高座行:相模原・連

庫部:惰竜抄:twitterまとめ:2013.06.15

今回は一週間前の相模原行のまったくの続きであります。で、あるので前置きなども皆同じ。前回行は以下参照。

▶「高座行:相模原」(2013.06.08)

上溝駅・横山公園

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開始もそのとき帰途についた上溝駅から。えぇ、えぇ。前回レポがこの前日までかかってましてねぇ。要するに前夜まで前回相模原行を書いていた。こうなると「その続き」以外の発想ができようものか、という。
この間はもう暗くて気がつかんかったが、駅ロータリー周辺にはこんな風にレポでも触れた上溝夏祭り(天王祭)の様子があしらわれている。上溝に限らず周辺天王祭が盛んなのだが、「中でも上溝は」と自負があるのだろうね。
駅の北側は大字横山台となり、スポーツ施設のかたまった大きな公園・横山公園がある。「横山」であります。んが、実際ここに横山党に連なる誰かの館があったというわけでもなく、史跡というのではない。東側には横山党の矢部・淵辺氏、西側には横山党の田名氏と、横山党ががっちり進出した所故になんぞあってもおかしくはないのだけれどね。ここはむしろ下っての伝説の舞台として語られた所なのであります。
広く語られる小栗判官伝説でいう相模の荒くれ者・横山大膳は、相模原の方に来ますと横山将監(照手姫の実父)となりまして、特に盗賊とかではなく普通の戦国期の武将なのであります。話の筋も、若武者・小栗が照手姫を妻とすべく厳しい父・横山将監に挑む、というシンプルな筋書きになる。

榎神社

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その伝説の横山将監の館があったのがこの辺だった、とされるのだ。故にその端には照手姫にちなむお社がある。「榎神社」がそう。単立小社だが、御祭神は照手姫。
「照手姫の社」というのはここだけではないかな。ともかく、照手姫のついた杖が根づいて「逆さ榎」となったので祀った、というのであります。もっとも今お社の脇にある大榎は二代目。初代は枝が下を向いていたそうな。
そういう話をですな、まとめた冊子が運よきゃ見ることができたらしいですな。あたしは運悪かったでして空っぽでありましたが……orz
このような伝説は周辺小地名とも結びついていて、ここは日金沢という小字になるのだけれど、これは照手姫の乳母・日野金子なる人の名から来ているのだ、などと語られる。
お社から下って相模線をくぐると「姥川」が流れ、その乳母伝説に連なる。写真右の森丘沿いは「てるて姫の里ロマン探訪の小径」となっている。
この奥に姥川の水源となる湧水の泉があったといい(今はない)、照手姫が産湯にしたなどとされる。日金沢はまた「彼岸沢」と書いたともいい、おそらく伊豆の日金山(死んだらそこに行くとされる山)に似たなんらかの生死の境となる水源の聖地があったものと思われる。

こんな風に、下溝の方では十二天神社に見たように小栗判官にちなむ伝説がメインだったのだが、上溝から横山台は照手姫がいたという話になるのだ。

▶「十二天神社」(相模原市下溝)

これらが、藤沢遊行寺の方と対を成す相模の小栗判官伝説のもう一方のスポットなのであります。

上溝久保:浅間神社

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横山台から西の方へ行くと、また上溝地区になり、久保という所になる。そこに単立小社の「浅間神社」が鎮座されるのだが、この小さなお宮がまた興味深い存在なのだ。お社そのものは宝永の富士山の噴火の時にこの辺りにも降り積もった火山灰を集めて塚を築いたのにはじまるというが、さらに遡る「マジすか!」という話もある(後述)。
まず、この地区も上溝天王祭への参加がかつてタブーだった、という話を指摘しておこう。浅間さんが天王さんと相性が悪いからだという。参加したら人死にが出たので神輿を埋めてしまったともいう(『相模原市史 民俗編』)。同上溝番田の諏訪神社さんの方で話したが、同じ事をいうのだ。

▶「諏訪神社」(相模原市下溝番場)

しかし、諏訪の方は諏訪の神さんは蛇だから、という理由が語られたが、こちら久保の浅間さんはなんで相性が悪いのかが語られない。これがもし同じ理由だとしたら「浅間さんが蛇であるという話はあるか」という三浦雨崎以来の重要なテーマに一石が投じられることになる。今の所周辺同じような事をいう浅間神社はないようだ。うーん。浅間さんと天王さんが相性悪い、となる理由が何かあるかな。思いつかん。

で、お次がまたたまげた話なのだが、この浅間さん、社伝としては、沼津の西浦江梨、御殿場新橋で紹介した、熊野鈴木党のあの鈴木氏がこちらへも分かれて来て創建したというのですよ。

▶「神明神社」(沼津市西浦江梨)
▶「浅間神社」(御殿場市新橋)
文禄三年創建棟札に鈴木與蔵の印ありと彫ってある。西浦は鈴木氏が重要なのだ、浅間にも関わっていたのだと辿って来たら、いきなり飛んだ所に出現するのであります。この鈴木氏は「四国出身で伊豆を経て上溝に移り住んだ」とこちらではいうそうな(『相模原市史 民俗編』)。四国というのは源平合戦の舞台ということかな。あるいは河野氏の話とこんがらがっているのかもしれんが、江梨の鈴木氏の分流に間違いあるまい。戦前まではその上溝鈴木氏の守護神であったそうな。なんとのう。
この感じも伊豆の方から引いた所があるのかね。ともかく、件の鈴木氏を追うのはここまで広がる話となるようだ。これはかなり大変であります。

田名四ッ谷:石神社

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なんとのう、なんとのう。と驚きつつ(鈴木氏のことは行くまで知らんかったのです)、さらに西へ。もうおなじみ田名地区へ入りまして、小字四ッ谷というところの鎮守さんは「石神社」さん。
また単立のお社だが、大通り沿いで賑やか。寛永年間に創建された四ッ谷の守護神だそうな。まぁ、石神さんですな。面白いのは御祭神を布津主神とあてていることだ。石上神宮に則したのだろうが、ありそうで見ない。
「天地の神とも称した」と『市史』にあるのが引っかかるかなぁ。田名天地社とも深く関係があったのかもしれん。今は石祠が構えられるのみだが、安産・かぜ・耳だれ・いぼとりに験があり、旅の安全を守護する道祖神さんの面もあったといい、ヨロズ何でもござれであります(境内に由緒書きがある)。
ここに参ったら「石神さん故に石造物がたくさんある」と感想を述べるのが習わしらしい(笑)。まぁ、確かにたくさん集まってきている。
いかにもという大山道の道標。どこも大山道沿いは石造物が増殖する。
また、このような形状の六地蔵さんが盛んに据えられたようだ。このあともちらほら目にした。四面中三面に二体ずつお地蔵さんを浮彫りにするので六地蔵。一石六地蔵という。甲府の方では絵馬状に一列だったが。
そんな石造物のお歴々の中に、ちょこんと普通の河原石さんも並んでいるのが石神社の面目躍如でありましょうか。どこかの祠の御神体だったのかね。

おひのもり

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さらに西へ。既に時折のぞく日差しが何とも強烈な。これまでの季節なら一本で一日保ったイエモンティーが早くも半減。
そして滝地区へ。この間の滝自治会館のあった滝と同じ所だが、こちらは高台上。ご覧のように分譲畑(?)のようなエリアが広がる中に、ぽつんと榊が植えられ、石碑などが見える。

かつてここには「おひのもり」という杜があり、一種の祭場だった。まず、簡単に概要を紹介しておこう。

伝説としては、どこかからお姫さまと家臣たちが逃げて来て、ここで取り囲まれて皆殺しになってしまったのだという。村人がこれを哀れに思い、埋葬して弔った所、続いていた長雨が止み、空が晴れたのだそうな。以降葬られた姫は照姫と呼ばれ、晴れ乞いの神事が行なわれるようになったという。板を丸く切って赤く塗ったものを杜の木に掛け晴れを祈ったといい、滝のお堂(今の自治会館)には大正頃までその赤丸の板があったそうな。戦後の食糧難の時に杜は切り拓かれ畑となり、今はこのような跡が残るのみであると云々(『相模原市史 民俗編』)。そのような杜があったのですな。
なんと滝には雨乞いのばんばあ石と対になる晴れ乞いの神事もあったのだね、とそのくらいの感じで来たのでありました。

▶「ばんばあ石」(田名八幡宮)

んが、あたしはここで地元の方からさらに大変なお話を聞くことになる。

近くの畑でちょうど休憩されていたご夫婦がおって、例によって「どうもですー」と声をかけて「おひのもり」について訊いてみたところ、ちょっと困ったような感じで、「どのように聞いてきました?」と逆に訊かれた。で、先に述べたような感じだというと、「あー、そうですねぇ。でも実際は色々ありましてねぇ……」と濁される。あぁ、なるほど、と思って「……なにか、良くないことがおありになりましたか」と京極堂か堂島静軒かおまいは(笑)、という感じでいってみました所、これが蟻の一穴だった。
話が通じると思ったのか、奥さんの方がえらい調子で「実際にあった事」を話はじめ、まぁ、ちょっと公表できる範囲を超えるので端折るが、実際には杜が消滅したのは平成になっての土地整備の時の事だったという。それまでは、この写真の範囲にまだ丘があったのだそうな。その丘が「おひのもり」だった。それを皆平らにならして、農地として分譲したという。その際、おひのもりの祠なども邪魔なので相模川の方へと遷したのだそうな。
んが、そこから関係者にばたばた不幸が続いた。明治の合祀の話とかじゃないですよ、平成の話です。そしてですね、その際に集中治療室に入り生死の境をさまようような目に遭ったのが、目の前の親父さんの方であるというのであります。しかも、その親父さんの夢枕に「お姫さまが何度も現れて、元に戻すようにと」いったのだそうな。繰り返すが平成の話であります。よもや肉声で伝聞でないこの話を聞く日が来るとは思わんかった。ともかく、そのような事があり、おひのもりはもとの位置に戻された。
丘を削るにあたっては発掘調査も行われたのだが、めぼしい遺物は出なかったようだという。と、そこまでは奥さんの方がずっと話していたのだが、「ウンウン」と聞いていた親父さんがそこではじめて口を開いた。
「お姫さんのもんとかはなかった……」と。
その無念そうな親父さんの口調で、あたしはようやくすべて真剣な話なのだということを理解した。この親父さんは心底お姫さまのおひのもりが消滅した事を無念に思っているのだ。もうこうなると「おひのもりとは何か」と考えるという雰囲気でもないですな。田名八幡でも晴れ乞いが行なわれていたとか、相原の方にも「おひのもり」があったとか(これは大檜があったからだそうだが)、関連事項はあるのだが、この親父さんにとってはお姫さまの無念の一事がすべてなのであります。

よろしいか。われわれが足を運ぶ先には、あるいは法人社などと比べたら見劣りするような粗末で小さな祠がたくさん出現するが、もしかしたらその脇の畑を耕している親父さんはこのような思いを忸怩と抱えている人かもしれない。
それは忘れてはならない。

とまあ、この話は1/3くらいで、延々他の土地の話も続いたのだけれど、要するにあたしはおひのもりが今の形に落ち着くことになった騒ぎの中心だったご夫婦にたまたま話しかけてしまった、ということのようでした。そんなたまたまがあるのかという感じだが。
もう今日はこれでおしまいにして帰るのが良いのじゃないかというくらいの感じだったが、奥さんに「これからどちらへ?」と訊かれて「大島の方へ」といってしまったので、行くのであります。

古清水上組のやつぼ

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田名の端は清水といって、大字大島に入ると古清水という。一連なのだろう。道行きに何とも格好良い頭巾のお地蔵さんが。お地蔵さんが大変多いですな。
この辺は神社というより観音堂とか不動堂とかが多い。古清水自治会館の観音堂。大概どこも子どもらが遊んでいて、ここでもなんぞごしょごしょやっとります。

で、清水の名のようにここから相模川に下る斜面にじゃぶじゃぶ水が染み出ているのだけれど、この水を利用する「やつぼ」という水場が造られて来た。字をあてると「八壷」と書き、八ヶ所あったからそういうというのだが、実際は二十ヵ所くらいあったそうで宛字だろう。
事前にあれこれ調べた感じだと個人宅のものなのか、一般に見学できる感じなのか良くわからなかったのだけれど、行ってみると案内看板まであって、普通に見学できるのでありました。
こんな風に斜面というか崖を下って行くのですよ。

そうするとこのように斜面から染み出る水をためる池が造られている。これが「やつぼ」で、ここは「古清水上組のやつぼ」。ステキですねぇ。
これは度々話題になる東国の谷戸地名に関して大変示唆的なものだ。ヤト・ヤチ・ヤツなどは本来はもっとスポットとしての水場をいったのじゃないかともいわれるが、「やつぼ」はまったくそのような雰囲気を持っている。
人工の水場ではないが、釧路湿原の有名な「やちまなこ」なんかとも一脈通じる雰囲気がある。思えば常陸行方の夜刀の神の地も椎井という湧き出る水をためる池だった(左写真が椎井)。

▶「夜刀の神」(日本の竜蛇譚)
いや蛇クサいですな(実際「マムシ注意」の看板もあるが)、ツユザエモン(梅雨の時季に現れるという蛇神)の季節です故に、実にバッチリなタイミングでいかにもな所に来る事ができたといえましょう。やつぼに関して詳しくは以下など参照。

▶「水源はヤツボ
 (webサイト「屋根のない博物館」)

神沢

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古清水上組のやつぼから下ってくると「神沢坂」という坂にぶつかる。この北の方に、染み出るというより沢状になっている水流があり、神沢という。あとに参るこの辺りの鎮守・日々神社と繋がりが深い。

坂を下るとちなむ「神沢不動尊」がある。この辺りお不動さんがたくさん祀られているが、実に「水場の不動」という存在が多い。
天文年間に創建されたというが、この北上に「鏡の滝」という滝があり、そこが日々神社の神滝であるので(後述)、いずれ同じ信仰の一環なのだろう。
境内の池とはいうが、要はここもやつぼだったんじゃないかね。先にやつぼを見ているとそうとしか見えませんな。下のお宮は弁天さんであります。

神沢やつぼ

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もう一ヵ所やつぼへ。その神沢の「神沢やつぼ」。この流れる先に鏡の滝があるのかな(良くわからなかったので滝には行っていないです)。今は日々神社の水絡みの神事はここで行なわれているようだ。
祠の中には倶利伽羅剣の龍どのがおられます。お不動さんの剣ですな。特に水場というとこの倶利伽羅竜王が据えられる。
まぁ、ともかくこんな「水の穴」がボコボコあるわけでして、ここから大島という土地はまったく蛇の話だらけになっていくのであります。なるほどこんなところだもんね、という納得の蛇クサさ(笑)。
紫陽花の季節でして、写真としてはとりあえず「撮っとけ」という感じの花なのだけれど、こういう場所でこそ撮りたかった。梅雨の時季の伝統の水場。ここにこれ以上似合う花が他にあろうか、という。たくさん植えて紫陽花祭やりゃいいってもんじゃないのですよ(笑)。

日々神社

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と、その前に。既に名の出ていた一帯の鎮守である「日々神社」さんへ。ここは蛇は出て来ない。
由緒沿革等ほぼ不詳なのだが、断片的に興味深い伝承を伝えているお社。そもそもは「日之宮」称されて来て、「日々神社」となったのは明治になって。太陽信仰の場所だったと思われる。こちらの御神鏡が、先の神沢の鏡の滝の滝壺から発見され、ここに祀られたのだという。「滝壺から鏡」であります。そういう意味ではここも蛇クサい。もっとも基本的にはこの鏡も「太陽」だろう。
垂れ幕の紋が、なんだろねこれは、と思ったのだけれど、ちょうどいらっしゃったおそらく氏子代表的な方と思われる親父さんに訊いてみたら「日だよ」と。あ、お賽銭箱には普通に「日」で入っていた(笑)。ともかく「日の社」なのだ。
御祭神は伊邪那岐命・天照皇大御神となっている。境内に「淤能碁呂松」という源頼朝が十歳の時に植えた松というのがかつてあり(今は写真の切株)、伊邪那岐命というのはそちらに関係するようだ。
この淤能碁呂松は常磐木と見立てられていたといい、ここの小地名も常磐というのだが、太陽信仰と直結するのかどうか、このへんがキモかもしれない。ちなみにこの北方の九沢という土地にも「日之宮」があり、またそこは「日之森社」ともいい、田名滝のおひのもり・日之宮は繋がる所があると思われる。
常磐木を重視していたという土地柄故に、御神木も立派だ。楠ですな……と思ったら、先の親父さんが「それはまだ若えんだ、後ろのタブの木の方が古いのよ」とおっしゃる。いや、この楠も随分立派だけどね。
しかし、おっしゃる通りに御本殿後ろのタブの木がまた大層立派だった。樹齢八百年を越えると見られている。藤沢市大庭から北へ大和市の方でタブの木をよく育てる、ということを指摘して来たが、連なる所があるだろうか。
なんか「片枝のタブ」ですわよね。日のある方へ、とかいう話はないんだろうか。
また境内の要注意物件も。この石碑は今度は近世の念仏聖、徳本上人に由来するもので、南無阿弥陀仏だが、字体が大変特徴的ですぐそれと分かる。平塚とかにも多い。近世からの念仏講はこの流れも多いですな。
で、これは「榛名」でなく「椿名」だよなぁ、どう見ても。高崎の椿名神社関係だろうか。うーん、この辺から八王子方へ榛名講は多いんだけどね(雹除け)。椿名、わりと近いものなのかしら(よく知らない)。

