師長行:小田原
庫部:惰竜抄:twitterまとめ:2013.04.20
神奈川県小田原市は曽我という土地からの神社巡りであります。曽我原・曽我谷津・曽我別所……などと分れていて単独で「曽我」という地区名はないのだけれどね。平末鎌初にこの土地を曽我氏が領していまして、伊豆伊東氏の河津氏に生まれた兄弟がやって来たのが「曽我兄弟」であります。実母の満江御前が曽我氏の曽我太郎祐信(すけのぶ)と再婚したのですな。というわけで、あの曽我兄弟(の主に兄十郎)が育ったのがこの曽我の里。 今回はその曽我十郎祐成(すけなり)が大磯の虎女のもとへ行くために良く辿ったという峠越えの道を(無論毎度のことながらあちこち寄り道しつつ)行ってみようと、こういう感じですな。曽我兄弟の話がどこまで説明を要するものなのか、もはやあたしにはよく分からないので、概要はWikipediaなど参照して下され。 ▶「曽我兄弟の仇討ち」(Wikipedia) |
城前寺
ということで御殿場線下曽我駅で下りまして、駅前曽我兄弟であります(本当は国府津から色々寄りつつ歩いてくるつもりだったが、思ったより天気が悪いので主要部分最優先ということにシフト)。 | |
そしてまず参りますは、曽我氏の菩提寺「城前寺」であります。保育園と並んで意外とこじんまりとしたお寺。ここは曽我谷津という土地になります。 | |
兄弟が仇討ちの際、傘に火をつけて松明として乗り込んだという故事にちなんで、命日に傘を燃やす「曽我の傘焼まつり」が行なわれてきたのだが、負担が大きいということで縮小傾向にあるようであります。
▶「曽我の傘焼まつり」(カナロコ) 何とかしましょう、小田原市。 曽我氏の館前にあったということで城前寺というのだが、正式名は「稲荷山祐信院城前寺」という。で、伊東氏は「祐(すけ)」の一字を代々引くのだが、兄弟の義父となった曽我祐信もまたそうなのはなんでだ、という問題がある。そして、伊東氏の守護神は稲荷なのだ。伊東の式内:葛見神社も伊東氏の守護社となって以降は稲荷である。城前寺が「稲荷山」なのも連なるのではないか。あたしはそもそも伊東氏と曽我氏は兄弟の件以前から深く関係した姻族だったのじゃないかと考えている。「曽我の稲荷」というのも要注目案件なのだ。 |
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その裏手に兄弟と義父・祐信と母・満江御前を弔う墓が。墓、といっても実際ここに遺体が葬られたということではないので慰霊塔というところだが。 | |
向って左側が兄弟の塔かしらね。塚のようになっているが、これは曽我館の土塁の一部であるのだそうな。 | |
ところで「忍石(後述)」のひとつがあったはずなんだが……これは違うよな。あれ? | |
墓域の脇には「見送り稲荷」なるお稲荷さんが。なんでしょね。委細不明であります。 |
宗我神社
宗我神社の稲荷とシャチガミ
シャチ:
実態はわからないが、海上でシャチ(サチガメ)に出会うことも吉で、拾い上げて持ち帰り家で祀るとされている。シャチというのは茶褐色で尾が平べったく海蛇のような生き物だという。実際にこれを見つけて取り、家のエビス様に供えて祭り、その後しばらくして鬼子母神に納めて八大龍王と一緒に祀ってもらったという人がいる。
また、別の人は不漁続きのときに旅のロクブ(六部)を泊めたら、その後は大漁になった。船霊様のところを見たら不思議なものが丸まっていたので、祈禱などをする人にみてもらったらシャチガミだといわれた。蛇のように尻尾が平べったく頭に宝珠が二つある生き物で、縁起ものとして飼い続け、死んでしまった後も供養を続けているという。
大磯の竜宮神(リューゴンサン)が、かつて蛇にとぐろを巻かせた像を御神体として祀っていたということも度々紹介してきた。で、これはやはりセグロ海蛇の剥製であり、それがシャチガミそのものであるということがその後分かっている。ものとしてはもう出雲の竜蛇様とまったく同じようなものである。 あたしはこの「不思議なものが丸まっていた」と表現されるシャチガミが先の稲荷の宝珠のトグロに極めて近いように思う(実際今大磯のシャチガミさんは透明のプラスティックのボールの中に納まっているのだが)。となるとこの稲荷は漁師の稲荷なのかどうかという点が問題となるのだが、今はただ稲荷神社とあるだけなのだが『新編風土記』には同地に「近津稲荷」があると表記されている。それがこの稲荷であったら、海の稲荷である可能性は高い。 もしここに繋がりがあるようなら、竜蛇様のようなシャチガミと稲荷宝珠の間に近いものがあるという感覚がこの土地にあった、ということになるだろう。こういう連絡がある可能性があるので、あたしはこのお狐さん像に注目しているのだ。 |
小澤薬師堂
宗我神社のすぐ東の方に曽我谷津公民館があって、その脇に「小沢明神薬師堂旧地」がある(薬師像そのものは現在北側の法輪寺に安置されているそうな)。 | |
以前縁のロッキーさん(twitter:@rockymonky)から宗我神社近くには小澤薬師堂があって、実際小澤氏がおり、その小澤氏との縁があるようなのだと教わった薬師さんであります。で、それが「小澤大明神」であった宗我神社とどう関係するのだ、というのを調べにきたのだけれど、「小沢明神薬師堂」であり、まごうことなく小澤大明神の本地仏が薬師であるということのようだ。解説によると「小沢山神宮寺」と称していたとある。 簡単にこれまでの経緯を解説すると、小田原の東町に単立の小さな戎神社があり、壬申の乱の大友皇子の従者が流れてきて、皇子を戎と隠れ祀っていた、その人が「小澤某」であるという伝がまずそこにある。で、当初よりこの話が曽我の小澤大明神と関係せんのかな、とあたしは睨んでいたわけで、この線にまつわるあれこれを調べてもいるのだ。 ここではこれまでだったが、謎の神・小澤大明神は薬師を本地仏とする神であった、ということははっきりした。実は、その小澤氏が曽我の隣大友の地でやはり大友皇子の話を伝えていたらしいことも分かってきているのだが、それはまたそちらの方で。 |
国府津丘陵と宝篋印塔
六本松と忍石
風外窟
「さあ知りませんね」とお婆さんが答へる。二三回尋ねたが、わからない。とある下駄屋に寄つて聽くと、其家の主人は、かういふ事に趣味があると見えて、「それは、田島分ですよ。もつと、下の方です。私も一度風外窟を見たいと思つてますから、一緒に參りませう」とのことで、私共は又來合はした乘合で、田島村役場の前で下車した。
ということで窟は田島という土地にあるのだ。昔はそのあたりも広く曽我といっていたので風外は「曽我の山中に穴居し……」と書かれまた語られているのだが、曽我の中心部よりは田島は南東の方になる。そして一行は田島の役所へ行き、窟に行ったことがあるという巡査某氏の案内で山に入ったという。 | |
まずここで、どうもこの風外窟の正確な位置を示したものがネット上見えなかったので、少し詳しく案内しておこう。松本氏らは南側の麓から登って行ったのだが、あたしは丘陵越えの行程を外れて北側上から下りてきた。まぁ、最終的な位置は同じである。全体的なマップは左地図参照。北側の線の開始あたりにある大きな道のトンネル脇から農道に入る。 | |
そして南南東の方へと進むと親切なことに標識がある。田島の地元有志の方が色々がんばってくれているのですな(後述)。でもナニを意味しているですかね、この標識は(笑)。 | |
そこを折れて南西側に進むと、何もなかったら入って良いのか分からんようなさらに狭い農道へと分岐するのだけれど、ここにも標識があるので大丈夫。 | |
これを上から来るとUターンするように谷底の方へと下って行きますと、写真のような樹々の中に突入して行くようになるのでありますが、オソレズススム。その森を抜けますと少し拓けた窪地があって(風外窪という)、到着。 はっきり言ってここで「ギャー!」と叫んでも誰にもとどくまい、という土地だが(地図を航空写真にしてみよう)、先にも述べたように地元有志の方が最近紹介に尽力されているので、道行きの案内などはこのようにあるのだ。 ▶「「風外窟」次代へ伝承」(カナロコ) |
山路は嶮しかつた。眞鶴の急坂に慣れた私でさへ、息切れがした。登るにつれて、眼界は廣がる。眼下には耕地がつらなり、西には、箱根山脈の上に富士の高峯が、其優姿を見せてゐる。洋々たる海を控へて、眞鶴岬の鬱蒼たる森林が見える。風外が此田島の山窟から、眞鶴に移住したのは、毎日美しい眞鶴岬の景色を眺めてゐたので、自然に誘惑されたのであらう。
所謂風外窪に着いた。山あひの盆地で、今は大半蜜柑畑になつてゐて、二三人の農夫が鍬を入れてゐる。水源地と見えて、小さい水の流れがさゝやかな音を立てゝゐる。第一の穴は小さく、屈んで入れる位の穴だが、その中を覗くと、湧水が光つてゐる。これは多分風外が毎日掬つて飮んでゐた水であらう。
水が湧き出している第一の穴というのは分からなかったが、全体的に写真のように山腹ながら谷底であって水っぽいところであります。先の「田島歴史同志会」さんがいろいろと解説などを置かれている。 |
(風外は)此三つを常に使用したらしい。風外の傳記に、寒暖處を異にすると書いてあるのは、此三つの洞穴を、雨や風の方向に依つて交互したことを意味するのであらう。
現在小石が澤山置いてあるが、それは此洞穴の小石を拾つてゆくと、病氣が癒るといふので、今でもいただきに來る者が多い。病氣が全快すると、石を二つにして返へすのだといふ。
ということなのだ。自慢だが「あるとしたら曽我の方か?」といってますね、オレ、えぇ、いっていますとも(笑)。
ちなみに有名になってしまって来客の絶えなくなった風外は托鉢もできなくなってしまい、仕方なく画を書いて米と交換する方式としたそうな。そんななので田島の里には風外の画を所蔵している家が沢山あったという(昭和六年あたりの話)。んが、その後これをコレクションした人がおって、今田島には風外の画はほとんどない。そのコレクションは平塚市博物館にある。 ▶「風外慧薫墨画・墨蹟」(ひらつか) |
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ともかく、このように予想したなら調べろよ、と調べにきた風外窟なのでありました。しかし、これはここから先の重要な問題に接続して行く。また後でこの地の横穴古墳の話が出てくるので、そちらで見ていこう。 |
王子神社
沼代弁天
道行き
明神神社
秋葉神社
中村川(押切川)近くまで下ってきますと「小竹」という土地になり、中井町の中村(中村党の本拠)の入り口のようなところとなる。そこに「秋葉神社」さんが。ていうかこれは…… | |
いや難しいですねぇ。明らかに焼却炉として転用されているが、鳥居脇に三穴開口していてその間隔は横穴古墳に相違ないという感じ。ここ小竹には国指定無形民俗文化財の「相模人形芝居下中座」という人形芝居があるのだが、禁令が出たときはこのような横穴に隠れて練習したと伝わる。
▶「相模人形芝居下中座」(小田原市) いや狭すぎて練習できねえだろ、という気もするが。ともかくそのくらい横穴は活用されてきたので、もとは何だったかが難しい。『新編風土記』にも「洞 所々山址にあり、何れも三四間より四五間に至る、鎌倉の方言に、矢倉と云る類なり、中に寺穴と呼べるものあり、洞中に墳墓あり、洞口に扉を設けし跡など見ゆ」とある。山西村とって小竹から中村川を渡ったところの記述だが、大磯の方同様信仰対象でもあっただろう。 |
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そんな横穴の連なる小さな高台の上に秋葉神社さんはある。植え込みなど凝って造作されていて、管理されている方がお庭感覚で手入れされているのだろう。実に「里の神さま」というスバラシイ感じだ。とはいえ、こちらも一応法人社なのだけれど、詳しいことは何も分からない。昔大火事があったので秋葉さんを祀ったのだと土地の人はいう。んが、あたしはちょっと違う次第もあるのじゃないかと少し考えている。 |
八坂神社
白髭神社
小竹から川沿いに下って小船の「白髭神社」。白鬚と書く場合もある。「十郎ルート」は沼代からここへ下りてきて、川匂神社の方へと向う。ここの白髭さんのことは既に紹介しましたな。
▶「白髭神社」(このページ下から) まとめろよ、という話だが……orz |
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とはいえ参拝は数年ぶりでして、こうして見ると以前は見えてなかったところも。まず社頭だが、このようにイチョウの木が注連柱状に植えられている神社さんだったのだ。もう、代表例としても良いくらいの感じである。 | |
また、紹介でも触れたこの富士講の石造物だが、やはりかなり重要なものだ。小田原市では最古の富士講の石造物となるらしい。 | |
よくよく見ると狛犬どのも、かなり大胆なお顔をしておられる。くわっと。 | |
さらにですな。あたしはこの日まで鳥居脇にこうして道祖神さんとかあるのに気がついていなかったですな。そんなもんなのよね〜(TT)。石臼を前にしたここまでに見た石臼奉納文化をよく示す一品だというのに。 |
護良親王の話
常陸行の方で見かけて馬頭観音だけでなく牛頭観音というのもあるのだ、と感心していたが、こうして地元エリアにもひょっこりとあるのでした……いや、ありますねぇ(笑)。看脚下。 | |
このあたりは上町というのだが、実は護良親王伝説があるのだ。「大塔稲荷神社」という小さなお稲荷さんがある。で、行って見た感じあまり外の人が来るようなものではないのかな、という感じだったのでそのへんはぼかして、後々の参照のためにメモ程度で。すでに護良親王に関する伝説は各地で幾つか紹介している。
▶淵辺義博の伝説(高座行・相模原) ▶津久井から都留への伝説(愛甲行:津久井) ▶栃木県佐野市の方の伝説(両毛行・佐野) このように色々あるのだが、親王の首代を南の方が京へ運ぼうとした、という話もあり、その経路の平塚や小田原にも伝説の地がある。 ここ上町では南の方がここで出産し亡くなった、という伝があり……というかそのときの子の子孫が大塔家として連綿としているということなのだ。その家が祀るのが大塔稲荷神社であり、今でも年に一度鎌倉宮(大塔宮)に参るのを欠かさないという。本当かどうかということを考えてもあまり意味がないが、ふってわいたというような話ではなく、大塔家は上町の旧家である。平塚の方の話とどう関係するのかというようなところもあり、いずれまた扱うこともあると思うので、メモしておく。 |
羽根尾遺跡