多摩行:八王子・連
庫部:惰竜抄:twitterまとめ:2013.04.13
八王子が続くのです。前回は……
▶多摩行:八王子(2013.03.23) しかし、行程的に続きかというとそうでもありませんで、今回は一転して西部山間部へと赴いたのでありました。 八王子の市史は上下巻の古いものはあるのだけれど、あまり詳細とはいえない。で、現在より大部な新編市史が順次刊行されている。これが「民俗編」の刊行予定は平成28年度なのだけれど、一部先行して調査報告が既に出ている地域がある。それが今回参った恩方(おんがた)だ。『新八王子市史民俗調査報告書 第1集 八王子市西部地域 恩方の民俗』が、そう(長っ!)。 ▶『八王子市西部地域 恩方の民俗』 つまりはこのエリアに関しては、詳細な調査から学びながら歩いて見ることが出来るわけなのですな。 |
大幡山宝生寺
というわけでやってまいりましたは八王子市西寺方町というところ。ここも大きく「恩方地方」といった場合には恩方に入る。写真奥の丘上に宝生寺団地といって、新しい家々が建ち並んでいるが、その手前下が目標地点。 | |
宝生寺団地の名の由来である「宝生寺」があるのだ。こちらお寺の狛犬どん。どちらかというとお寺の方が多国籍風な狛犬どんがおるですな。 | |
ここ宝生寺のある辺一帯を、小字「大幡」というのだ。いきなり前触れを出していた「幡」の話の土地がここなのであります。補遺の方を先にお読み下さい。
▶「補遺:中将姫と幡が飛ぶ話」 |
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この地に「鈴のついた大きな旗」がどこからともなく飛んできたので大幡というのだと伝わり、宝生寺の西の山の腰へ巻きついたのでそこを「腰巻き」というそうな。お寺から西を見ると、ぽこんと丘がある。多分あそこだろう。 そしてその旗は、やがてまた飛んで同郡七生村高幡へ行ったというが、つまり日野市の高幡不動に飛んだということである。そして、「最後には日向薬師に飛んだ」という。日向薬師が飛んできた幡を開帳することで名が知れたのでそうなったので、もとは落幡に向ったという話だったのだろう。 |
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すなわち、この地が相州落幡をめがけて飛ぶ幡の第四の伝説の地ということになるのであります。おそらく「落幡」を追っている人にも、ここはあまり知られていないのではないかと思う(参考資料『恩方村の伝説』編:塩田真八 恩方研究資料刊行会)。 | |
宝生寺は応永年間に開山のお寺だといい、その高幡不動の中興開山の儀海という僧が創建した大幡観音堂の別当を務めるなどしたそうな。戦国時代には北条氏照の帰依をうけ、一時滝山城下へ移っていたともいう。 | |
しかしここの伝説も「旗」といっていて、またしても中将姫の曼荼羅だとはいっておらず、その関係やいかに、ということになるが、前回見たように、八王子では「中将姫と姉妹」だとされた白滝姫が織物の守護として祀られたのであり、この二つの伝承の間に関係がないとは到底思われない。
▶「白滝姫伝説」 もともと源氏の旗が飛んだ、という感じで語られていたようである「落幡めがけて飛ぶ幡」の伝説に中将姫の曼荼羅がオーバーラップしていく土地としては、桑都と呼ばれたここ八王子こそがふさわしい。まだこれからの探求となるが、そこには何かが交錯するだろうと考えている。 (ちなみにまたしても「鈴」といっているところも注目だ。また、「腰巻き」の小地名を伝えているが、この「腰」というのも各所に見えている。これらの共通要素にも、なにかあるのだろう) |
道行き
元木の菅原神社
道行き
上ノ宿の稲荷神社
そして少し西へ行きまして、ここは小字上ノ宿になるんかな?実はこのあたりに稲荷神社があるはずなのだが正確な場所が分からず、また特に記録もないので特に分からなくてもよい、と思っていたところなのだが……行く道にこうありまして。 | |
いやもうまったくこの日をおいて他に来るべき日はなかったろうというスバラシさ。しみるねい。 | |
こちらが「稲荷神社」さんなのでありました。これはスルーにならずによかったですねぇ。見よこの二股の巨木をというお社なのであります。 | |
もうひとつの(多分御神木である)楠も立派。八王子も東京ですので古い道などもう分からない(というかない)ことも多ございますが、この稲荷さんと元木天神さんを繋いだ道が古かったということかもしれない。 | |
こちらは多色紙の初午の奉納があったようですな(よく残ってたな)。前回大和田町の関根神社の方で白紙に書いたのを見たが、やはりこれ系の奉納を稲荷さんにする土地ということのようだ。
▶「大和田:関根神社」 |
下原刀鍛冶の金山神社
辺名のおしゃもじさん
という感じで下原鍛冶の里といってももはや面影というのもない。で、あたくしは鍛冶の里を見に来たというのではありませんで、ここの「おしゃもじさん」を探しにきたのだ。金山神社の北側から高速道路沿いに細い道があるが、昔はこの道を「今熊道」といい、あの「よばわり山」のオリジナルのある、今熊の方へと登るメインの道だった。 | |
その登り口におしゃもじさんがあったというのだ。ここがちょっと面白い話になっているので探しに来た……のだけれど。いやあ、コリャもう何もないですな……
2001年のまだ高速道路が建設途中であった頃には間違いなくあったのであります。以下のサイト様を参照。 ▶「おしゃもじ様」(webサイト「歯のはなし」) 参照先サイト様は歯の話に特化して紹介されているけれど、特にそういうわけでもなく、ここも百日咳などを治す普通のおしゃもじさんでありました。ちなみに八王子では借りてきた杓文字を患部にあてる、というよりも、その杓文字でよそったご飯を食べると治る、という話になっているところが多く、ここもそう。土地の測量の縄・杭を埋めたところだと伝わり、そういう面でも一般的なおしゃもじさん(おしゃぐちさま、ともいったそうな)であります。 んが、面白い話になっているというのは、近くを流れる小さな川との関係にあった。「その近くの小さな流れを「しゃっくり水」といって、飲むとしゃっくりが出るのだという(『恩方村の伝説』)」と伝わっていたのだ。「しゃっくり」というのは社宮司さん周辺でもはじめて聞いた話である。 |
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ま、確かに「しゃっくり」も杓文字と同じく音的に社宮司を代表とするこの神の名に繋がりますなぁ、という感じではある。ひとまたぎの川というから小津川でなくて、このあたりの側溝がその成れの果てなんかなぁ。 近くにお住まいの方に話を訊くと、まだ三十路のおニイさんだったが「あー!おしゃもじさん、あったあった」と知っておられた。が、やはり高速道路が直撃する位置にあったようで、今はどうなったかもう分からないという。残念だけれどイタシカタなし。 |
心源院・蛇山・秋葉神社
浅川ほとりの河原宿というところへ。心源院というお寺を目指してましてその入り口辺りの石造物。こんな風にお花に囲まれていることが多ございますな。野郎はこういうことを思いつかんので、道辻の神々は女房方の管理だったのかもしれない。 | |
「心源院」というお寺は武田信玄の娘の松姫の話で有名なところ。武田滅亡後、こちらの方へと下ってきた松姫は父の名に通じる心源院の名に感得して、ここで剃髪され仏道に入ったのだという。 |
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もっともその辺はあたくし管轄外なのでして(甲斐と繋がりが強い土地だということの重要な一例ではあるが)、問題なのは寺の南側のこの高台なのであります。これを「蛇山」という。 | |
上に寺の火防の秋葉神社が祀られているので登り口鳥居があるのだけれど……ありゃ、もっと鬱蒼とした丘だと思っていたのだが、みんな伐られて……もしかしたらそう遠くなくこの斜面は墓地になってしまうのかもしれない。 | |
登り途中から。いやー、良い景色ですなぁ。もうどこの土地にもこういった見晴し台があったら良いのに。
さて、ここにはなかなかのスケールである竜伝説がある。この恩方の竜は、もとはここから南南東の方になる多摩御陵のある丘陵の東側の竜ヶ谷戸と呼ばれるところに棲んでいたのだという。その竜があるとき天に昇り、その後また降りてきてトグロを巻いたのがこの心源院の蛇山だというのだ。 |
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「遠くから見ると、ちょうど竜がとぐろを巻いているように見えます(『恩方村の伝説』)」のだそうで、登った上に鎮座されるこの「秋葉神社」さんのところがその竜の頭であるそうな。 | |
秋葉神社は心源院の火防の社としての創建ではあるが、法人社であり、一帯の鎮守でもある。この辺どこも鎮守社にはこのような神楽殿が備えられている。 | |
本社殿真後ろの祠。秋葉神社そのものは先の竜伝説とは関係ないだろうから、この祠さんあたりが竜神さんなんかね(『神社名鑑』には境内社の記載はない)。
ところで疑問なのは、竜が降りてきた(昇天した竜が再度降りるというのも珍しい話だが)のを「蛇山」というかね、という点だ。この後さらに「蛇山」が別に出て来るので、竜伝説以前に山容を大蛇になぞらえる感覚が恩方の土地にはあったのじゃないかね、という感じがする。 そして、竜伝説が後にオーバーラップしたかもしれない事跡というのもある。この場所は八王子城の搦め手になり、何を隠そうここから攻め入られて八王子城は落ちたという因縁の場所なのだが、その八王子城主の北条氏照が竜を自らの象徴としていたのだ。相州小田原の後北条宗家は良く知られるように虎をその象徴としており、分家の氏照は虎に対置する竜をその印章とした。このようなことがこの地に竜伝説を刻んでいる可能性は大きいと思う。 ▶「北条虎印』(神奈川県立歴史博物館) |
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ということで、竜が先か蛇が先か、というのがあるのですよ、ここは。急斜面を登ってくるので逆に社地から下界を見るとこの通り。ふぉー! | |
心源院さんの入り口辺りには弁天さんの池と中島もあった。このあたりさらに細かな小地名を深沢といい(深澤山心源院)、これも竜が棲みつくのにふさわしい深い谷だったからだというのだが、この弁天さんも深沢弁天という。 | |
祠の中にはかなり立派な木造蛇体の弁天さんがおられます。祠脇にも巳さんの石造物が。トグロしか残ってないので分からんが、宇賀神さんだったのかも。
ここ心源院はまた蝮封じの寺としても知られたそうな。甲州街道沿いの蛇封じの家の話は「日本の竜蛇譚:蝮の銀右衛門」で紹介し、八王子には志村伴七なる蝮除けの家があるというのも触れておいたが、連なる話だろう。この点は他の蛇山を見たあとまた触れよう。 ▶「蝮の銀右衛門」(日本の竜蛇譚) |
飯縄山と浄福寺城址の蟒蛇
大沢の熊野神社と陣馬街道・案下道
駒木野の稲荷神社
黒沼田の菅原神社
狐塚の蛇山
もうこのあたりになると、釣り人のたたずまいもタダモノではない、という感じであります。まぁ、そんなところに神社巡りにきているあたしではあるのだが(笑)。 | |
黒沼田の次の里は「狐塚(きつねづか)」。これが小字だ。昔はこれからむかう興慶寺の近くに実際「狐塚」と呼ばれる塚があったのだそうな(今はない)。 | |
その興慶寺への入り口。お寺そのものはずっと上のほうにあって(左地図参照)、文字通りの「山のお寺」である(プチ伏線)。このお寺も色々あるようだが、今回はまた時間が圧してまして、ちょっと墓地に登って景色を見させていただく程度で。 興慶寺の南側の山をまた「蛇山」といったというのですな。南は浅川なので、その向こう岸の山ということだろう。で、またしてもこの山には大蛇がおったのだが「がむしゃらで力持ちな金八爺」に切り付けられて、西多摩の網代の山奥に逃げて行ったという。そんな狐塚の蛇山なのだけれど、これは一目見て「あー、なるほど」という感じ。 |
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ちょうど写真左から右上への尾根が里山に使われているようで、色々な木があって色がまだらになっているが、このウネウネとした山容が「蛇山」なのだろう。いや、またまた来て見るものである。 | |
どうもやはり恩方の蛇山は山容を蛇と見立てたという印象である。んが、そうなると少し問題になって来る点がある。蝮除けのまじないのことだ。この辺は蝮が多いらしく、もう少し奥に行くと左写真のような看板がボンボン立っている。そして、心源院の方でも少しふれた通り、甲州街道沿い蛇封じの術を持つ家柄というのがちらほらあり、八王子にもあって、周辺そういう呪文の類が良く伝承されている。
▶「蝮の銀右衛門」(日本の竜蛇譚) この「蝮の銀右衛門」の稿では「チガヤ畑に昼寝して、ワラビの恩を忘れたか、アビラウンケンソワカ」という呪文を紹介したが、恩方では下原刀鍛冶にちなむのかその鍛冶の頭領の名を唱えると蝮が逃げるという話もある。そしてまた、次のような呪文もある。 「マダラムシマダラムシ、ワガユクサキヲサマタグト、ヤマタツヒメトカタロウゾ(恩方)」とか、 「此の山に錦まだらの虫あらば、山だち姫にとりて食わさん、アビラウンケンソワカ(元八王子志村家)」などという。 つまり「ヤマタツヒメ・山だち姫」に言いつけて食わせるぞ、という呪文である(『八王子ふるさとのむかし話』清水成夫/『ふる里民俗誌』鈴木樹造:かたくら書店)。で、『ふる里民俗誌』ではこのヤマタツヒメとは猪のことである、とこの呪文を紹介した人がいった、とある。猪は蛇を良く食い天敵であるのでそういうという。 そこでしかし、だ。確かに猪は山の神、その使いとして広く信仰される動物ではあるのだが、ヤマタツヒメと呼ぶだろうか(「山立」とするとマタギの古い呼び名であり、そこに由来するということかもしれないが)。 こういう疑問があったのだが、そこでこの地方の「蛇山」を見るとどうも山容を蛇といっているようであるわけだ。これはかつて山の神が蛇であり(ヤマタツヒメ)、下って猪が山の神であるということになって、ヤマタツヒメも猪のことだとなってしまったということなのではないか。そう思うのだ。 また、話が飛ぶが、相州愛甲郡愛川町の「八菅山(八菅神社)」のこともこの点に絡めて覚えておきたい。八菅(はすげ)とは、昔は「蛇形(はすげ)」と書いたといい、その山容を日本武尊が大蛇のようだといったからそういうのだと伝わる。この感覚は今回の恩方の蛇山と非常に近いと思う。愛甲厚木と八王子横山には幾つか共通するところがある、と以前述べたが(詳しくはもっと先に行って皆揃ってからとするが)、この八菅山と蛇山の問題もそのひとつである。ちなみに、補遺に見るように八菅山は飛ぶ幡の伝説も共通している。 ▶「補遺:中将姫と幡が飛ぶ話」 |
力石の将門神社
力石のこと
さて、登ったおかげで力石の里を一望することもできる。力石はその名のとおり力石が祀られてきた土地なのでそういう。この写真の右手の里の境の方なんだけどね。石は今個人宅の敷地内に祀られている。そのお家も教えてもらったのだが、どうもこの日は人がおらなんだようで、見せてもらうことはできなかった。んが、この力石、大変興味深い伝を持っている。あまりに面白いのでこの間少しもらしちゃったのだけれど。 かつて色々な石造物など一ヵ所にまとめようと、この力石もその家の守護神である丘上の八幡さまに移そうとしたのだけれど、どうにも運んだ人たちの体調が悪くなってしまったという。これはいかんともとに戻そうとしたら、すいすいと運ぶことができたそうな。そして、この力石は男石であり、地下一丈の所に女石があるのだという。昔掘り下げてみたら、本当に石が出てきて、掘り出そうとしたら余計に沈んでしまったという(『恩方村の伝説』)。つまり、男石と女石が引き合っているので、移そうとすると祟るというわけだ。 これは非常に重要な話だ。そもそもあたしが力石などに興味を持っているのも、鐘や甕という何かと竜蛇の関係する卵状のアイテムに連なる可能性がある、と思ってのことなのだが、この力石の力石(ややこしい)の伝は雌雄の鐘の話などと近いものがある。雌雄の鐘の話は例えば常陸の国分寺の鐘の話など…… ▶「常陸国分寺の雄鐘と雌鐘の壁画」 (「1300年の歴史の里<石岡ロマン紀行>」) 「やはりそういう話があったか!」と膝を叩いた、といって良い。力石の里にはそんな話もあるのであります。 |
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そんなことをつらつらと思いつつ、力石をあとに次の里へ。写真中央の建物はお堂だったんだろうかね。なんだか中は藁積みになっているが。 |
宮尾神社
道行き
龍蔵神社
雨が降らない日が続くと、一升瓶に井戸水を入れ、宮尾神社でお参りし、森久保の龍泉寺でお参りした後、醍醐の龍神淵に行き、拝んでから石を投げ入れた。石を投げ入れるのは龍神を怒らせて雨を降らせるためであった。持ってきた一升瓶を龍神淵に流し、空になった一升瓶に龍神淵の水を入れて持ち帰る。
降宿の住吉神社のこと、おわり
補遺:中将姫と幡が飛ぶ話
補遺:中将姫と幡が飛ぶ話 中将姫の話は、奈良当麻寺の曼荼羅縁起として、鎌倉時代から室町時代にかけて形成されたものだが、これが縁起のうちにとどまらず、あるいは御伽草子として、あるいは謡曲として、あるいは説経浄瑠璃として、と様々に展開して広く世に知られることになった。もともとは中将姫という名もなく、単に信仰の篤い姫の前に仏が示顕してもたらした曼荼羅が当麻寺にある、という話だったのだが、「中将姫」となるに及んで、長谷寺の申し子であるとか、継母にいじめられるのであるとかという中世神話の典型となるモチーフが組込まれて行くことになった。 大まかには当麻寺の曼荼羅縁起である『当麻曼陀羅疏』がこの話の一応の完成形であるとされ、これを引いて御伽草子の『中将姫本地』などが書かれることになるのだが、ここでは原文にあたりやすい『中将姫本地』の筋を見ていきたい(小学館:新編日本古典文学全集63『室町物語草子集』などに収録)。 |
「中将姫本地」(要約):
奈良に横佩(よこはぎ)右大臣豊成という人がいて、中将姫という姫(娘)がいた。その姫が三歳のとき、母が亡くなり、七歳になってそのことを知った姫が、父に「どんな人でも母の形見と見申し上げ、心を慰めます」といったので、豊成は再婚した。幼くして仏道を厚く信心する姫は継母の言いつけにそむかず良く世話したが、継母は姫を憎み、亡きものとしようとする。姫十三歳のとき、仲間の男に姫の部屋に出入りするふりをさせ、これを豊成に見せ、姫が浅はかな行ないをしていると誹った。豊成は姫の不貞を信じてしまい、武士を召して紀伊国雲雀山で姫の首を刎ねるよう申付けた。武士は承ったが、姫の美しさに打たれ、どうしても首を刎ねることができず、姫の世話を山中の庵の妻に任せると、自らは乞食僧となり出家入道した。
姫十四歳のとき、この武士も死んでしまい、姫は『称賛浄土経』千巻を書写し弔った。姫十五歳のとき、豊成が狩りの折に偶然山中の庵にやって来て、姫と再会した。継母の讒言を信じたことを悔いていた豊成は再び姫を屋敷に招き、人々もよろこんだ。帝から后にとの仰せも下ったが、姫は出家を志していた。豊成に偽りを申して家を出ると、当麻寺へ向い剃髪した。戒名をせんに比丘といった。
ここでせんに比丘は大誓願を起こし、七日のうちに阿弥陀如来の目前に現ぜんことを願った。すると六日目に黄金に輝く化尼が現われ、せんにに極楽の有様を織物にして拝ませようといった。この話は父から帝にも伝わり、当麻寺には蓮の茎が百二十駄ほど届けられた。化尼とせんには一緒に蓮の糸を手繰り寄せ、寺の北の隅にひとつの井を掘り、これに糸を浸すと、糸は五色・八色・無数の色に染まった。そこでその池を染野池という。または光野池ともいう。
同じ日に今度は十七、八の天女のような人が現われ、北西の機織り機で縦横一丈五尺の曼荼羅を織り、化尼と化女が、この曼荼羅の絵解きの説法をされた。せんにが化尼と化女にどなたかと問うと、化尼は自分は阿弥陀如来であり、左の一番弟子、観音菩薩に曼荼羅を織らせたのだと仰った。
この十三年後に中将姫は亡くなり、早来迎の場面が語られたりするが、そのように話は終わる。『中将姫本地』であるのに実は本地ものにはなっていない。中将姫が後に「○○観音」として示顕された、となるのが完成形だったのじゃないかと思うが(さよひめが竹生島の弁天として示顕するように)。 なお、本来一番重要なところは省略した化尼と化女が曼荼羅の絵解きを説法するところである。というよりも、その曼荼羅の解説をすることが目的で出来上がっていったのが、この中将姫の物語なのだ。 『当麻曼陀羅疏』の方では冒頭、豊成夫妻には子ができなかったので長谷寺に参籠して姫と男子を得る、という流れになっている。中将姫に弟がいるのだ。そして、山中から戻った姫は帝の寵愛を受けるのだが、弟が死に無常を感じ出家する、という運びとなる。細かな違いは他にも色々あるが、大まかにあとの筋は同じ。逆に近世に下っても色々な派生があり、また再度集大成が図られたりするのだが、その過程では中将姫が竜田川の鳴動を止めたり、継母が最後は大蛇になって襲ってきたりもする。そのようなところはまた折々にということしよう。 基本となる筋で勘違いしやすい点としては、当麻曼荼羅は「中将姫が織ったのではない」という点があるだろう。織るのは化女(観音菩薩)である。全国に当麻曼荼羅のコピーがたくさん広まり、またその縁起が語られる上で「中将姫の織った曼荼羅」となるのだが、もとはちょっと違うのだ。もっとも、中将姫が死後、例えば「機織観音として示顕された」とかいうように本地ものとして「ちゃんと」終わっていたら、化女と中将姫が同一化して問題なくなっていたのであり、実質はそういう形で信仰が広まっているのだともいえる。 さて、そしてこの中将姫にまつわる伝説が各地にあり、相模にもある。これが本題だ。特に、いま秦野市の鶴巻温泉というあたりは昔は落幡といい、相模のこの伝説の流れの焦点であった。ここ落幡を中心とする伝説群で特徴的なところは、それが「飛ぶ幡の伝説」でもあることだ。大筋を見てみよう。 |
中将姫の織った幡が白幡神社から飛び出して飛んでいた。善波太郎が弓で射ようとしたが、足場が悪くて一旦やめたところを弓不引(ゆみひかず)という。射落とされた幡は今西光寺のある場所にあった大松にかかった。こうして幡が落ちたところなので落幡という。また、幡についていた鈴が落ちた川を鈴川という。
善波太郎は落幡北方にいたという伝説的な強力の武士(今回説明は割愛)。周辺色々な類話があり、弓で射落とすのでなく、幡を追う中将姫が石を投げて落としたり(これも石打という地名の説明になっている)というものもある。そして、地元ではさらにこのようにいう。 |
日向薬師の国宝になっている、中将姫が織られた蓮の曼陀羅が、落幡へ落ちたんだと言っているんです。私のひいひいばあさんになるのかね、そのばあさんの実家が西光寺のそばにあって、その家で保管していたらしいんです。それが、その兄さんのときかなにか、日向薬師さんの開帳の日に、カギを持ってその曼陀羅を開けに行く、それがわずらわしいというので、その後、日向薬師に預けちゃったんだろうと、私の父が良く言ってたんですよ。西光寺は幡松院って山号だから、こういったことから起っているんじゃないかな。
多摩行:八王子・連 2013.04.13