道行き・稲荷

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行く道に……最早何だか分からん。この辺りも道辻の石造物を子どもらがポカすかやったもんだったのだろうか。
一瞬交通事故の慰霊関係かと思ったが、分かれ道毎にこうしてあるので辻の神のようだ。やはりお地蔵さんがメインですな。道祖神も兼任されとるのだろう。

また道行きに地図上見えていた「稲荷神社」さんへ。委細不明。ちょっと『風土記稿』の社にも比定がとれず、まったく分からない。新しいのかもしれない。
実はこのあとの諏訪明神さんの伝説で「稲荷」が重要となるので、気になったのだ。ここではないようだなぁ(ナニが?)。でも、稲荷だらけの土地だが、こうして単独で構えられるのはあまりない。
ここもその諏訪明神の伝説絡みで足を運んでおいた「大島の大坂(大島坂)」という相模川へ下りて行く坂の坂口になる所。これも……稲荷ではない、むう。でもまあ、ここはあとで伝説中に出てくる。
また、ここにはちょっと変わった石碑があった。「鳥獣供養塔」だそうな。狩猟民が増えてくる山間部が近くなってきましたよ、ということかしらね。
さらに行く道に先の神沢不動さんなんかも今は管理されている「長徳寺」というお寺があるが、昔は先の坂下にあった小さなお堂だったそうな。この辺りに既に蛇が出てきて、そのお堂の頃、天井から大蛇が落ちて来て、続く崖崩れから和尚さんが逃れる事ができた、なんて話がある。こういうちょっとした話が、あとあと屋敷蛇の感覚の濃淡を語ったりすることもあるから侮れない。
「とーちゃーん、ホントにここに生えるんでええの?」とか言っているに違いない。先のやつぼで「やちまなこ」なんかを連想していたので、今度は「やちぼうず」を連想させるものに目がとまるのですな。単純なんです(笑)。

大島:諏訪明神

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さて、そうしてやってきましたが、ぶちぶち言っていた大島鎮守の「諏訪明神」さまであります。『神社誌』に「諏訪明神」と明神号で書かれておる。珍しい。
こちらは御祭神を「御穂須々美命」とするお諏訪さんなのであります。津久井の方で、相模には津久井湖畔に二社だけ建御名方命ではなく御穂須々美命の神名で祀る諏訪神社があるといってましたが、こちらにもあったのですな。何か繋がる所があるかもしれない。

▶「中野神社」(愛甲行:津久井)
創建は不詳が公式なんかな。永正年間創建の伝もあるそうな。さらに、ここは相模式内の石楯尾神社をうたいもした。文化三年に吉田神道の吉田家に請て、式内の額を掲げた。今でも鳥居の額は写真の如し。
まぁ、石楯尾神社は難しいとはいえ、現在ここを有力論社とはしないけどね。ちょうど改修中でありましたな。しかし、前から思ってたけど、改修の足場とかが組まれても堂々とした趣が減じないお社というのはあるのだ。すごいね。

で、お社にまつわり語られる伝説がある。蛇聟の話ですな。座間美都『相模原の民話伝説』という本にあるのだけれど「魔性と契った禰宜の娘の話」とスゴイタイトルがついているが、紹介しているウェブページの挿絵もまた物凄い。

▶「魔性と契った娘
 (webサイト「さがみっぱらの昔話」)

要約すると……諏訪明神の禰宜の娘のもとに相模川対岸の小倉の名主某の息子というのが通って来たが、娘が懐妊したので禰宜が小倉を訪ねると、その某という名主など居なかった。それで通ってくる男の正体を確かめようと針糸をさすと、男は一目散に逃げ出した。母が追うと、下大島の白森稲荷から声が聞こえ、白狐が「人間は妙な知恵があるから手を出すなといったじゃないか、子も流されてしまう」と詰っていた。翌日禰宜が白森稲荷の大樹のウロを見ると、大蛇が死んでいた。というお話。

「蛇婿入り譚・類型」に見た、針糸型と立ち聞き型の組み合わせの蛇聟譚の典型話ですな。

▶「蛇婿入り譚・類型

んが、この話が興味深いのは、化けて通った大蛇を詰るのが白狐である、という点だ。普通はこれは母蛇の役回りである。稲荷と蛇神の関係の深さというのを語る場合、是非にこの一話は紹介されるべきと思う。
ともかく、この娘と蛇聟が逢い引きしていた場所というのが先の大島坂口あたりだといい、その下った先に白森稲荷さんもあったという。ちょっと今どうかは分からなかったが。
いずれにしても典型話が「伝説」の結構で相模にもあったということであります。白森稲荷の事が判ったら「日本の竜蛇譚」にすぐにでもまとめようと思ったのだけれど、ま、今少し調べが必要なようであります。また、この話は「対岸小倉との人の行き来」という点がまた後で重要となってくる。

ところでこのお社の竜蛇の話はこれだけではない。また別(かどうかわからんが)に興味深い神が祀られていた。『風土記稿』には「志満龍権現」とあり、明和八年蛇を祀り祈雨の神としたのだそうな。志満は大島の島だろう。
地元では「雨乞い様」と呼ばれてきた石祠で、雨乞いの際は相模川まで担いでいって、水をかけたり、川に沈めたりしたという……んだけどね?ないんだよー、この祠が……orz
『市史』にもいかにも祠があるように書いてるのだけどな。確かにあちこち紹介されているものを見ても、「その祠の写真」というのはない。もうないのか。ぐぬぬ……
気になる点としては、本殿真後ろに蚕影社が構えられている点だ。確かに境内社を真後ろに置く社というのはままあるが、ここはそういうわけではない。蚕影社をこの位置に構えるだろうか。ともかく、志満龍権現・雨乞い様の件は現状保留であります。
しかしまぁ、これだけ蛇じゃ蛇じゃというお社なのに、ここは天王さんがおって良いらしい。明治の合祀までは別の場所に祀られていたそうだが。
そんなこんなの大島・諏訪明神さんでありました。あとにして振り返ると立派な社叢であります。実はこの日は午後から雨予報だったので、ここまで来れれば御の字、という感じだったのでした。しかしここから晴れてなぁ。これ以降は下調べも地図もない道行きに突入なのであります。

道行き

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諏訪明神さん脇の一石六地蔵。双体道祖神さんとの関係が慮られますなぁ。形状からいったら双体道祖神×3という風であり、その印象は絵馬状一列の六地蔵さんなどより強い。
畑中にぽつんと残る木立はお墓であります。『日本書紀』の頃からそうだったように、こういうのはまず第一にお墓なんですな。

行く道に「照天神社」とあった。何故鳥居を斜に構えたのか。古いものではないが、新興宗教というのでもなく、何かテレビとか色々出てがんばっている所らしい。
鳥居奥には周辺家々のお屋敷神と思われる稲荷祠や神棚が。先の鳥居脇には土地の歴史をまとめた看板などもあり、そちらが助かった。戦国時代には見張りの松とされた大松があり、堺松村といったそうな。
興味深いのは「この集落はこの神社の前の崖下の「やしぼの滝」を中心に栄え「縒屋」糸を縒ることを生業にしていたが、農耕をする為にこのあたりに移住してきた」とあるところ。「やしぼの滝」もまた「やつぼ」に類する水場だろう。滝壺端で糸を縒っていたわけですな。もう一歩で棚機村だ。まぁ、ちょっとどこまで妥当な話なんだか分からんが、地元の方たちから聞いた話をまとめたという感じではある。この神社さんそのものの売りになるようなことが書いてあるわけでもないしね。そうだとすると憶えておいて良いかと思う。
蔵と稲荷と道祖神。日本の相似律。そういえばこの辺もうかつての城山町だと思うが、蔵の外屋根上に「蔵神」といって祠を祀ったりもしていたという。祀り事をする神職は屋根の上に座布団を敷いて、その上に斜めに座って祝詞をあげるなどしていたそうな(笑)。その内そういうものも出てくるかもしれない。

相模川・城山・小倉山の仙人と蛇

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そんなわけで旧城山町なんでして、城山があるのであります。ここは新旧の小倉橋というばかでかい橋のかかる所。向こう岸の右の山が三浦党津久井(筑井)氏の城があったという城山。ま、今回もその脇を抜けて、周辺別件へ向うのだけれどね。
相模川の下流の方を見ますとこんな。写真左の森丘がのびてきているのが、今回歩いてきた田名から大島という高台。この斜面にやつぼがぼこぼこと築かれていたわけです。
で、対岸の相模川西岸となるのが蛇聟でも出てきた小倉という土地。写真右の高い方の山を小倉山という。ここに、もうひとつ蛇伝説がある。

昔、市兵衛同心という仙人のような人が小倉山に住んでいたという。呼び名の通り元は同心だったのだが世をはかなんで隠棲したのだそうな。またこの山には、土地の忠蔵という名主に飼われていたが大食いすぎて棄てられた大蛇もおったという。藤沢・戸塚は影取池の「おはん」みたいな「蔵の蛇」だ。

▶「影取池」(日本の竜蛇譚)

忠蔵蛇は飼われていたので自然の中で餌をとることもままならなかったが、市兵衛同心がこれを面倒見、餌をとることもできるようになっていったという。そして、忠蔵蛇がたくさん獲物を捕えてくるので、市兵衛同心はそれを携え大島に渡ってきて、売っていたのだという。そんな「小倉の蛇」もいるのだ。大島諏訪明神の蛇聟も小倉の猪追いの息子に化けて暮らしていたともいい、どことなく通じる所がある(以上『相模原の民話伝説』より)。
大島と小倉は男女が相模川を渡って行き来して、その間で所帯を持つようになることも多かったそうだが、文化の違う所もあったんだろうね。これらの話にも交流と警戒の双方が含まれているように見える。
あたしもその相模川を渡っていきまして、小倉の方へと向っているのだけれど、こんな道端の覆い屋の中も、相模原台地の方とは既に様相が異なってくる。
なんじゃね、これは、という。五輪石伸長版の七輪石とでもいうのかね。7thエレメントな(笑)。供養塔なのか道祖神なのか、どういう存在なのかも分からん。
西岸から東岸を眺める。川遊びができるように舟などもあり、船乗り場として岸へ下っていくように造られてもいる。伝説にも見てきたように、昔から盛んに渡られてきた場所であっただろう。

小倉:諏訪神社

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そして、市兵衛同心と忠蔵蛇がおったという小倉山麓の鎮守「諏訪神社」さんへ。道の左側が社地で「諏訪の森」とバス停もなっているが、道にかかる樹枝が「はい?」という勢いなのが分かりますかね。
まー、ここは社頭の門木のスダジイが凄いんですよ。あなたが、神か、という。かながわの名木100選に入っており樹齢は600年くらいだとある。
「県下有数の巨木で、ツタが這い、苔むした幹がいかにも古木の観をもりあげている。当神社の御神木である」と書かれていた。
もう、このレベルになると、大樹主幹が第二の地面になっていて、そこにまた新たな植物層が生えて行くわけですな。
ともかくあたしは何も知らずに来たらズドーンなわけでして、そりゃあもう「あー、あー」とアホのように見上げる以外どうしろと、という感じ(笑)。
神社の方は、おぉ、その小倉故に蛇神さんの諏訪さんが、という感じではあるが、特に伝説はない。平井九郎右エ門なる人が信州諏訪に詣で勧請したという。いつの頃かは不詳ながら先の椎からいって七〜八百年前のことであろうと境内由緒にある。それ以上特に話がないのだが、大島の諏訪明神とちょうど対岸関係になるのだよね。小倉との人の行き来のことを考えてもセットの諏訪明神なんじゃないかなと思うのだけれど。別当寺はまた違いもし、現状何ともいえない。
こちらのお諏訪さんも「天王さんアリ」だった。ここももとよりの境内社というより合祀された天王さんであると思われ、合祀のタイミングにその相性の問題が取り上げられたかどうか、辺りに依存する所もあるだろうね。

道行き・六地蔵

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お地蔵さんをよく祀るのはこちらも同じ。これは大きいですな。覆い屋つきでもあります。

素朴な感じの六地蔵さん。何も知らずに「む、ここはナニカかもしれん」と思って撮ったのだけれど、あとで調べたら「Yes!! ナニカ」だった。
ここの小地名を「おしゃぐり様」というそうな(『城山町史 4 資料編 民俗』)。津久井の根小屋・川和へと通じる旧道の入り口だったそうで、尺口とも書き、道標もあったそうな(気がつかなかったが)。お杓文字が納められることもあったといい、おしゃもじ・社宮司の系と思って良さそうだ。
分岐であり入り口であり、「しゃぐち」の系で「口」の方に重心がかかった例であるといえるだろう。おそらくこういう社宮司さんも多かったはずなのだが、今それとはっきり分かる例はあまりないかもしれない。

道行き・女瀧不動・山王神社

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さて、日も傾いてきましたんで、小倉橋(下の方)を渡って帰途へ……と思ったんだが地図もなくてなぁ(笑)。良くわからんままに道なりに登ってきたら、滝まであるよ。なんかイカン方にはまり込んでますのか、あたし、みたいな。

ここは女瀧といい、この祠は「女瀧不動」というお不動さんだそうな。下の相模川と合流する近くに男瀧があり、かつては双方にお不動さんが祀られていたという(今はここに二体ある)。

道は良かったようでして、登り切ると拓けて「山王神社」さんとかあった。単立社なのは確かだが、委細不明。『町史』でも良くわからん。
一瞬「天社神」かと思ってビビった天神さん。雰囲気が天社神さんなんですよね。『城山町史』はこのような「天神」は天満天神とはまったく関係ないとはっきり書いており、そういえるような天神講があったのかもしらん。
屋上屋を架す……あ、別に無駄だという意味ではなくて、見たままで、ということです(笑)。 で、写真とは直接関係ないが、被る繋がりということで、ここでちょっと相模原の弔いに見る話をメモしておこう。死者の頭に擂鉢を被せる話だ。

「盆の十三日に死亡すると、死者の頭に擂鉢を被せて棺に入れたという伝承が『人生儀礼報告書』に記録されている。これは盆には仏が冥土から帰ってくるのに、反対に冥土に行くため、盆に帰ってくる仏たちに途中で頭をなぐられるからと言われていたという。」(『相模原市史 民俗編』より)

というのですよ。これはピンチになった竜蛇や、あるいは落城の際池や井戸に身を投げる姫などが「頭に鐘を被る」という話があるのはなんなんだ、という所に端を発し、たまに出ていた問題。例えば以下など参照。

▶「底なし池の大蛇」(日本の竜蛇譚)

これに関して、癩病患者の弔いなどの際に頭に鉢を被せて埋葬することがあった、などという例を紹介してきたが、最も多いのはこの相模原のように「盆に亡くなった人に鉢を被せる」という次第だったようだ。この「被る」習俗もあれこれ調べは進んでいまして、まぁ、柳田翁の頃からよく指摘されていたようなのだけれど、例えば「西郊民俗」の方では次のようなレポートをあげている。

▶「焙烙と擂鉢のまじない
 (webサイト「西郊民俗談話会」)

しかし、未だ竜蛇の被る鐘との接点といと胡乱だ。
今回の話は何故「盆に帰ってくる仏たちに途中で頭をなぐられる」のだか知らないが、ひとまず「防具」ではあるだろう。また、先に引いた「西郊民俗」の記事にあったように、葬儀だけでなく、出産やいろいろな祈祷で行なわれるという広がりがある。この件も意外に普通な感覚であった可能世もある。
といったところであとはもう橋本駅目指して(大体東へ行きゃいいんだろというアバウトさだが)帰るだけなんで、バス来たら乗ろうかくらいの終了モードなんだけど、なんとなく歩いております。雲の流れが直交して。
また波模様なようにも。季節の変わり目が雲百面相の時季ですな。

相原二本松:八幡社

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行く道に二本松と地名が見えた。あ、これは聞いた名だなと思い、道行く親父さんに「津久井から来た八幡さんというのがないですかね」と訊いてみたらやはりそうだった。で、参りましたは「八幡社」。
二本松八幡さんは昭和三十七年に城山ダムができて沈んでしまった旧津久井町荒川という所の鎮守さんだった八幡さん。村民共々この辺りに移住してきたという。建久年間の創建を伝えるから、鎌倉という枠組みを語る八幡さんであったと思われる。
ま、今回は下見下見、と思いつつ参りますと、何やら御社殿背後が不穏な(笑)。うーむ。なんだ、これは。
これは意図的ですわなぁ。地主の稲荷という所か。しかし、この横も稲荷さんで、さらに境内の外にも稲荷さんが隣接するのだが、どういった感覚なのか。

そんなところで。二回にまたがりましての相模原行でありました。こんだけ固めて回るとなんかよく知っている土地なような気がしてくる(笑)、のだけれど、最後にはこうして良くわからんものが出現して、どこの神社巡りも必ず「つづく」になる。というよりも、そのときの神社巡りがどのような「つづき」を示唆しているのかを歩き終わったあとに考えるのが本来の「続き巡り」といえましょう。
おまけ:んが、その「神社巡り感覚」を持ち帰るのも難儀だ。大体帰途につく駅(街)に近づくと、ワケ分からんものが増殖してきて「なんじゃこりゃー」と余計な印象が上書きされてしまう(笑)。

補遺:

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高座行:相模原 2013.06.15

惰竜抄: