに目立たない。こちらがまた大和田の山王さんでも見た、鞠にじゃれつく子狛大暴れの図の狛犬さんですな。同じ石工の作なんかな。
そして、拝殿直前はこの唐獅子なのだ(まぁ、唐獅子といやみんな唐獅子だが)。三遊亭圓丈師匠は渡来系と言っておったか。ともかくどーんと、これ総大理石?なんか大きい神社に唐獅子ブームとかあったのかしら。
また、鳥居脇の境内社エリアも見逃せない。稲荷・弁天がたくさんあるのだが、なんとなく鎌倉江の島(佐助稲荷とか)を思わせる雰囲気がある。
ダイコクエビスさんが並んでいるのは「恵比寿大国社」があるからだろう(どれか分からんが)。なんでこう書くのかね。
よく見ると祠群の奥には岩室が造られており、中に石祠も見える。江の島っぽいですな。「厳島神社」「江島神社」と両方市杵島姫命ではあるが、分けてお祀りされているようだ。
巳さんもずらっと。巳待ち講が盛んだったということなんかね。それともかなり鎌倉江の島を意識しているのだろうか。
さて、そんな八幡八雲神社では、横山党がどうとかいって参る人は忘れてはならぬ小祠がある。神楽殿脇の茂みの中なのだけれど、その名も「横山神社」があるのだ。横山を名のった最初の横山義孝を祀る。

横山塔

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で、この横山神社の後背延長線上に横山党を供養する宝篋印塔が安置されている「妙薬寺」があるのですな。横山神社に参拝すると妙薬寺墓地を拝むということになるのだろう。
この妙薬寺墓地の脇に門があって、裏庭のような所に宝篋印塔エリアがある。横山党を供養する宝篋印塔なので「横山塔」という。
なぜだか戦前あたりは咳を治す功があるとされていたようで、町田や津久井からもそういってお参りにきたそうな。竹筒に清酒を入れて、塔のまわりに下げ、これを持ち帰ってそのお酒を喉につけたのだそうな。理由は不明。
何にしても流石といいますか風格の漂う宝篋印塔であります。横山党のあれこれは八王子ラインの焦点であります故に、今後ともどうかひとつ、えぇ、と深々と。

通例であればオーラスクラスの八幡八雲神社さんと横山塔だったわけですが、なんとこの日はまだ先があるのだ。これだけの歴史を持った八幡八雲神社なのだけれど、総合的に八王子総鎮守となるとまた違う大きなお社があるのであります。んが、♪ゆ〜やけぇこやけぇで……のチャイムが!

開運稲荷神社

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すると行く道にお稲荷さんが。開運稲荷さんとなっ!いや、時間がっ!
……ちょっとだけ(笑)。あはははは。ちょいわる稲荷さん。オヤジの顔に泥ぉ塗られておとなしくしてられるほどあたしはキツネがデキてねえんですわ、とかいいそうな……んな小芝居やってる場合ちゃうねん。

市守大鳥神社

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市街も賑やかな所に戻って参りまして、横山町の「市守大鳥神社」さん。こちらはまぁ、八王子の市の神さまであります。昔は市神社といって、天正年間の創建と伝える。
『神社名鑑』だと「市守(いちもり)神社」の名だけですな。市神さまとしては倉稲魂命を祀る。お酉さまの天日鷲命を大鳥神社として配祀したのは江戸中期のことであるそうな。トーキョーの神社という感じであります。
お酉さま故に、お札じゃなくて熊手なのだ。八王子宿六斎市の守護神なのだろうから、ここも織物(の市だった)の神さまの一画ということになるでしょうな。さすがにちと暗すぎなので、詳しくはまたの機会に、という感じ。
ありそうであまりない獅子舞の獅子頭のような狛犬さん。

子安神社

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そして、大慌てで八王子駅北側の明神町へ。ここに八王子総鎮守格の「子安神社」が鎮座される。その裏門。裏に鳥居もあるのに裏門通行不可ってのも珍しいですな。こちら子安神社がオーラス(予定だった)なのであります。八王子駅の北を明神町といい、南側を子安町というが、どちらもこの子安神社(子安大明神)の鎮座される地故にそのような地名となっている所。往昔は大きな神社さんであったのでありますの……だ・け・ど・ね?

へいもーん!\(^o^)/
そーんーなーばーかーなー!

はい。そういうわけでこの日の神社巡りは強制終了なのでありました(TΔT)。いやー、立ち尽くした、立ち尽くした(笑)。あれですな、こんな暗さであたしを撮ろうなんてあほぬかしなさいという子安の女神さまのお達しでありましょう。

おわり

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といったところで。どうしようもない幕ですが、これにて了であります。今回が八王子市の神社巡り第一弾であったのだけれど、地図を見れば分かるように八王子というのはめちゃくちゃ神社がある。しかも、今回を見ても分かるように古代から現代まで多くの山場があって、それにまつわるお社がある。なかなかどの面一つをとっても「八王子の○○は」とまとめるには気の長い行程が必要ということであります。しかし、周辺各所を結ぶ結節点であるのは地理的にも歴史的にも間違いなく、地道に細かく見ていかねばならん土地であるといえましょう。それでは続きはまたの八王子行にて。

補遺:

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補遺:白滝姫伝説:


白滝姫伝承は「山田白滝」という呼び名で全国に分布しているが、焦点となる土地が上野國の今の桐生市と摂津國の今の神戸市にある。直接竜蛇が出て来るわけではないので扱いが難しいのだが、少しここで見ておこう。
まず、桐生市川内町に白滝神社があり、ここの縁起が東の焦点となる。

▶「白滝神社」(webサイト「プチ神楽殿」)

この話は桐生織の起源を語るものになっているのでたくさんバリエーションがあるのだが、神社の縁起を引いておこう。

桓武帝の御代、上野國山田郡から一人の夫役者が宮中に務めた。これを白滝の前が見て、「吾妻より山田からすが飛来たり羽はたきをして庭をはきける」と笑った。白滝の前とは当麻中将姫の御腹替の妹だった。山田夫は腹を立て「飛び立ては雲井の空に羽をのして大宮人をめの下に見る」と返した。
さて、夫役が終わり、山田夫は務めの褒美に何が欲しいかととわれた。夫が白滝姫を妻にほしいと言うと皆大それたことをと笑ったが、姫と歌合わせをさせ、勝ったら望みを叶えよう、ということになった。白滝は「山田夫かまた目もささぬ宮人におよはぬ恋の雲にかけはし」と歌うと、山田夫は「ひてりせは山田の稲もかれぬへし落ちてたすけよ白滝の水」と返し、皆は大いに感心し、山田夫に白滝姫を妻とすることを許し、二人は上野へと下った。
白滝と山田夫は仁田山の麓の岩本という所で暮らし、白滝は糸織を里人に教えた。やがて白滝は亡くなったが、此國の家業糸織神白滝大明神とうやまい奉られた。(後略)/「上野国山田郡仁田山郷機神神天神縁起」

『日本伝説大系4北関東』「山田白滝」より要約

より簡単な里の昔話としては「須弥山の山より高く咲く花を心がけるな山田奴め」と白滝姫が歌い、「日照りにて山田の稲も枯れ果つる落ちて流れよ白滝の水」と返して、相愛となるという感じか。このやり取りされた歌も色々バリエーションがある。ともかく、概ね歌合わせで山田奴の歌に白滝姫が感心して妻となる、という筋であり、夫婦となって上野に帰り、姫が機織りを里に教える、という話である。追加の話としては、姫が葬られた大岩とも、天から降ってきた岩ともいう岩(神社にある)に耳を当てると白滝姫が機を織る音がした、などということにもなり、棚端・七夕と関係し、祭日が七月七日になったりもするが、その辺はさて置く。

で、桐生の方ではこの伝説を白滝姫伝説のオリジナルであるとしているのだが、遡っても文化年間くらいだと思われ、西にはより古い話がある。摂津國矢田部郡の丹生山田庄原野村(神戸市北区山田町)にあった栗花落理左衛門の祖先の話として白滝姫伝説があった。

(摂津の山田から山田奴が京の宮中へ行き、歌合わせで白滝を娶るまでは同じ。ただし、白滝は歌合わせに負けて「泣く泣く山田奴に嫁いだ」ことになっている)
さて、夫役が終わり、山田夫は務めの褒美に何が欲しいかととわれた。夫が白滝姫を妻にほしそして、山田に来た姫は、里の貧しさに驚き、日照りがあれば水を盗んで来ねばならなくなる夫の生活に落胆していたが、やがて慣れぬ暮らしがたたって病となり、若くして亡くなってしまった。
山田奴(左衛門)は弁財天の祠を建てて姫を祀り、その祠の前に池を掘った。その池は不思議と栗の花がこぼれ落ちる梅雨の時季になるとどんな日照りでも清水が湧くのだった。きっと水を盗みに出る夫をあわれと白滝姫は思ったのだろう。左衛門はその後、姓を栗花落と書いて「つゆ」と呼ぶことにした。今も、栗の花のこぼれる頃には清水が湧く栗花落の井が山田の里にはある。

未来社『日本の民話14大阪・兵庫篇』より後半を要約

この栗花落家の井のことは近世摂津の地誌『摂陽群談』(一七〇一)にあり、栗花落家には上記のような謂れが現代まで伝わってきたという(東京美術『蛇の宇宙誌』)。「栗花落の井」も原野にあるようだ。

▶「栗花落の井
 (webサイト「北神戸 丹生山田の郷」)

ともかく全然ハッピーなお話ではなく、機織りとも全く関係がない。明らかに梅雨の時季になると水が湧く井の由来譚であって、一種の弁天縁起である。以前にも少し紹介したが、『蛇の宇宙誌』では出雲などで梅雨の時季に姿を見せる蛇を「ツユザエモン」と呼ぶことに注目し、摂津の白滝姫伝説は水神としての竜蛇譚の末端に関係するだろうと見解している。
そのあたりはまた山陽から四国のサンバイ信仰などとも関係して面白いのだが、今回は弁天祠の縁起が全国に拡散する過程で機織姫の伝説になっていった、という所が問題なのだ。すでに、この経路に弁天さんが養蚕の守護神となる要素が含まれている。

このような白滝姫伝説が最近のうちの動向からいえば、「しら」の神である点(綾瀬市小園の「志ら神」)、当麻曼陀羅の中将姫伝説と関係している点なども要注目となり、今回の八王子大善寺の機守神社の白滝姫の由来ともなるのですな。

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多摩行:八王子 2013.03.23

惰竜抄: