多摩行:八王子
庫部:惰竜抄:twitterまとめ:2013.03.23
鑓水日影
鑓水の諏訪神社(子の権現)
その絹の道ではなく、橋先から西へ入った所に鑓水の鎮守「諏訪神社」さんが鎮座される。家々の奥だが、通りに案内看板が出ているのですぐ分かる。ここがなかなか惑わしてくれていたのですよ(笑)。 | |
実は、ここに祀られていた鑓水村の鎮守は「子の権現」だったのだ。諏訪神社というのは先に確認してきた日影という所に祀られていた。その諏訪神社ともう一社八幡をここ子の権現に合祀した際、なぜか諏訪神社になってしまった。 | |
御本殿は大きなものが三社分並んでいるので、覆殿も横に長い。そして、向って左のこのちょっと不思議な空間にさらに覆殿がある。中には子の権現の旧本殿が据えられている。今の御本殿は寛政年間のものだから、それ以前のものである。 | |
この旧本殿の覆殿内に、このように養蚕にまつわる絵馬やら何やらが奉納されているのですな。そう、ここの子の権現さんは、養蚕守護の子之神であったのだ。
前回綾瀬行で、子之神が養蚕守護である話というのはあまりないが、といっていたが、鑓水にあったのであります(蛇神とはいわないが)。
▶綾瀬行:子之社(綾瀬市小園) ここでは「子・鼠」であることが重要となっており、そばを白袋に入れて「鼠の餌」として子の権現に納め、祈願したという(繭玉に見立てているのだろう)。鼠は繭玉・蚕を食べてしまう養蚕の天敵なので、餌を納めてお蚕の方はとってくれるな、としたのだろう。 |
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ちなみに、覆殿内の足形のような鉄板の絵馬は繭玉(めーだま、という)を表しているに違いない。なぜかこのように真ん中をくぼめて瓢箪か落花生のような形を作る。これも、こちらで満足して下さい、ということだろう。 | |
このような養蚕守護の子の権現が絹織物の村鑓水の最も重要な鎮守さんであったのだ。本社殿拝殿上の鳳凰の上の翁も、これ多分鼠を抱いているのだろう。今は諏訪神社が表の名だけれど、養蚕守護の子之神ここにあり、と覚えておかれたい。 | |
また、この子の権現の創建は養蚕が盛んとなった近世よりも遡り、北条氏照が滝山城(にはじめは居した)に祀った神を同じく祀った、というので「後北条氏の子之神」という課題においても後々重要となるお社かもしれない。まぁ、実はこの日は絶賛社地の整備工事中でありまして、あんまり落ち着いた感じじゃなかったんだけどね。手前は境内社の集合覆屋(さらにこの内にも蚕影神社が祀られている)。 | |
本社殿から一段下がった所の神楽殿。工事のあれこれが山積みになってしまっていてなんだが、この神楽殿はあとでまた出て来るのでちょっと覚えておかれたい(別に様式とかじゃないよ)。 |
絹の道資料館
絹の道
大塚山・道了堂
中山・白山神社
打越弁財天
道行き・梅洞寺・葬式の臼
戻る途中の馬頭観音さん。レンガが使われていたようだ、というのは度々目にしたが、現役完全版というのははじめて見たかもしれない。まぁ、古いわけではないようだが。 | |
戻って下ると、もう八王子盆地の市街地である。もう半ば都会である。んが、猪が出るらしい。ワイルド八王子(笑)。
平地市街地に出る前に書いておくが、この八王子市街地には古いものというのはほとんどない(現存しない)。何となればここは「八王子大空襲」にてほぼ全滅してしまったという土地なのだ。 ▶「八王子空襲」(wikipedia) ということで、神社をはじめ色々な文物もスライドパズルのようにしばしば位置が変わっていたりするので難しい土地なのであります。と、途中こんがらがるかもしれません、という言い訳を先に(笑)。 |
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打越の八幡さんに参ったのだけれど、そのすぐ南側が先の打越弁天さんの本寺の梅洞寺なので先に。名のとおりお寺の紋は梅なので、先の三つ鱗はやはり弁天を意味する紋なのだろう。「霊園墓地」となっているが、さっき述べた通りに八王子は空襲で壊滅しているので、お墓も「霊園」という形態であることが多いようだ。
で、ちょっとここで現物には行会いそうもないこの辺の葬礼に関する習俗を一つ紹介しておこう。なんと(あたしは知らなかったのだが)多摩地方を中心に津久井・愛甲の一部まで、葬儀のあと「逆さにした臼に腰掛ける」という習俗があるのだそうな。昔そうした、というのでなく、今でも葬儀屋さんが臼の絵を準備していてそれに腰掛けるという。マジですか、多摩方面の方々。意味はまったく分からない。臼は「うす(失す)」に通じるので忌中払いになるのだ、などというらしい。全国的には葬儀から帰ってきたら臼のまわりを回るとか何かと臼が出て来るのではあるが、座るってのは他にないのじゃないか。 |
打越・八幡社
北野町・天満社
関根神社
北野町から北へ、浅川を渡ると大和田町となり、「関根神社」という神社が鎮座される。日枝神社は境内社ということなんだけど、ここも併記ですな。 関根神社は北条氏政─氏照に仕えた関根家の社である。関根家は藤原秀郷らと協力して将門を討った平貞盛の子孫だそうな。関根筑後守光武が氏政より粟ノ須の地を賜ったという。粟ノ須はもっと北の方で八高線の小宮駅の方。 |
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近世は屋号を「元締」といい、木材を扱う商人として活躍したそうな。その関根家の祖を祀る、と『神社名鑑』などは素っ気ないのだが、土地では「関根親子が粟ノ須の大蛇を退治したので、関根大明神として祀った」という話になっている。現在この神社は明治の明細帖に記されたのに従って素盞鳴命を御祭神とする、ということになっているが、これは「大蛇退治」という伝説繋がりでそうなったのだろう。大蛇退治としては「最近」の話であり、あるいは関根家の功績と繋がる話として(治水用水とか)扱うことができる事例かもしれない。 | |
境内道路に面して境内社のお稲荷さん。「安産稲荷」とあるからそういうお稲荷さんのようだ。八王子の稲荷も多くは何らかの御神徳を名に持つ稲荷である。『神社名鑑』だと境内社:稲荷神社とかなので来てみないと分からない。 | |
また、そのお稲荷さん横に渡した縄に……これは初午に習字が納められていた風ですな。ここもお稲荷さんがその役か(最近伊豆修禅寺の方がそうだったので)。多色紙ではないようだが。 ▶修善寺の方のお稲荷さん(この下) |
大和田・日枝神社
大和田・八幡神社
日月神社
大谷弁財天
大善寺・機守神社
文政のころ、八王子宿に信仰心の篤い与平という老人がいました。或る夜、夢の中で白滝姫におあいし機織の秘法を授かりました。翌朝目覚めた与平は大変よろこんで、白滝姫のお姿を模写し、大善寺のかたわらに小祠を建て機守神社として、朝夕崇拝したと云います。以来、八王子織物の業に携わる人々から厚い信仰を受けておりました。その後三回の祠の修復が行なわれ、昭和五十七年十二月この地に遷座されました。
『八王子の民俗』(佐藤広:揺籃社)によると、与平は霊夢のあと、実際に上州山田郡仁田山の白滝神社に行って、白滝姫のお姿を模写してきたとあり、その方が具体的な織物技術の伝播があったことを物語っているだろう。 | |
ということでここがあの白滝姫伝説(補遺参照)の八王子への伝播先なのでした。かつては機織り娘たちが髪を切って納め、上達を願ったのだという。
▶補遺:白滝姫伝説 もともと与平のころの大善寺は大横町にあったのだろうから、まわり廻ってということになるのだけれど、結果大谷弁天さんともとへ弁天縁起の一形だった白滝姫がこうして直線距離にして僅か200mもない所に祀られる次第と相成ったのであります。数奇な、かな。これはなんかあるのかなぁ。 | |
ところで機守神社は、驚いたことに大層立派な門前の随神が守るお宮でもありましたな。ついこの間綾瀬行で、神仏分離前はそういうものが多かったろうといったばかりだが。
▶門前の神状の石柱(高座行:綾瀬) | |
おー、あるともよ、といってご登場という感じであります。年号とかなかったなぁ。それは残念だけれど、さすが白滝姫という感じか。山田奴と与平かもしらん。お寺内のお宮故に残った、ということでもあるでしょうな。 | |
そんな大谷の機守さんや弁天さんをあとに、あたしは今度は八王子駅の方へと戻るのであります。また浅川を渡る。こんな大きな川だと思ってなかった。この奥にまた色々とあるんですよね、いーろーいーろーと(笑)。 |
永福稲荷神社
八幡八雲神社
横山塔
開運稲荷神社
市守大鳥神社
子安神社
おわり
といったところで。どうしようもない幕ですが、これにて了であります。今回が八王子市の神社巡り第一弾であったのだけれど、地図を見れば分かるように八王子というのはめちゃくちゃ神社がある。しかも、今回を見ても分かるように古代から現代まで多くの山場があって、それにまつわるお社がある。なかなかどの面一つをとっても「八王子の○○は」とまとめるには気の長い行程が必要ということであります。しかし、周辺各所を結ぶ結節点であるのは地理的にも歴史的にも間違いなく、地道に細かく見ていかねばならん土地であるといえましょう。それでは続きはまたの八王子行にて。 |
補遺:
補遺:白滝姫伝説:白滝姫伝承は「山田白滝」という呼び名で全国に分布しているが、焦点となる土地が上野國の今の桐生市と摂津國の今の神戸市にある。直接竜蛇が出て来るわけではないので扱いが難しいのだが、少しここで見ておこう。 まず、桐生市川内町に白滝神社があり、ここの縁起が東の焦点となる。 ▶「白滝神社」(webサイト「プチ神楽殿」) この話は桐生織の起源を語るものになっているのでたくさんバリエーションがあるのだが、神社の縁起を引いておこう。 |
桓武帝の御代、上野國山田郡から一人の夫役者が宮中に務めた。これを白滝の前が見て、「吾妻より山田からすが飛来たり羽はたきをして庭をはきける」と笑った。白滝の前とは当麻中将姫の御腹替の妹だった。山田夫は腹を立て「飛び立ては雲井の空に羽をのして大宮人をめの下に見る」と返した。
さて、夫役が終わり、山田夫は務めの褒美に何が欲しいかととわれた。夫が白滝姫を妻にほしいと言うと皆大それたことをと笑ったが、姫と歌合わせをさせ、勝ったら望みを叶えよう、ということになった。白滝は「山田夫かまた目もささぬ宮人におよはぬ恋の雲にかけはし」と歌うと、山田夫は「ひてりせは山田の稲もかれぬへし落ちてたすけよ白滝の水」と返し、皆は大いに感心し、山田夫に白滝姫を妻とすることを許し、二人は上野へと下った。
白滝と山田夫は仁田山の麓の岩本という所で暮らし、白滝は糸織を里人に教えた。やがて白滝は亡くなったが、此國の家業糸織神白滝大明神とうやまい奉られた。(後略)/「上野国山田郡仁田山郷機神神天神縁起」
より簡単な里の昔話としては「須弥山の山より高く咲く花を心がけるな山田奴め」と白滝姫が歌い、「日照りにて山田の稲も枯れ果つる落ちて流れよ白滝の水」と返して、相愛となるという感じか。このやり取りされた歌も色々バリエーションがある。ともかく、概ね歌合わせで山田奴の歌に白滝姫が感心して妻となる、という筋であり、夫婦となって上野に帰り、姫が機織りを里に教える、という話である。追加の話としては、姫が葬られた大岩とも、天から降ってきた岩ともいう岩(神社にある)に耳を当てると白滝姫が機を織る音がした、などということにもなり、棚端・七夕と関係し、祭日が七月七日になったりもするが、その辺はさて置く。
で、桐生の方ではこの伝説を白滝姫伝説のオリジナルであるとしているのだが、遡っても文化年間くらいだと思われ、西にはより古い話がある。摂津國矢田部郡の丹生山田庄原野村(神戸市北区山田町)にあった栗花落理左衛門の祖先の話として白滝姫伝説があった。 |
(摂津の山田から山田奴が京の宮中へ行き、歌合わせで白滝を娶るまでは同じ。ただし、白滝は歌合わせに負けて「泣く泣く山田奴に嫁いだ」ことになっている)
さて、夫役が終わり、山田夫は務めの褒美に何が欲しいかととわれた。夫が白滝姫を妻にほしそして、山田に来た姫は、里の貧しさに驚き、日照りがあれば水を盗んで来ねばならなくなる夫の生活に落胆していたが、やがて慣れぬ暮らしがたたって病となり、若くして亡くなってしまった。
山田奴(左衛門)は弁財天の祠を建てて姫を祀り、その祠の前に池を掘った。その池は不思議と栗の花がこぼれ落ちる梅雨の時季になるとどんな日照りでも清水が湧くのだった。きっと水を盗みに出る夫をあわれと白滝姫は思ったのだろう。左衛門はその後、姓を栗花落と書いて「つゆ」と呼ぶことにした。今も、栗の花のこぼれる頃には清水が湧く栗花落の井が山田の里にはある。
この栗花落家の井のことは近世摂津の地誌『摂陽群談』(一七〇一)にあり、栗花落家には上記のような謂れが現代まで伝わってきたという(東京美術『蛇の宇宙誌』)。「栗花落の井」も原野にあるようだ。
▶「栗花落の井」 (webサイト「北神戸 丹生山田の郷」) ともかく全然ハッピーなお話ではなく、機織りとも全く関係がない。明らかに梅雨の時季になると水が湧く井の由来譚であって、一種の弁天縁起である。以前にも少し紹介したが、『蛇の宇宙誌』では出雲などで梅雨の時季に姿を見せる蛇を「ツユザエモン」と呼ぶことに注目し、摂津の白滝姫伝説は水神としての竜蛇譚の末端に関係するだろうと見解している。 そのあたりはまた山陽から四国のサンバイ信仰などとも関係して面白いのだが、今回は弁天祠の縁起が全国に拡散する過程で機織姫の伝説になっていった、という所が問題なのだ。すでに、この経路に弁天さんが養蚕の守護神となる要素が含まれている。 このような白滝姫伝説が最近のうちの動向からいえば、「しら」の神である点(綾瀬市小園の「志ら神」)、当麻曼陀羅の中将姫伝説と関係している点なども要注目となり、今回の八王子大善寺の機守神社の白滝姫の由来ともなるのですな。 |
多摩行:八王子 2013.03.23