多摩行:八王子・連

庫部:惰竜抄:twitterまとめ:2013.04.13

八王子が続くのです。前回は……

多摩行:八王子(2013.03.23)

しかし、行程的に続きかというとそうでもありませんで、今回は一転して西部山間部へと赴いたのでありました。
八王子の市史は上下巻の古いものはあるのだけれど、あまり詳細とはいえない。で、現在より大部な新編市史が順次刊行されている。これが「民俗編」の刊行予定は平成28年度なのだけれど、一部先行して調査報告が既に出ている地域がある。それが今回参った恩方(おんがた)だ。『新八王子市史民俗調査報告書 第1集 八王子市西部地域 恩方の民俗』が、そう(長っ!)。

▶『八王子市西部地域 恩方の民俗

つまりはこのエリアに関しては、詳細な調査から学びながら歩いて見ることが出来るわけなのですな。

大幡山宝生寺

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というわけでやってまいりましたは八王子市西寺方町というところ。ここも大きく「恩方地方」といった場合には恩方に入る。写真奥の丘上に宝生寺団地といって、新しい家々が建ち並んでいるが、その手前下が目標地点。

宝生寺団地の名の由来である「宝生寺」があるのだ。こちらお寺の狛犬どん。どちらかというとお寺の方が多国籍風な狛犬どんがおるですな。
ここ宝生寺のある辺一帯を、小字「大幡」というのだ。いきなり前触れを出していた「幡」の話の土地がここなのであります。補遺の方を先にお読み下さい。

▶「補遺:中将姫と幡が飛ぶ話
この地に「鈴のついた大きな旗」がどこからともなく飛んできたので大幡というのだと伝わり、宝生寺の西の山の腰へ巻きついたのでそこを「腰巻き」というそうな。お寺から西を見ると、ぽこんと丘がある。多分あそこだろう。
そしてその旗は、やがてまた飛んで同郡七生村高幡へ行ったというが、つまり日野市の高幡不動に飛んだということである。そして、「最後には日向薬師に飛んだ」という。日向薬師が飛んできた幡を開帳することで名が知れたのでそうなったので、もとは落幡に向ったという話だったのだろう。
すなわち、この地が相州落幡をめがけて飛ぶ幡の第四の伝説の地ということになるのであります。おそらく「落幡」を追っている人にも、ここはあまり知られていないのではないかと思う(参考資料『恩方村の伝説』編:塩田真八 恩方研究資料刊行会)。
宝生寺は応永年間に開山のお寺だといい、その高幡不動の中興開山の儀海という僧が創建した大幡観音堂の別当を務めるなどしたそうな。戦国時代には北条氏照の帰依をうけ、一時滝山城下へ移っていたともいう。
しかしここの伝説も「旗」といっていて、またしても中将姫の曼荼羅だとはいっておらず、その関係やいかに、ということになるが、前回見たように、八王子では「中将姫と姉妹」だとされた白滝姫が織物の守護として祀られたのであり、この二つの伝承の間に関係がないとは到底思われない。

▶「白滝姫伝説

もともと源氏の旗が飛んだ、という感じで語られていたようである「落幡めがけて飛ぶ幡」の伝説に中将姫の曼荼羅がオーバーラップしていく土地としては、桑都と呼ばれたここ八王子こそがふさわしい。まだこれからの探求となるが、そこには何かが交錯するだろうと考えている。
(ちなみにまたしても「鈴」といっているところも注目だ。また、「腰巻き」の小地名を伝えているが、この「腰」というのも各所に見えている。これらの共通要素にも、なにかあるのだろう)

道行き

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この辺はまだ平地で家も沢山だが、流れる川などは既に山間部の雰囲気になりつつある。ていうかステキな畑ですなあ。写真右方の川が浅川でして、今回は概ね浅川を遡っていく行程なのでもあります。
道行きにお地蔵さん。どうも道祖神さんなどはあまり見ない。甲州街道で甲斐と繋がる地故に(というか千人同心などももとは武田の兵なんだが)、道祖神文化圏なんかな、と思っていたのだけれど、どうなんかね。
このお地蔵さんにこんな草鞋も奉納されていた。お寺に掲げられる草鞋というよりは「足の神」でもある道祖神さんへの奉納の草鞋という感じだが。お地蔵さんが道祖神さんを兼ねてんのかなぁ。
お地蔵さんのはす向かいにはこれまたとてつもない門の木が。辻の木でもあるだろう。ていうか辻のヌシどのに相違あるまい。何の木ですかねこれ。欅か?
それで「大幡」は養蚕織物文化はどうよ、というと八王子全般と同じく、かつては盛んだったが今は見ない、という風。また、大幡は宝暦年間に「武州大幡紙」という紙の生産が行なわれ、地名に「紙谷(かみや)」ともあった。

元木の菅原神社

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そして小字元木というところへ。ここの鎮守は「菅原神社」さん。創建も由緒沿革も皆不詳と、ごく普通の村里の天神さんではある(一応古くは延宝年間の再建伝があるそうな)。
ここは「元木」の地名伝説が興味深いのだ。ひとつはこの社の北側(写真日向になってる広場)に、縄入れの最初の杭(ぼんぐい)を打ったのでそういうという。
で、もう一つの伝では、なんとあの高尾山のヌシである飯縄大権現(薬王院の秘仏)像はここの木から彫られたので元木というというのだ。しかも、先に行って出てくるが、像は二体造られたといい、うち一体が恩方に祀られてきたとの伝えもある。
(ちなみに高尾の飯縄大権現は「いづな」といってもキツネ的なあれではないのでして、外見的にはほとんど烏天狗のようなお姿なのであります)
そういわれて見ると、菅原神社さん拝殿の木鼻も村里の小さなお社のものにしては随分立派なような。
ていうか、拝殿の龍像が素晴らしかったのですな、ここは。これはですね、多分もとの木がもうすごくねじくれていて、そのねじれをうまく使って彫られた龍像だと思うのですよ。スバラシイですね。
しかしなんだろうね。大きな修験の寺とかがあって、ここの天神さんがその守護神だったとかいうんかね。
なぜか胡瓜が。特に天王さんを合祀しているとかは記録上見ないけどなぁ。川のそばではあるが。何故天神さんに胡瓜なのか。
不思議覆殿。なんかこう、この後ろにかつて大きな本殿覆殿があったのじゃなかろうか。
実は八王子の養蚕守護の神仏として、高尾の飯縄権現も関係してくるのだ。高尾山は「鼠口留秘符」というお札を出していた。「同木同体のいづな様」と呼ばれた恩方の飯縄信仰も、その一環として関係してくる可能性がある。

道行き

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行く道に庚申さん。庚申さんとか二十三夜さんとかはこんな風にでっかく立派に備えられる傾向がある。
一方で、このささやかなエリアは道祖神さんなんかなぁ。分からん。立地的にはそのようだが。写真左の竹筒は笠がついてるが、ロウソク立て。

上ノ宿の稲荷神社

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そして少し西へ行きまして、ここは小字上ノ宿になるんかな?実はこのあたりに稲荷神社があるはずなのだが正確な場所が分からず、また特に記録もないので特に分からなくてもよい、と思っていたところなのだが……行く道にこうありまして。
いやもうまったくこの日をおいて他に来るべき日はなかったろうというスバラシさ。しみるねい。

こちらが「稲荷神社」さんなのでありました。これはスルーにならずによかったですねぇ。見よこの二股の巨木をというお社なのであります。
もうひとつの(多分御神木である)楠も立派。八王子も東京ですので古い道などもう分からない(というかない)ことも多ございますが、この稲荷さんと元木天神さんを繋いだ道が古かったということかもしれない。
こちらは多色紙の初午の奉納があったようですな(よく残ってたな)。前回大和田町の関根神社の方で白紙に書いたのを見たが、やはりこれ系の奉納を稲荷さんにする土地ということのようだ。

▶「大和田:関根神社

下原刀鍛冶の金山神社

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下恩片町を西の方へと進みますと、辺名というところとなり、小津との境あたりなのだけれど、ここが室町期から後北条、江戸時代まで音にきこえた下原刀を打つ刀鍛冶たちの拠点だった。
昔は辺名の桜で有名だったところですな(今はその老桜はもうない)。鍛冶集団の地だった、というのも今は昔で、痕跡が少し残るだけだ。写真の真ん中あたりの建物が公民館で、その背後にひっそりと鍛冶たちの守護神だった金山神社が祀られている。

「金山神社」。土地の方によると、もとはもっと北側に立派に社があったのだけれど、高速道路が通って潰れ、ここにひっそり遷されたのだという。さらにもう一社金山神社があったともいう。

辺名のおしゃもじさん

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という感じで下原鍛冶の里といってももはや面影というのもない。で、あたくしは鍛冶の里を見に来たというのではありませんで、ここの「おしゃもじさん」を探しにきたのだ。金山神社の北側から高速道路沿いに細い道があるが、昔はこの道を「今熊道」といい、あの「よばわり山」のオリジナルのある、今熊の方へと登るメインの道だった。
その登り口におしゃもじさんがあったというのだ。ここがちょっと面白い話になっているので探しに来た……のだけれど。いやあ、コリャもう何もないですな……

2001年のまだ高速道路が建設途中であった頃には間違いなくあったのであります。以下のサイト様を参照。

▶「おしゃもじ様」(webサイト「歯のはなし」)

参照先サイト様は歯の話に特化して紹介されているけれど、特にそういうわけでもなく、ここも百日咳などを治す普通のおしゃもじさんでありました。ちなみに八王子では借りてきた杓文字を患部にあてる、というよりも、その杓文字でよそったご飯を食べると治る、という話になっているところが多く、ここもそう。土地の測量の縄・杭を埋めたところだと伝わり、そういう面でも一般的なおしゃもじさん(おしゃぐちさま、ともいったそうな)であります。

んが、面白い話になっているというのは、近くを流れる小さな川との関係にあった。「その近くの小さな流れを「しゃっくり水」といって、飲むとしゃっくりが出るのだという(『恩方村の伝説』)」と伝わっていたのだ。「しゃっくり」というのは社宮司さん周辺でもはじめて聞いた話である。
ま、確かに「しゃっくり」も杓文字と同じく音的に社宮司を代表とするこの神の名に繋がりますなぁ、という感じではある。ひとまたぎの川というから小津川でなくて、このあたりの側溝がその成れの果てなんかなぁ。
近くにお住まいの方に話を訊くと、まだ三十路のおニイさんだったが「あー!おしゃもじさん、あったあった」と知っておられた。が、やはり高速道路が直撃する位置にあったようで、今はどうなったかもう分からないという。残念だけれどイタシカタなし。

心源院・蛇山・秋葉神社

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浅川ほとりの河原宿というところへ。心源院というお寺を目指してましてその入り口辺りの石造物。こんな風にお花に囲まれていることが多ございますな。野郎はこういうことを思いつかんので、道辻の神々は女房方の管理だったのかもしれない。

「心源院」というお寺は武田信玄の娘の松姫の話で有名なところ。武田滅亡後、こちらの方へと下ってきた松姫は父の名に通じる心源院の名に感得して、ここで剃髪され仏道に入ったのだという。

もっともその辺はあたくし管轄外なのでして(甲斐と繋がりが強い土地だということの重要な一例ではあるが)、問題なのは寺の南側のこの高台なのであります。これを「蛇山」という。
上に寺の火防の秋葉神社が祀られているので登り口鳥居があるのだけれど……ありゃ、もっと鬱蒼とした丘だと思っていたのだが、みんな伐られて……もしかしたらそう遠くなくこの斜面は墓地になってしまうのかもしれない。
登り途中から。いやー、良い景色ですなぁ。もうどこの土地にもこういった見晴し台があったら良いのに。

さて、ここにはなかなかのスケールである竜伝説がある。この恩方の竜は、もとはここから南南東の方になる多摩御陵のある丘陵の東側の竜ヶ谷戸と呼ばれるところに棲んでいたのだという。その竜があるとき天に昇り、その後また降りてきてトグロを巻いたのがこの心源院の蛇山だというのだ。

「遠くから見ると、ちょうど竜がとぐろを巻いているように見えます(『恩方村の伝説』)」のだそうで、登った上に鎮座されるこの「秋葉神社」さんのところがその竜の頭であるそうな。
秋葉神社は心源院の火防の社としての創建ではあるが、法人社であり、一帯の鎮守でもある。この辺どこも鎮守社にはこのような神楽殿が備えられている。
本社殿真後ろの祠。秋葉神社そのものは先の竜伝説とは関係ないだろうから、この祠さんあたりが竜神さんなんかね(『神社名鑑』には境内社の記載はない)。

ところで疑問なのは、竜が降りてきた(昇天した竜が再度降りるというのも珍しい話だが)のを「蛇山」というかね、という点だ。この後さらに「蛇山」が別に出て来るので、竜伝説以前に山容を大蛇になぞらえる感覚が恩方の土地にはあったのじゃないかね、という感じがする。
そして、竜伝説が後にオーバーラップしたかもしれない事跡というのもある。この場所は八王子城の搦め手になり、何を隠そうここから攻め入られて八王子城は落ちたという因縁の場所なのだが、その八王子城主の北条氏照が竜を自らの象徴としていたのだ。相州小田原の後北条宗家は良く知られるように虎をその象徴としており、分家の氏照は虎に対置する竜をその印章とした。このようなことがこの地に竜伝説を刻んでいる可能性は大きいと思う。

「北条虎印』(神奈川県立歴史博物館)
ということで、竜が先か蛇が先か、というのがあるのですよ、ここは。急斜面を登ってくるので逆に社地から下界を見るとこの通り。ふぉー!
心源院さんの入り口辺りには弁天さんの池と中島もあった。このあたりさらに細かな小地名を深沢といい(深澤山心源院)、これも竜が棲みつくのにふさわしい深い谷だったからだというのだが、この弁天さんも深沢弁天という。
祠の中にはかなり立派な木造蛇体の弁天さんがおられます。祠脇にも巳さんの石造物が。トグロしか残ってないので分からんが、宇賀神さんだったのかも。

ここ心源院はまた蝮封じの寺としても知られたそうな。甲州街道沿いの蛇封じの家の話は「日本の竜蛇譚:蝮の銀右衛門」で紹介し、八王子には志村伴七なる蝮除けの家があるというのも触れておいたが、連なる話だろう。この点は他の蛇山を見たあとまた触れよう。

▶「蝮の銀右衛門」(日本の竜蛇譚)

飯縄山と浄福寺城址の蟒蛇

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そしていよいよ「山間部」という方へと進むのでありますが、行く道に大層立派な二十三夜さんが。

松竹というところの恩方第一小学校の西側に写真のようなまたどーんという感じの高台がある。ここが「飯縄山」で、元木でいっていた高尾山と「同木同体のいづな様」と呼ばれた像が祀られていたという。
西から。昔は山上に拝みの婆さまが住んでいて、その像を祀っていたのだそうな。今はもう何もないし、登る道も見なかったけどね。で、ここでそう思ったのだが、先の蛇山もここも「はやま」じゃないでしょうかと。

大きな山系丘陵から連なりその先端が平地へぽこんとつき出ているような山を「はやま」といい、葉山・羽山など色々書くが意味的には普通「端山」の意である。そういう山は主に農耕民から山の神(深山・みやま)とコンタクトするための聖なる山として信仰された。吉野裕子女史などはこのはやま信仰を「蛇山(はやま)信仰」であり、山容を蛇と見立てていた信仰の残存ではないかというのだが、もしかしたら恩方にはそういうことがあったのかもしれない。この飯縄山の方にも大蛇伝説があるのですよ。
飯縄山から西北西にかけての尾根には北条氏照の初期の居城とも八王子城の出城ともいわれる浄福寺城がかつてあり、これを新城の城山といったが、蟒蛇がおって、八王子城の山と往復していたという。図の右端が飯縄山ですな。
この蟒蛇を千人隊(千人同心)の小津幸右衛門なる人が安永四年に撃ち殺したという話が八王子の地誌『桑都日記』にも絵入りであるのだが、そのころまでこの地では「山と蛇」を結びつける感覚が強かったというのは重要だ。
ともかくこの浅川沿い、里ごとにそういった山を持っていたんじゃないのかね、という風情であります。橋を木にして家を木造藁葺きにしたら、まんま往昔の村里の光景になりそうな感じですな。

大沢の熊野神社と陣馬街道・案下道

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そこから大通りを外れて(多分)大沢というところとなる「熊野神社」さんへ。特に何だと分かる話のあるお社というわけではない。

外れる前の大通りを陣馬街道といい、上野原へ抜ける甲州街道の裏街道なのだけれど、その奥まったところにある熊野神社が古いといわれる(今回は時間切れで行かなかったのだけれど)。そのあたりを案下(あんげ)というが、昔は恩方は広く案下と呼ばれており、陣馬街道はこのあたり案下道ともいった。その奥の熊野さんが案下道全体の守護神であったと見え、往昔はその一之鳥居が元八王子との境あたりにあったという。先の心源院の方だろう。
そのようなので、途中の熊野さんはその一環であったりするかもしれない、この前が旧道なんじゃないかね、と思って参ったのでした。まぁ、特にそれを示すようなものも見えなかったが。
大通りに戻りますと、これが今その陣馬街道・案下道と呼ばれる道ですな。この道を山奥に進むのであります。

駒木野の稲荷神社

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このあたりになると浅川も既に清流の様相であります。この日は天気明朗なれども気温は涼し、という年にそう何度とない神社巡り日和であったのだけれど、もうちっと暑かったらまた「飛び込みてえぇぇ!」とやっとったでしょうな(笑)。
駒木野という土地に入っていて、ここはもう大字も上恩方(これまでは下恩方)となる。その道すがらに。お、この「ならび」は奥に何かあるに相違ない、という光景が。
事前調査には見なかったが、確かに神社であります。もう、絵に描いたような破れ宮だが。あれ、でもこの規模で法人社でないというのは変だね。

場所は左地図の位置となる。確かに恩方各地区概ね小字エリアごとに何らかの鎮守のお宮があるのだが、駒木野地区にはこれが見えず、おかしいなとは思っていた。奥にはたくさんの摂末社の小祠もあり、ここが鎮守社だったのに相違あるまい。お稲荷さんのようだ。
はてさて。どうしたことでしょうかね、お狐さん。

黒沼田の菅原神社

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行く道に招き猫さんが。にくきうが……(笑)。
駒木野から先へ進むと、面白い小字が連続する。まず、ここは黒沼田と書いて「くるみた」という。もはやなぜそういうかは誰も知らぬという。土地の古老が湿地のことを「くろぬた(黒沼田か)」といっていた、という報告があるくらいだ。

その黒沼田の鎮守さんが菅原神社さんで『神社名鑑』だと天神社なんだが、どうにも道が分からん。ぐーぐるマップでも道があるし、街道からも家々の後ろに「あの杜だ」と分かるのだけれど、入り口がない。で、道行くおとっつあんに訊いてみますと……
ここが入り口だという(塀と植え込みの間の方)。いやー、これは私有地にしか見えん(TΔT)。もしここのお社に行きたいという方いましたら、よく見ておいて下さい。この塀と植え込みの間を塀沿いに行きますと……
……曲ってこうなる。あってんです。おとっつあんは「道に沿って行ったらすぐだから」といったのだから道である。この奥へ進むとすぐ。

道行きからは想像できない立派な鳥居の「菅原神社(天神社)」さんでありました。で、鳥居後ろに坂が見えているが、おそらく正規の参道は右に回り込む方。
回り込むとまたこうして鳥居があって、石段が登るのだ。こっちが正参道だろう。で、あたくしちょっとこの「神社が見つかりにくい」という点にコーフンしておるのですよ。
実は、この菅原天神さんは上野國新田氏の分流・岩村藤三郎家時なる人が、応仁の乱の時代に足利の権勢を逃れてきて、文明二年にこの地の山上に創建(後山下に遷す)したというのですよ。
ここから山中、そんな話ばかりなのだ。将門公の臣下だったり、武田の兵士だったり色々なのだが、ともかく何かから逃れてきてこの山間に住んだ、という人々の里が連なるのである。故に、表立ってはいけない、という意識が強かったといい、この後そういう話も出てくる。この菅原天神さんが表通りから分かりにくいのもそういう習性があった結果ではないだろうか。
もちろん今はそんなことなく、こうしてすぐ道を教えてもらえるのだけれど。参道を背後にしてこんな祠もあった。よく分からないが橋本の方の子安講と関係する祠であるらしい。

狐塚の蛇山

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もうこのあたりになると、釣り人のたたずまいもタダモノではない、という感じであります。まぁ、そんなところに神社巡りにきているあたしではあるのだが(笑)。
黒沼田の次の里は「狐塚(きつねづか)」。これが小字だ。昔はこれからむかう興慶寺の近くに実際「狐塚」と呼ばれる塚があったのだそうな(今はない)。

その興慶寺への入り口。お寺そのものはずっと上のほうにあって(左地図参照)、文字通りの「山のお寺」である(プチ伏線)。このお寺も色々あるようだが、今回はまた時間が圧してまして、ちょっと墓地に登って景色を見させていただく程度で。

興慶寺の南側の山をまた「蛇山」といったというのですな。南は浅川なので、その向こう岸の山ということだろう。で、またしてもこの山には大蛇がおったのだが「がむしゃらで力持ちな金八爺」に切り付けられて、西多摩の網代の山奥に逃げて行ったという。そんな狐塚の蛇山なのだけれど、これは一目見て「あー、なるほど」という感じ。
ちょうど写真左から右上への尾根が里山に使われているようで、色々な木があって色がまだらになっているが、このウネウネとした山容が「蛇山」なのだろう。いや、またまた来て見るものである。
どうもやはり恩方の蛇山は山容を蛇と見立てたという印象である。んが、そうなると少し問題になって来る点がある。蝮除けのまじないのことだ。この辺は蝮が多いらしく、もう少し奥に行くと左写真のような看板がボンボン立っている。そして、心源院の方でも少しふれた通り、甲州街道沿い蛇封じの術を持つ家柄というのがちらほらあり、八王子にもあって、周辺そういう呪文の類が良く伝承されている。

▶「蝮の銀右衛門」(日本の竜蛇譚)

この「蝮の銀右衛門」の稿では「チガヤ畑に昼寝して、ワラビの恩を忘れたか、アビラウンケンソワカ」という呪文を紹介したが、恩方では下原刀鍛冶にちなむのかその鍛冶の頭領の名を唱えると蝮が逃げるという話もある。そしてまた、次のような呪文もある。
「マダラムシマダラムシ、ワガユクサキヲサマタグト、ヤマタツヒメトカタロウゾ(恩方)」とか、
「此の山に錦まだらの虫あらば、山だち姫にとりて食わさん、アビラウンケンソワカ(元八王子志村家)」などという。
つまり「ヤマタツヒメ・山だち姫」に言いつけて食わせるぞ、という呪文である(『八王子ふるさとのむかし話』清水成夫/『ふる里民俗誌』鈴木樹造:かたくら書店)。で、『ふる里民俗誌』ではこのヤマタツヒメとは猪のことである、とこの呪文を紹介した人がいった、とある。猪は蛇を良く食い天敵であるのでそういうという。
そこでしかし、だ。確かに猪は山の神、その使いとして広く信仰される動物ではあるのだが、ヤマタツヒメと呼ぶだろうか(「山立」とするとマタギの古い呼び名であり、そこに由来するということかもしれないが)。
こういう疑問があったのだが、そこでこの地方の「蛇山」を見るとどうも山容を蛇といっているようであるわけだ。これはかつて山の神が蛇であり(ヤマタツヒメ)、下って猪が山の神であるということになって、ヤマタツヒメも猪のことだとなってしまったということなのではないか。そう思うのだ。

また、話が飛ぶが、相州愛甲郡愛川町の「八菅山(八菅神社)」のこともこの点に絡めて覚えておきたい。八菅(はすげ)とは、昔は「蛇形(はすげ)」と書いたといい、その山容を日本武尊が大蛇のようだといったからそういうのだと伝わる。この感覚は今回の恩方の蛇山と非常に近いと思う。愛甲厚木と八王子横山には幾つか共通するところがある、と以前述べたが(詳しくはもっと先に行って皆揃ってからとするが)、この八菅山と蛇山の問題もそのひとつである。ちなみに、補遺に見るように八菅山は飛ぶ幡の伝説も共通している。

▶「補遺:中将姫と幡が飛ぶ話

力石の将門神社

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狐塚の次の里は力石(ちからいし)という。これも小字だ。あの持ち上げる力石のことそのままでこういう(後述)。この地名は珍しいのじゃないかな。もっと小さな小地名ならあるかもだが。
で、まずは力石はさて置き、この里の守護神がなんと平将門公だというので、そのお社を探したのであります。単立小社で詳細位置不明。公民館のあたりかなぁ、と思って来てみてもこんな立派な石碑は並ぶもそれらしい社はなし。ちょっと分かりそうもない感じなので、土地の何人かの人に(リサーチも兼ねて)訊いてみたのだけれど、皆「将門神社さんはねぇ……」と、説明し慣れている感じがした。将門を追う人はどこまでも行く傾向があるので(笑)、実はここを訪ねる人も少なくないのかもしらん。
んが「道はない」ともいう。ナンだそれは。ということでこれから赴く気の方(居るのか知らんが)の為にちょっと詳しく見ていきましょう。まず、公民館の北から林道に入るところに写真中央のような細い分岐がある。これを左に行く。
この細道がお墓のぐるりを回っていて、写真のように墓地の背後に登って行く。
そこを登ると道が終わる(笑)。そして写真のような草原になるのだけれど、分かりますかね、奥の林の写真中央にちょっと大きな楠があるのだけれど、それを目指すのです。んが、その間本当に「地雷原」なので注意。
「猪がよぉ、もうこんな、こーんなふうに(とジェスチャーしつつ)ほじくり返しちまってんから、道ももうねえのよう。足元に気をつけねぇと……」と言われたのだが、その通り。
写真のような穴がボコボコあって深さも二十センチくらいはある。上に草がかぶさって見えなくなってる穴もあるので、迂闊に踏み落ちてコケたら捻挫程度ではすまないかもしれない。

というようなところを抜けると、どうにかお社に着く。ここが「将門神社」さまであります。
ここは色々な伝があるのだが、主としては土地の重鎮の家だった草木家が将門の臣下であり、将門の御落胤である若君をこの地に匿い育てたのだ、という話になる。そして、このお社の御神体はなんとバラバラにされた将門公の陽物が飛んできて落ちたものだといい、実際石棒を祀っているのだそうな。今は皆「将門神社」といっていたが、昔はこの石棒を「まさかさま」と呼んでいたという。

で、何故あたしがマサカサマに参りに必死に登ってきたのであるかというと、将門公の話もまた両毛地方とこの多摩と相州秦野の方を繋ぐ伝説だからなんですな。足利市の方には将門公の手が落ちたという大手神社などがあるし、秦野市の方には将門公が都を造ろうとした、という伝説がある。養蚕機織りの伝説が繋ぐ経路に、なぜかこの将門伝説が重なっているのである。直接関係するのかどうかは分からないが、このラインを見るためのもうひとつの物語である可能性はあるだろう。そうでなくても「将門の陽物」を祀る恩方将門神社である。将門伝説を追う人には極めてレアなところであるだろう。

力石のこと

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さて、登ったおかげで力石の里を一望することもできる。力石はその名のとおり力石が祀られてきた土地なのでそういう。この写真の右手の里の境の方なんだけどね。石は今個人宅の敷地内に祀られている。そのお家も教えてもらったのだが、どうもこの日は人がおらなんだようで、見せてもらうことはできなかった。んが、この力石、大変興味深い伝を持っている。あまりに面白いのでこの間少しもらしちゃったのだけれど。
かつて色々な石造物など一ヵ所にまとめようと、この力石もその家の守護神である丘上の八幡さまに移そうとしたのだけれど、どうにも運んだ人たちの体調が悪くなってしまったという。これはいかんともとに戻そうとしたら、すいすいと運ぶことができたそうな。そして、この力石は男石であり、地下一丈の所に女石があるのだという。昔掘り下げてみたら、本当に石が出てきて、掘り出そうとしたら余計に沈んでしまったという(『恩方村の伝説』)。つまり、男石と女石が引き合っているので、移そうとすると祟るというわけだ。
これは非常に重要な話だ。そもそもあたしが力石などに興味を持っているのも、鐘や甕という何かと竜蛇の関係する卵状のアイテムに連なる可能性がある、と思ってのことなのだが、この力石の力石(ややこしい)の伝は雌雄の鐘の話などと近いものがある。雌雄の鐘の話は例えば常陸の国分寺の鐘の話など……

▶「常陸国分寺の雄鐘と雌鐘の壁画
 (「1300年の歴史の里<石岡ロマン紀行>」)

「やはりそういう話があったか!」と膝を叩いた、といって良い。力石の里にはそんな話もあるのであります。
そんなことをつらつらと思いつつ、力石をあとに次の里へ。写真中央の建物はお堂だったんだろうかね。なんだか中は藁積みになっているが。

宮尾神社

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さらに陣馬街道をすすむと、関場という土地になる。甲州街道の裏街道であった道故関所もあったので関場といい、鎮守さんを宮尾神社という。神社庁には「住吉神社琴平神社合社」と登録されているようだが、要は宮尾山のお宮であり宮尾神社ともっぱらにいう。で、これまた入り口が分かりにくいのだけれど、西の方から行くのはこんな感じ。中央の登りを登って行く。案内などはない。
参道そのものは綺麗に砂利など敷かれている立派な道ですな。山中社寺の参道名物(?)の根が露出している樹木。なぜかこういう参道の曲がりには必ずあるような気がする。

登って行くと鳥居が見える。「宮尾神社(住吉神社琴平神社合社)」到着であります。この石段下にトイレもある。実は助かった(笑)。
いや、『神社名鑑』で白黒写真は見ていたのだけれど、その印象よりも随分立派な社地であります。これは別格だ。どうやら現在の恩方全体の総鎮守格のお社はここということになるようだ。
由緒沿革などからすると次に参る(まだ進むのだ)醍醐の龍蔵神社や案下の熊野神社が目立つのだが、ここは陣馬街道の関の里のお社ということで、行政的にも要のお社であったのだろう。
立派な拝殿は山腹を削って配し、その上に本殿覆殿があり、と今日見てきた他の恩方の神社とは一線を画する造営であります。ちなみに琴平神社の方が明治に合祀されたということで、宮尾神社の本来は住吉さんなのだと思われる。
狛犬どのもなかなかの風格ですな。そしてですね、ここのお社は実は童謡で有名なのだ。知らぬ人の居ない「夕焼け小焼け」であります。この詞を書いた中村雨紅はこの宮尾神社の当時の宮司・髙井丹吾の二男なんですな。
すなわちあの夕焼けとは恩方の夕焼けであり、神社にも碑がある。この下には「夕やけ小やけふれあいの里」というのもある。土地の顔なんであります。「や〜まのお〜て〜らの」鐘が鳴る山寺が、先の狐塚の興慶寺のことだったのだそうな。
下ってきまして関所跡。裏街道の関所と言やあ、また悲恋譚だの何だのが色々あるのですが、そのへんはスルーで。えぇ、夕焼け小焼けで日が暮れつつあっても、カラスと一緒に帰るわけにはゆかんのですよ、あたくしは。

道行き

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関場をあとに、陣馬街道・案下道も外れて北の方へと入って行く道がある。あたしはさらにそちらへ進むのです。やあ、既に山裾の方は暗いですなぁ(笑)。このあたりになるともう「里」というほどには人家が密集してもおらず、川沿い道沿いに点々と数軒家がある、という感じだが、そうやって昔からそこに人がいたところの後背の山は里山として使用されていて一目で分かる。
特にこの時季、季節の変わり目は里山の色々な樹々がそれぞれの特徴を良く見せ、山肌がパッチワークのようになってよろしいですな。里山、春から夏への装い、みたいな。
道中の多くは写真のようなもう川と道だけの様相であります。浅川も関場で二つの流れが合流して浅川となるのでありまして、北へ遡る方は醍醐川という。

醍醐というキーワードもまた相州秦野の方に見えるもので、そちらでは渡来の酪農文化を示す痕跡か、などとされこちらも「むっ!」と思うのだが、そういうわけでもないらしい。力石の将門神社で紹介したこの地に匿われた将門公の御落胤の名が醍醐であったというのだ。それはそれで秦野の方も将門伝説があるので関連が慮られるのだけれどね。ともかくその醍醐川を遡っていくのであります。この土地は下の方を降宿といい、上を醍醐という。

龍蔵神社

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そして、降宿を抜けて醍醐に入ろうかというそのあたりに鳥居が見えて来る。川向こうの写真位置に鳥居が見えるというのもなかなかないシチュエーションでありますな。

木橋を渡ると、ここが醍醐の鎮守「龍蔵神社」さん。今回の第一目標のお社なのであります。
神社庁にはここも「龍蔵神社住吉神社合社」と登録されている。が、住吉さんは実質復祀されてるので「龍蔵神社」の表記で。創建年代は不詳だが、「八百有余年前に神が竜となり、龍宮界より石舟山に降臨した」という伝のお社。龍蔵神社の御祭神は「岩滝姫命」となっており、御神体は「船の帆柱に龍が絡み付いたもの」と『新編風土記』にもある。石舟山というのがどこかは分からないが、この御神体が今の社からさらに二キロほど上流の龍神淵(雨乞いの淵)から流れてきたので祀ったともいう。

ちなみにその「龍神淵」が重要な奥所であるのだが、数年前に崖崩れがあって、現在も淵に下りることができないままだと思われる(沢登りすりゃ行けるよ、と土地の人はいうのだが……笑)。ということで今回はこのお社までしか行かないです。

さて、ここ龍像神社は大きく二つの御神徳をもって信仰されてきた。安産と降雨だ。これを詳しく紹介したい。まず安産だが、土地の古老によると岩滝姫命は豊玉姫命のことであるのだ、という了解で安産の神となっているそうな。そして、その祈願の奉納として「旗」が納められた。これはもとは御神体が紅絹(もみ)で包まれており、これを七年ごとに替えたのだが、その紅絹の断片を安産の御符として配布していたということであったらしい。
それが、神社に吊るされている旗を借りて行って安産祈願とし(腹帯にしたりもしたそうな)、無事男の子が生まれたら新しい白い旗を、女の子が産まれたら赤い旗をお礼に奉納する、という次第となった。往昔はこの旗が物凄い数奉納されていて、掻き分けながら進まないと賽銭箱にたどり着けなかったそうな。
それほどではないが、旗の奉納は今も行なわれていた。子の名を書いたものもあったので、出産のお礼もまだあるようだが、白旗ばかりだったので男女の別というのは省略されているのかもしれない(ちらっと赤も見えるが)。
次に降雨祈願のこと。これは先に述べた奥にある龍神淵が主体となる。もっともその淵にも姫伝説があり、鉈を落としたら「くだがら(糸巻き)」をくれて、糸が尽きることがなかったなどというので典型的な竜宮淵である。
方法は単純でその龍神淵の水を竹筒にいただいてきて土地に流せば雨が降る、という次第である。五日市や秋川の方からも人が来たという。淵に石を投げ込んで神を怒らせて雨を降らせた、というのもある。全体的にはそうなのであり、いずこも同じの雨乞い作法なのだが、近くの関場から来る際の記録に大変興味深い詳細なやり取りが残されている。これを見て「水をもらって来る」の本来の意味とは何か、について考えが変わりつつあるので、これを引いておきたい。

雨が降らない日が続くと、一升瓶に井戸水を入れ、宮尾神社でお参りし、森久保の龍泉寺でお参りした後、醍醐の龍神淵に行き、拝んでから石を投げ入れた。石を投げ入れるのは龍神を怒らせて雨を降らせるためであった。持ってきた一升瓶を龍神淵に流し、空になった一升瓶に龍神淵の水を入れて持ち帰る。

『新八王子市史民俗調査報告書 恩方の民俗』より引用

そして、もらってきた龍神淵の水を関場の水場に流すのだが、そうして雨が降ったら「その雨水をまた瓶につめて龍神淵へ行ってお礼に流した」という。まぁ、実際にはその頃にはみんな酔っぱらっちゃっているので、途中までしか行かないで流しちゃったそうだが(笑)。

いずれにしても、ただ水をもらってくるのではないのだ。土地の水を龍神淵へ運んで流し、今度は龍神淵の水を土地へ運んで流し、さらにそれによってもたらされた新しい水(雨水となっているが)をまた龍神淵に運んで流す。こういった二重三重の「土地の水と龍神淵の水の結びつきの更新」をしている。あたしはこの水のやり取りは「水筋を引き直す」という呪術であると思う。降雨祈願は本来また別の話なのではないか(実際、水のやり取りとは別に淵に石を投げ込んでいる)。
今まで大山でも箱根でも「水をいただいて来る」というのは、強勢な龍神(水神)の水気をもらってきて土地に流すとそれが呼び水となって雨が降る、ということだと思っていたが(実際どこもそういう感覚ではあるのだが)、これに付随する「水をもらった帰りに途中で休んでしまうとそこに雨が降ってしまう」というのが気になっていた。この次第はどこもそうで、距離がある里では駅伝制で水をリレーしたりもしていた。これまでも繰り返し紹介したのでおなじみではありますな。
しかし、あたしは「休んだところに雨が降る」というのがイマイチ納得できなかったのだ。これが水をもらって帰ってくる人が、水筋が引き直されるその新たで強勢な水筋の代役であるのだとしたら、途中で止まってはいけない、という強力な規制の意味が非常によく分かる。
そして、そうであるならば、この次第が竜蛇伝承が時として非常に強く語ることになる水利権の問題と結びつくものでもあると了解することができる。雨雲に所有権も何もないので、雨乞いと水利権というのはイマイチ結びつかなかったのだが、水筋を引き直すということであればそれは結びつく。

と、龍蔵神社前の木橋から醍醐川の流れる先を眺めつつ、この流れが関場に行ってるわけで(というかそれに沿って歩いてきたわけで)、雨乞いも蜂の頭もないだろうに……と思っているうちに「あっ!」となったのでありました。上の報告読んだ段階で思えよ、という感じではあるが(笑)。
そんな強力なヒントを教えて下さいました龍蔵神社さまでありました。まだ色々面白い話があるので、あと少しおまけで紹介しておこう。

雨乞いのお礼参りだが、遠方の人はお礼参りに紅白の餅を持ってきて龍神淵に沈めるものだったという。で、醍醐の子どもたちはこれを狙っており、人が去ると竹槍で餅を刺して取り、焼いて食べるのが楽しみだったそうな。水でふやけてちょうど具合が良かったという(笑)。

また、ここ醍醐は武田の兵たちが武田滅亡後に隠れ住まった土地だともいう。故に龍蔵神社には武田の参謀格でなければ所持できなかったという「ムカデ鍔」の刀剣が奉納されているそうな。この里には鷄の禁忌があるのだが、その理由が明快で、そのような隠棲の里故に鷄が鳴くと人家があるのがバレてしまうから禁忌なのだという。鷄の禁忌も色々な理由が考えられるが、これはもっとも現実的な理由だろう。
こちらのユニークな狛犬さんは台座に寛政八年の銘がある。結構古い。講中による奉納とあるのでそのころから講があったのだろう。

さらにメモとして織物に関することも。先に龍神淵の姫が尽きぬ糸巻きをくれた、などとあるように機織りとも関係があったと思われるのだが、下手の降宿(ふるしゅく)の方では絹織りだけでなく「タホ(太布)」というフジ布が織られていた、という伝承もあるそうな。もっとも養蚕も織物も今は過去の話なので痕跡もよく分からなかったけれど。恩方はまた、今和次郎・竹内芳太郎先生が「養蚕技術の変遷に伴ふ家屋の変化」の報告をされた土地でもある故になんか見えんかと思っていたのだけれど、もっと里ごとに踏み入ってみないと分からないようだ。

降宿の住吉神社のこと、おわり

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あ、その降宿の方の鎮守さんが「住吉神社」さんなのだけれど、おそらく写真の日のあたっている山の麓にある。川渡ってひょい、という位置には見えず、多分山腹を辿って行くのだろう。この時間から山に入ったら通報されそうなので(笑)、今回は見送りで。記録上は龍蔵神社に合祀されたままなのかもしれないが、例によって厄が巻き起こったというので、もうかなり昔(昭和五年とも)に降宿の青年が背負って帰ったという。この峰は案下の方に越える「真峰嶺(まみね)峠」といい、真峰嶺明神ともっぱらにいったそうな。
そんなこんなで関場に下りてきますとすっかり日も落ちて。右が醍醐の方、左が陣馬街道・案下道の続きですな。いや、天気がよすぎて「夕焼け小焼け」にならなかったぞなもし。

といった八王子・連でありました。んが、八王子というのも広うございまして、大仰な話となる八王子城・滝山城・高尾山・今熊・市街などは軒並みノータッチでこれですよ(笑)。市街の横山の方はちらと訪れたが。さらに多摩といったら気が遠くなるのであります。

補遺:中将姫と幡が飛ぶ話

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補遺:中将姫と幡が飛ぶ話
中将姫の話は、奈良当麻寺の曼荼羅縁起として、鎌倉時代から室町時代にかけて形成されたものだが、これが縁起のうちにとどまらず、あるいは御伽草子として、あるいは謡曲として、あるいは説経浄瑠璃として、と様々に展開して広く世に知られることになった。もともとは中将姫という名もなく、単に信仰の篤い姫の前に仏が示顕してもたらした曼荼羅が当麻寺にある、という話だったのだが、「中将姫」となるに及んで、長谷寺の申し子であるとか、継母にいじめられるのであるとかという中世神話の典型となるモチーフが組込まれて行くことになった。

大まかには当麻寺の曼荼羅縁起である『当麻曼陀羅疏』がこの話の一応の完成形であるとされ、これを引いて御伽草子の『中将姫本地』などが書かれることになるのだが、ここでは原文にあたりやすい『中将姫本地』の筋を見ていきたい(小学館:新編日本古典文学全集63『室町物語草子集』などに収録)。

「中将姫本地」(要約):
奈良に横佩(よこはぎ)右大臣豊成という人がいて、中将姫という姫(娘)がいた。その姫が三歳のとき、母が亡くなり、七歳になってそのことを知った姫が、父に「どんな人でも母の形見と見申し上げ、心を慰めます」といったので、豊成は再婚した。幼くして仏道を厚く信心する姫は継母の言いつけにそむかず良く世話したが、継母は姫を憎み、亡きものとしようとする。姫十三歳のとき、仲間の男に姫の部屋に出入りするふりをさせ、これを豊成に見せ、姫が浅はかな行ないをしていると誹った。豊成は姫の不貞を信じてしまい、武士を召して紀伊国雲雀山で姫の首を刎ねるよう申付けた。武士は承ったが、姫の美しさに打たれ、どうしても首を刎ねることができず、姫の世話を山中の庵の妻に任せると、自らは乞食僧となり出家入道した。
姫十四歳のとき、この武士も死んでしまい、姫は『称賛浄土経』千巻を書写し弔った。姫十五歳のとき、豊成が狩りの折に偶然山中の庵にやって来て、姫と再会した。継母の讒言を信じたことを悔いていた豊成は再び姫を屋敷に招き、人々もよろこんだ。帝から后にとの仰せも下ったが、姫は出家を志していた。豊成に偽りを申して家を出ると、当麻寺へ向い剃髪した。戒名をせんに比丘といった。
ここでせんに比丘は大誓願を起こし、七日のうちに阿弥陀如来の目前に現ぜんことを願った。すると六日目に黄金に輝く化尼が現われ、せんにに極楽の有様を織物にして拝ませようといった。この話は父から帝にも伝わり、当麻寺には蓮の茎が百二十駄ほど届けられた。化尼とせんには一緒に蓮の糸を手繰り寄せ、寺の北の隅にひとつの井を掘り、これに糸を浸すと、糸は五色・八色・無数の色に染まった。そこでその池を染野池という。または光野池ともいう。
同じ日に今度は十七、八の天女のような人が現われ、北西の機織り機で縦横一丈五尺の曼荼羅を織り、化尼と化女が、この曼荼羅の絵解きの説法をされた。せんにが化尼と化女にどなたかと問うと、化尼は自分は阿弥陀如来であり、左の一番弟子、観音菩薩に曼荼羅を織らせたのだと仰った。

小学館『室町物語草子集』「中将姫本地」より要約

この十三年後に中将姫は亡くなり、早来迎の場面が語られたりするが、そのように話は終わる。『中将姫本地』であるのに実は本地ものにはなっていない。中将姫が後に「○○観音」として示顕された、となるのが完成形だったのじゃないかと思うが(さよひめが竹生島の弁天として示顕するように)。
なお、本来一番重要なところは省略した化尼と化女が曼荼羅の絵解きを説法するところである。というよりも、その曼荼羅の解説をすることが目的で出来上がっていったのが、この中将姫の物語なのだ。
『当麻曼陀羅疏』の方では冒頭、豊成夫妻には子ができなかったので長谷寺に参籠して姫と男子を得る、という流れになっている。中将姫に弟がいるのだ。そして、山中から戻った姫は帝の寵愛を受けるのだが、弟が死に無常を感じ出家する、という運びとなる。細かな違いは他にも色々あるが、大まかにあとの筋は同じ。逆に近世に下っても色々な派生があり、また再度集大成が図られたりするのだが、その過程では中将姫が竜田川の鳴動を止めたり、継母が最後は大蛇になって襲ってきたりもする。そのようなところはまた折々にということしよう。
基本となる筋で勘違いしやすい点としては、当麻曼荼羅は「中将姫が織ったのではない」という点があるだろう。織るのは化女(観音菩薩)である。全国に当麻曼荼羅のコピーがたくさん広まり、またその縁起が語られる上で「中将姫の織った曼荼羅」となるのだが、もとはちょっと違うのだ。もっとも、中将姫が死後、例えば「機織観音として示顕された」とかいうように本地ものとして「ちゃんと」終わっていたら、化女と中将姫が同一化して問題なくなっていたのであり、実質はそういう形で信仰が広まっているのだともいえる。

さて、そしてこの中将姫にまつわる伝説が各地にあり、相模にもある。これが本題だ。特に、いま秦野市の鶴巻温泉というあたりは昔は落幡といい、相模のこの伝説の流れの焦点であった。ここ落幡を中心とする伝説群で特徴的なところは、それが「飛ぶ幡の伝説」でもあることだ。大筋を見てみよう。

中将姫の織った幡が白幡神社から飛び出して飛んでいた。善波太郎が弓で射ようとしたが、足場が悪くて一旦やめたところを弓不引(ゆみひかず)という。射落とされた幡は今西光寺のある場所にあった大松にかかった。こうして幡が落ちたところなので落幡という。また、幡についていた鈴が落ちた川を鈴川という。

『秦野市史 別巻 民俗』より要約

善波太郎は落幡北方にいたという伝説的な強力の武士(今回説明は割愛)。周辺色々な類話があり、弓で射落とすのでなく、幡を追う中将姫が石を投げて落としたり(これも石打という地名の説明になっている)というものもある。そして、地元ではさらにこのようにいう。

日向薬師の国宝になっている、中将姫が織られた蓮の曼陀羅が、落幡へ落ちたんだと言っているんです。私のひいひいばあさんになるのかね、そのばあさんの実家が西光寺のそばにあって、その家で保管していたらしいんです。それが、その兄さんのときかなにか、日向薬師さんの開帳の日に、カギを持ってその曼陀羅を開けに行く、それがわずらわしいというので、その後、日向薬師に預けちゃったんだろうと、私の父が良く言ってたんですよ。西光寺は幡松院って山号だから、こういったことから起っているんじゃないかな。

『秦野市史 別巻 民俗』より引用

ちなみに「国宝」ということはないし、多分今はもう日向薬師に曼荼羅はないのじゃないかと思う。ともかく、このように落幡に中将姫の幡・曼荼羅が飛んでくるのだ。で、これがどこから飛んできたんだという話なのだが、これが一様でない。
『秦野市史研究15』に「幡が飛ぶ伝説をめぐって」という調査報告があり、ここでは神奈川県横浜市戸塚区舞岡と山梨県都留市に「幡が飛んで、秦野の落幡に落ちた」の伝があると紹介されている。戸塚の舞岡は舞岡八幡宮の縁起であり、昔は腰村といったが、白幡が空に舞ったので舞岡と改めたという。または、義貞鎌倉攻めのとき、源氏の白旗が舞い降りたともいう。その幡は舞岡西方三〇粁の落幡村に落ちたということだ。

都留の幡神社とは都留市大幡の「機神社(左地図)」のことだと思うが、長さ三十三尋の幡が幡野山上に舞い降りたのを八幡と祀ったという。また、その幡についていた鈴がひとつ落ちたところが朝日久保・朝日馬場(大月市)のあたりだといい、幡が飛んでこえた峠を鈴ガ音峠というという。鈴が地名の由来として重要なのも落幡・鈴川に同じだ。
この社(現・機神社)が火災にあった際に、幡は自ら飛び出し相模国日向薬師にとどまったのだという(『甲斐国志』)。ともかくこのように北から東から幡は飛んで落幡にやって来るのだ。しかし、どうもこれらを見ると「中将姫の曼荼羅」とはいっておらず、源氏の幡のようではある。

で、さらに先の調査報告にない「幡が飛ぶ」伝説を伝えているところがある。神奈川県愛甲郡愛川町の「八菅神社(左地図)」だ。日本武尊縁の修験色の強い社だが、この社地のある小地名を「幡」といい、近くに幡が舞い降りたと伝える「幡の坂」の地名も残る。ちょっと東は相模原市「当麻」でもある。ここでは昔、中将姫が蓮の糸で織った幡が一りゅう(津久井の方から来て)天空よりこの坂に舞い降り、これを修験者たちが不吉として一山総出で祈願したところ、幡は一度舞い上がり宮村にまた落ち、三七日の間毎翻っていたが、やがて西の方へ飛び去り、秦野で善波太郎に射落とされ云々、となる。
中将姫の幡、といっているのだが、あるいはこれも日向薬師の開帳が行なわれるようになって以降そうなったのかもしれない。古くは文化年間の『八菅山略縁起』に次のようにあるという。
「霊亀二丙辰年八丈八手の幢幡都卒天より降臨て三七日翻りたり。時に蓬髪の山神現れて告ていはく(有神託は一偈秘密故不記之)依て空中に飛去。此の地を今に幡の坂といへり」だそうな(愛川町文化財調査報告書第14集『あいかわの地名─中津地区─』より)。肝腎なところが秘伝なのだが、あまり中将姫伝説のようではないのは分かる。

最終的に文物が行きつく先となる日向薬師には、什宝として「三十三尋ノ幡」と「中将姫自ら縫うところの曼荼羅一幅」と両方があったというので、困ったことである。「三十三尋ノ幡」は神亀二年に天より降った幡を貞治三年足利基氏が寄納したともある(『新編相模國風土記稿』)。
ここに、今回さらに八王子市西寺方町の小字大幡の大幡山宝生寺から高幡不動を経由して落幡へと飛んだ幡の伝説が加わったわけであります。図にすると左のようになる。さらに細々と護良親王伝説や将門伝説と一部経路が一致したりなんだりと面白い面が多々あるのだが、ひとまずはこのあたりで良いだろう。一体これらの話が何を繋ごうとしたのか、何を語ろうとしていたのか、そういった課題があるわけです。

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多摩行:八王子・連 2013.04.13

惰竜抄: