師長行:小田原

庫部:惰竜抄:twitterまとめ:2013.04.20

神奈川県小田原市は曽我という土地からの神社巡りであります。曽我原・曽我谷津・曽我別所……などと分れていて単独で「曽我」という地区名はないのだけれどね。平末鎌初にこの土地を曽我氏が領していまして、伊豆伊東氏の河津氏に生まれた兄弟がやって来たのが「曽我兄弟」であります。実母の満江御前が曽我氏の曽我太郎祐信(すけのぶ)と再婚したのですな。というわけで、あの曽我兄弟(の主に兄十郎)が育ったのがこの曽我の里。
今回はその曽我十郎祐成(すけなり)が大磯の虎女のもとへ行くために良く辿ったという峠越えの道を(無論毎度のことながらあちこち寄り道しつつ)行ってみようと、こういう感じですな。曽我兄弟の話がどこまで説明を要するものなのか、もはやあたしにはよく分からないので、概要はWikipediaなど参照して下され。

▶「曽我兄弟の仇討ち」(Wikipedia)

城前寺

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ということで御殿場線下曽我駅で下りまして、駅前曽我兄弟であります(本当は国府津から色々寄りつつ歩いてくるつもりだったが、思ったより天気が悪いので主要部分最優先ということにシフト)。

そしてまず参りますは、曽我氏の菩提寺「城前寺」であります。保育園と並んで意外とこじんまりとしたお寺。ここは曽我谷津という土地になります。
兄弟が仇討ちの際、傘に火をつけて松明として乗り込んだという故事にちなんで、命日に傘を燃やす「曽我の傘焼まつり」が行なわれてきたのだが、負担が大きいということで縮小傾向にあるようであります。

▶「曽我の傘焼まつり」(カナロコ)

何とかしましょう、小田原市。

曽我氏の館前にあったということで城前寺というのだが、正式名は「稲荷山祐信院城前寺」という。で、伊東氏は「祐(すけ)」の一字を代々引くのだが、兄弟の義父となった曽我祐信もまたそうなのはなんでだ、という問題がある。そして、伊東氏の守護神は稲荷なのだ。伊東の式内:葛見神社も伊東氏の守護社となって以降は稲荷である。城前寺が「稲荷山」なのも連なるのではないか。あたしはそもそも伊東氏と曽我氏は兄弟の件以前から深く関係した姻族だったのじゃないかと考えている。「曽我の稲荷」というのも要注目案件なのだ。
その裏手に兄弟と義父・祐信と母・満江御前を弔う墓が。墓、といっても実際ここに遺体が葬られたということではないので慰霊塔というところだが。
向って左側が兄弟の塔かしらね。塚のようになっているが、これは曽我館の土塁の一部であるのだそうな。
ところで「忍石(後述)」のひとつがあったはずなんだが……これは違うよな。あれ?
墓域の脇には「見送り稲荷」なるお稲荷さんが。なんでしょね。委細不明であります。

宗我神社

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お次は曽我郷惣鎮守の宗我神社へ向うのだけれど、実は駅から城前寺に向う途中にもう一之鳥居がそびえている。
そのまままっすぐ生活道兼参道を行けば「宗我神社」。曽我でなく宗我と書く。社伝では奈良の式内:宗我坐宗我都比古神社の神官だった宗我播磨守保慶なる人が長元元年この地に下って勧請したという。

今は主祭神に宗我都比古之命・宗我都比女之命を祀り、本当だったらあの蘇我氏に縁故もあるということになるが、まぁ、さすがにそれはどうよ、と誰もが思うところであります。『新編風土記』にはここは小澤大明神とあり、宗我と称すのは明治以降のことである。もとはその小澤大明神を中心に祀り、左右に応神天皇(祐信の勧請という)と桓武天皇を配す、という並びだった。
桓武天皇は平氏の祖として後北条氏が小田原城の鬼門方にあたる宗我に祀ったとも、同じ理由で北条より前の大森氏が祀ったともいう。ともかく、曽我の神というのは小澤大明神だったわけだ。それは何の神なんだ、というのが謎なのだが、これはまたあとでも出てくる。
さて、その宗我神社は曽我兄弟とはどう関係するのかというと、実は直接の関係はない。曽我兄弟と義父の祐信を配祀するとかありそうなもんだが、そういう話はない。しかし、本社殿の真後ろの石祠群の中に「御霊社」がある。どれだかもう分からなくなっているのだが、その「祠」は明治十七年頃、曽我原東方の山腹から掘り出され、ここに遷祀されたのだという(『曽我の里』草壁芳村:昭和九年)。建久六年に曽我兄弟の三年忌に祐信と鬼王丸(曽我兄弟の弟・五郎の家臣)が勧請した御霊大権現であると伝わる。
その掘り起こされたところからは人骨や直刀なども出たという話で、すわ曽我兄弟の(本当の)墓ではないかとも騒がれたようだが、今となっては何ともいえない。また『新編風土記』にも五郎を祀る「五郎社」があるとあるが、曽我「五郎」からの御霊神社があったということではあるだろう。
また、縁が深い中村一族の総守護の五所八幡宮や秦野堀之郷正八幡宮も本社殿真後ろに色々祀るのだが、その位置に祖霊社に相当するものを祀るという共通する形態があったのじゃないかともあたしは思っている。

宗我神社の稲荷とシャチガミ

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そしてこの宗我神社に写真のお稲荷さんがある。本社殿に向って右手奥ですな。一見普通のお稲荷さんではある。
これが「宝珠というより蛇ではないのか」と騒いでいた一品を手にかけるお狐さんの像のあるお稲荷さんなのだ。
もとより吉野裕子先生がその著書『狐』(法政大学出版局)などで指摘されたように、稲荷信仰にはどことなく蛇神信仰の影が見える。んが、村里の実物となると容易にあるものではない。ないのだが、ここ曽我から大磯・平塚の方へかけての伝承に面白いものがあるのだ。以前述べたが再掲する。

シャチ:
実態はわからないが、海上でシャチ(サチガメ)に出会うことも吉で、拾い上げて持ち帰り家で祀るとされている。シャチというのは茶褐色で尾が平べったく海蛇のような生き物だという。実際にこれを見つけて取り、家のエビス様に供えて祭り、その後しばらくして鬼子母神に納めて八大龍王と一緒に祀ってもらったという人がいる。
また、別の人は不漁続きのときに旅のロクブ(六部)を泊めたら、その後は大漁になった。船霊様のところを見たら不思議なものが丸まっていたので、祈禱などをする人にみてもらったらシャチガミだといわれた。蛇のように尻尾が平べったく頭に宝珠が二つある生き物で、縁起ものとして飼い続け、死んでしまった後も供養を続けているという。

『平塚市史12 別編民俗』より引用

大磯の竜宮神(リューゴンサン)が、かつて蛇にとぐろを巻かせた像を御神体として祀っていたということも度々紹介してきた。で、これはやはりセグロ海蛇の剥製であり、それがシャチガミそのものであるということがその後分かっている。ものとしてはもう出雲の竜蛇様とまったく同じようなものである。
あたしはこの「不思議なものが丸まっていた」と表現されるシャチガミが先の稲荷の宝珠のトグロに極めて近いように思う(実際今大磯のシャチガミさんは透明のプラスティックのボールの中に納まっているのだが)。となるとこの稲荷は漁師の稲荷なのかどうかという点が問題となるのだが、今はただ稲荷神社とあるだけなのだが『新編風土記』には同地に「近津稲荷」があると表記されている。それがこの稲荷であったら、海の稲荷である可能性は高い。
もしここに繋がりがあるようなら、竜蛇様のようなシャチガミと稲荷宝珠の間に近いものがあるという感覚がこの土地にあった、ということになるだろう。こういう連絡がある可能性があるので、あたしはこのお狐さん像に注目しているのだ。

小澤薬師堂

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宗我神社のすぐ東の方に曽我谷津公民館があって、その脇に「小沢明神薬師堂旧地」がある(薬師像そのものは現在北側の法輪寺に安置されているそうな)。
以前縁のロッキーさん(twitter:@rockymonky)から宗我神社近くには小澤薬師堂があって、実際小澤氏がおり、その小澤氏との縁があるようなのだと教わった薬師さんであります。で、それが「小澤大明神」であった宗我神社とどう関係するのだ、というのを調べにきたのだけれど、「小沢明神薬師堂」であり、まごうことなく小澤大明神の本地仏が薬師であるということのようだ。解説によると「小沢山神宮寺」と称していたとある。

簡単にこれまでの経緯を解説すると、小田原の東町に単立の小さな戎神社があり、壬申の乱の大友皇子の従者が流れてきて、皇子を戎と隠れ祀っていた、その人が「小澤某」であるという伝がまずそこにある。で、当初よりこの話が曽我の小澤大明神と関係せんのかな、とあたしは睨んでいたわけで、この線にまつわるあれこれを調べてもいるのだ。
ここではこれまでだったが、謎の神・小澤大明神は薬師を本地仏とする神であった、ということははっきりした。実は、その小澤氏が曽我の隣大友の地でやはり大友皇子の話を伝えていたらしいことも分かってきているのだが、それはまたそちらの方で。

国府津丘陵と宝篋印塔

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ここから国府津丘陵越えのルートへ。十郎が大磯の虎女のもとへと行くとき通った道というやつですな。足柄平野の東北辺はこのような丘陵がずーっとのびてしきりになっている。
これは航空写真だとよく分かる。おそらくここにある中村党の中村と曽我氏というのはほとんど同族であり、「中村荘」という荘園は曽我を含んだものだったと考えられている。丘陵でしきられているのに繋がっている土地なのだ。
登りつつ振り返る足柄平野。彼方の山塊が箱根から真鶴。天気があれだが、好天だと絶景。

この登る途中、丁度先の景色を見るような斜面に「曽我祐信宝篋印塔」がある。市指定重文。銘がないので実際なんであるのかは一切不明なのだが、地元で「祐信さんの供養塔」と伝わってきた。二メートルをこえ、鎌倉のある神奈川県で県下屈指の宝篋印塔というのだから大したものであるのは間違いなく、誰のものかといったら曽我氏のものとしか考えられなくはあるだろう。また、里人は「祐信さん」に曽我の里を一望し続けて欲しかった、ということでもあるだろう。

六本松と忍石

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そのまま登って尾根の天辺につくと、農道が複雑に交差しているが、ここを「六本松」という。この尾根越えの道の標識としてかつて大きな松が六本あったそうな。今はないが、幕末にはまだ大松が一本あったらしい。『新編風土記』にも「是は舊き世よりの路にて……」とあり、『曽我物語』に語られる道なのだとある。峠自体は山彦山というそうな。ともかく曽我と中村を行き来するための大変古くからの道に相違ない。というより相模の海側ルートの主要道であったかもしれない。
そして、六本松から少し北に行ったところに「忍石」という石が祀られている。先に城前寺にもあるはずだが、といっていたやつですな。
かつてはここに「姥石・姫石」の二つの石があったそうな。その片方を城前寺に運んだという。仇討ちに発つ十郎が、虎女を曽我から大磯へ送る際、ここで分れたという伝承の場所。また、虎女を大磯へ送る満江御前と二人が腰掛けたので姥石・姫石なのだともいうが、いずれにしてもこれも「虎御前石」のひとつといって良いだろう。さらに、大磯まで行かない夜も十郎はここまで来て笛を吹いていたといい、かつてその笛が「忍の笛」として伝わっていたともいう。
ここはもう写真の二宮・大磯を望む斜面なので、その「忍の笛」の話が一番しっくりくるかねぇ。まぁ、このように曽我兄弟といっても兄・十郎の方は貴公子っぽい面持ちなのですよ。力自慢の豪傑は弟の五郎の方。

風外窟

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六本松からは一旦「十郎ルート」を外れまして、また少し足柄平野の方へと下って行くのであります。天然藤飾り。下った田島というところに「風外窟」という洞穴群があるのですな。そこへ行ったのであります。
風外とは江戸初期の禅僧、風外慧薫のこと。上野國に生まれ、曹洞禅に学び、後に臨済禅も学んだというが、若いころのことはよく分からない。乞われて今の小田原市成田の成願寺の住職となったというが、これがなぜかその東の曽我(田島)山中の穴住まいをはじめてしまう。成願寺には風外のことは正式な記録になく、代々口伝で伝わってきたというので、もとより住職にというよりも客分のようなものだったのかもしれない。ともかくそのように山中穴住まいで托鉢をして暮らす風外というお坊さまがいたのだ。
しかし、そういった僧が相模にいるという話が広まると、今達磨だなんだと参詣しようという人が多く訪れるようになり、これをうるさがった風外は真鶴へと去ってしまった。この風外が穴居したという場所が「風外窟」だ。

風外は書画をよくし、特に達磨や布袋の絵などで有名だが、真鶴や小田原の人は変わったお坊さん「風外さん」のことは良く語り継いでいても、そんな有名な人だったとは思っていなかった。これが昭和になった頃、真鶴の組合長だった松本赳(雲舟)さんという人が人名事典などにも「風外さん」が載っていることを知り「そんな偉い坊さんだったのか!」とびっくりして調査し、以降文物なども保護されるようになっていった。 このようなことなので、この松本赳氏の調査をまとめた『奇僧 風外道人』(昭和七年)に書かれた当時の調査の様子を引きながら、この窟を見ていこう。氏は窟の調査に曽我に赴き、道行く婆ちゃんなどに坊さんが居った窟がないかと訊ねてみるのだが……

「さあ知りませんね」とお婆さんが答へる。二三回尋ねたが、わからない。とある下駄屋に寄つて聽くと、其家の主人は、かういふ事に趣味があると見えて、「それは、田島分ですよ。もつと、下の方です。私も一度風外窟を見たいと思つてますから、一緒に參りませう」とのことで、私共は又來合はした乘合で、田島村役場の前で下車した。

松本雲舟『奇僧 風外道人』より引用

ということで窟は田島という土地にあるのだ。昔はそのあたりも広く曽我といっていたので風外は「曽我の山中に穴居し……」と書かれまた語られているのだが、曽我の中心部よりは田島は南東の方になる。そして一行は田島の役所へ行き、窟に行ったことがあるという巡査某氏の案内で山に入ったという。

まずここで、どうもこの風外窟の正確な位置を示したものがネット上見えなかったので、少し詳しく案内しておこう。松本氏らは南側の麓から登って行ったのだが、あたしは丘陵越えの行程を外れて北側上から下りてきた。まぁ、最終的な位置は同じである。全体的なマップは左地図参照。北側の線の開始あたりにある大きな道のトンネル脇から農道に入る。

そして南南東の方へと進むと親切なことに標識がある。田島の地元有志の方が色々がんばってくれているのですな(後述)。でもナニを意味しているですかね、この標識は(笑)。

そこを折れて南西側に進むと、何もなかったら入って良いのか分からんようなさらに狭い農道へと分岐するのだけれど、ここにも標識があるので大丈夫。
これを上から来るとUターンするように谷底の方へと下って行きますと、写真のような樹々の中に突入して行くようになるのでありますが、オソレズススム。その森を抜けますと少し拓けた窪地があって(風外窪という)、到着。
はっきり言ってここで「ギャー!」と叫んでも誰にもとどくまい、という土地だが(地図を航空写真にしてみよう)、先にも述べたように地元有志の方が最近紹介に尽力されているので、道行きの案内などはこのようにあるのだ。

▶「「風外窟」次代へ伝承」(カナロコ)

山路は嶮しかつた。眞鶴の急坂に慣れた私でさへ、息切れがした。登るにつれて、眼界は廣がる。眼下には耕地がつらなり、西には、箱根山脈の上に富士の高峯が、其優姿を見せてゐる。洋々たる海を控へて、眞鶴岬の鬱蒼たる森林が見える。風外が此田島の山窟から、眞鶴に移住したのは、毎日美しい眞鶴岬の景色を眺めてゐたので、自然に誘惑されたのであらう。
所謂風外窪に着いた。山あひの盆地で、今は大半蜜柑畑になつてゐて、二三人の農夫が鍬を入れてゐる。水源地と見えて、小さい水の流れがさゝやかな音を立てゝゐる。第一の穴は小さく、屈んで入れる位の穴だが、その中を覗くと、湧水が光つてゐる。これは多分風外が毎日掬つて飮んでゐた水であらう。

松本雲舟『奇僧 風外道人』より引用

水が湧き出している第一の穴というのは分からなかったが、全体的に写真のように山腹ながら谷底であって水っぽいところであります。先の「田島歴史同志会」さんがいろいろと解説などを置かれている。

(風外は)此三つを常に使用したらしい。風外の傳記に、寒暖處を異にすると書いてあるのは、此三つの洞穴を、雨や風の方向に依つて交互したことを意味するのであらう。

松本雲舟『奇僧 風外道人』より引用

この三つの穴がそうだろう。当時は中に煮炊きのあとも残っていたそうな。ところで見てお分かりのように、この窟というのはつまり横穴古墳である。田島の麓の方には「田島弁天山横穴墓群」もある。七世紀中盤以降のものですな。
そしてここに来た主目的となるのが、この三穴の上段にある七号穴だ(写真右側)。
今年のはじめに墨田区向島の弘福寺にある風外作の「咳の爺婆尊」の像が風邪除けになっているとニュースになっているのを見て、こっちでそういうのは聞かんなぁ、あるとすりゃ曽我かな、とかいっていたのが発端だったわけです。これがやはり風外窟にあるようだ、というのがここなのですな。

現在小石が澤山置いてあるが、それは此洞穴の小石を拾つてゆくと、病氣が癒るといふので、今でもいただきに來る者が多い。病氣が全快すると、石を二つにして返へすのだといふ。

松本雲舟『奇僧 風外道人』より引用

ということなのだ。自慢だが「あるとしたら曽我の方か?」といってますね、オレ、えぇ、いっていますとも(笑)。

ちなみに有名になってしまって来客の絶えなくなった風外は托鉢もできなくなってしまい、仕方なく画を書いて米と交換する方式としたそうな。そんななので田島の里には風外の画を所蔵している家が沢山あったという(昭和六年あたりの話)。んが、その後これをコレクションした人がおって、今田島には風外の画はほとんどない。そのコレクションは平塚市博物館にある。

▶「風外慧薫墨画・墨蹟」(ひらつか)
ともかく、このように予想したなら調べろよ、と調べにきた風外窟なのでありました。しかし、これはここから先の重要な問題に接続して行く。また後でこの地の横穴古墳の話が出てくるので、そちらで見ていこう。

王子神社

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風外窟からまた登って丘陵をこえまして、十郎ルートに戻る。十郎は六本杉からは沼代という土地を抜けて白鬚神社に下ったと思われる。古めかしい供養塔などが見えてきますな。

その沼代の鎮守さんが「王子神社」。昔は若一王子社といった。なので熊野の若一王子だと思うのだが、通例の十一面観音を祀るのでなく、『新編風土記』には「地蔵弥陀観音の三体を神体とす」とある。
要は「にゃくいちさん」なのだが、現在は伊弉冊尊一柱を御祭神とする。大雑把に熊野さん、という感じなんかね。宝徳元年勧請の棟札があったそうで、同沼代の吉祥院(別当か)なども室町中期の開基というので、一連の整備かもしれない。
お舟にのったような狛どの。結構凛々しいですな。
境内脇に何とも目をひく石造物が。神さま?仏さま?
かつてはもっと太い樫の御神木があったというが、今はこちらの大杉が鳥居脇にそびえる。これも『新編風土記』に「杉二」とある一方だろう。小田原市の杉としては最古参となるそうな。
また鳥居前脇にこのような。ガラが積んであるようにも見えるが、よく見ると石臼が結構ある。この先も石臼が沢山出てくる。石臼奉納文化圏なのだ。
しかし国府津丘陵斜面は横穴古墳がたくさんあるのだが、そのように「聖地」と認識されているなら対応する古社があるはずだ、という問題がある。相模二宮・川匂神社がまぁそうなのだが、国府津丘陵というとちと離れる。「国府津丘陵の上」となるとそれなりの規模のある神社はここ王子神社さんだけだ(海方に近戸神社があるが、これは漁師が伊豆三嶋を勧請したものとはっきりしている)。ナニカな場所である可能性はないんかな、と思ってもいる場所なのです。
なお、王子さんの少し南の方には「桜の馬場」という通りがある。かつては王子さんに奉納する競馬の行なわれた場所だった。中村党がはじめたといい、古い桜の木が列を成している。盛りに来たらすごかったでしょうな。

沼代弁天

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さらに、沼代にはこのような「弁天社」の小社がある。ひゃあ、おっかねえ、という感じ。実はここも『新編風土記』に記載のある社なのだ。王子さんの末社とかになるんかね。「神体 蛇骨」と記載されていて目をひくのだが、地元の方によると鯨の骨に弁天さんを彫ったものであったそうな。今どこにいってしまったのかは知らない。この社内にはないという。
脇にはこうして池もあってですね。アヤシいですね。なんぞ伝説がありそうなところだけれどね「沼代」というのだし。
もっともすぐ前に吉祥院というお寺の大きな池もある。この写真右奥が先の弁天さん。こうした池があるのにさらに弁天脇に池を備えるというのも意味ありげな?

道行き

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そこからは十郎ルートをまた外れて北に。もっとも中村党宗家に行くにはこっちの方行っただろうが。行く道の石祠。何の神さまがおるのかは知らぬが、小石が積まれている。
さらに道行き道祖神さん。ここも小田原です故に標準タイプはこんな双体道祖神さん。ていうかですね、これ「お財布」が置かれてんですけどね。なんと豪儀な。中身があるのかは知らんが(笑)。あるいは落とし物か?
その裏にまた石臼が累々と。あー『小田原市史』には民俗編がねぇのがなーあーあー。小田原の石臼はどういった理由で積まれているのだ。
通り脇の普通の農機具を置く小屋の軒脇なんかにもこのように。西相模は大磯丘陵から国府津丘陵にかけての斜面にこのような横穴がぼこぼことあったのだが、古墳であったものも現代に至るまでに盛大に転用され、「横穴墓転用信仰」とでもいうような文化を築いてきた。鎌倉のやぐらだってもとは横穴古墳の転用だったと思うが、西相模は西相模で色々転用してきたのだ。
大磯では「アナデラサン(穴寺さん)」などというが、神仏はこういう穴に祀るもんだという感覚が一面あったように思う。左の写真もお地蔵さんの穴は古墳ではなく(右は古墳か)、倣って掘ったものだろう。転用だけでなく「そうでないといけない」感覚があったということだ。

明神神社

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このあたりもまだ沼代のうちなのだが、明神神社というところを目指している。すぐ分かる社叢だ。畑が連なる丘上に。
んが、あれ?ここまでこじんまりしたお社じゃなかったはずだが……
と思ったらこれはお稲荷さんでありました。委細不明。天気が悪いのでアヤシいお社な感じに見えているが、中には奉納された歌舞伎絵などが並んでいて、絵に描いたような里のお稲荷さんであります。

その稲荷さんのすぐ裏に「明神神社」さんの参道階段があった。これも先のお稲荷さんが末社とかなんかね。
こちらは単立社で記録もないところだが、天照皇大神を祀るというので『新編風土記』に見る神明社にあたるのだと思われる。んが、なぜ故に神明さんが「明神神社」に名を変えるのかしらね。ここに下って来る谷沿いの小地名を「明沢(あきさわ)」というが、「明」の字を先頭に持ってきたい何かがあるのかね。実は「みょうじん」でなくて「あきのかみ」だとか……いえ、そんな話は聞かないデス(笑)。
境内に石が積まれていた。力石にしては小さい。畑を開墾するのに出た石か。神社に積むものなんかね。まぁ、この辺もどかすと祟る石とかいって畑中に石が残っていたりしたというが。
下る途中の農道名物、不思議立体交差(?)。
東側に下りたところに石仏群が。ここが神社への登り口、ということなんかね。反対の実際登った方には先の穴地蔵さんがあったわけだが。
これが西湘地方のスタンダードな双体道祖神さん。道祖神さんには一円玉が良く似合う。

秋葉神社

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中村川(押切川)近くまで下ってきますと「小竹」という土地になり、中井町の中村(中村党の本拠)の入り口のようなところとなる。そこに「秋葉神社」さんが。ていうかこれは……
いや難しいですねぇ。明らかに焼却炉として転用されているが、鳥居脇に三穴開口していてその間隔は横穴古墳に相違ないという感じ。ここ小竹には国指定無形民俗文化財の「相模人形芝居下中座」という人形芝居があるのだが、禁令が出たときはこのような横穴に隠れて練習したと伝わる。

▶「相模人形芝居下中座」(小田原市)

いや狭すぎて練習できねえだろ、という気もするが。ともかくそのくらい横穴は活用されてきたので、もとは何だったかが難しい。『新編風土記』にも「洞 所々山址にあり、何れも三四間より四五間に至る、鎌倉の方言に、矢倉と云る類なり、中に寺穴と呼べるものあり、洞中に墳墓あり、洞口に扉を設けし跡など見ゆ」とある。山西村とって小竹から中村川を渡ったところの記述だが、大磯の方同様信仰対象でもあっただろう。
そんな横穴の連なる小さな高台の上に秋葉神社さんはある。植え込みなど凝って造作されていて、管理されている方がお庭感覚で手入れされているのだろう。実に「里の神さま」というスバラシイ感じだ。とはいえ、こちらも一応法人社なのだけれど、詳しいことは何も分からない。昔大火事があったので秋葉さんを祀ったのだと土地の人はいう。んが、あたしはちょっと違う次第もあるのじゃないかと少し考えている。

八坂神社

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それは東に中村川を渡った先にあるこの「八坂神社」さんとセットでの話。地図を見ると分かるようにこの両社が川を挟んで下流の方を向いている。先にもいったように、この川を遡ると中村党の本拠五所八幡なわけで、丁度この小竹の二社が大きく五所八幡の参道があったと考えた場合の門前神のような位置に来ている。その可能性はないか、と思っているのだ。中村へ入る厄を防御する秋葉・天王と見るとありそうな話に思える。まぁ、実際そうだ、という話も無いんだけどね。五所八幡に周辺八幡の神輿が集結する祭があった頃(近世以前だが)、ここに着くと一息だったというような話はあるから、少なくとも「入り口」の感覚はあったはずなんだが。
その八坂さんには「南無天社神」なる石があった。天社神というのは(なんだか久々に解説するが)、秦野市の方にたくさんある要は地神講の本尊である。これは念仏講と地神講をまとめてやっちゃえ的なことがあった名残りかね。
小さいお社ではあまり見ない招魂社系(?)の狛犬さん。反ってます、反ってます。

白髭神社

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小竹から川沿いに下って小船の「白髭神社」。白鬚と書く場合もある。「十郎ルート」は沼代からここへ下りてきて、川匂神社の方へと向う。ここの白髭さんのことは既に紹介しましたな。

▶「白髭神社」(このページ下から)

まとめろよ、という話だが……orz
とはいえ参拝は数年ぶりでして、こうして見ると以前は見えてなかったところも。まず社頭だが、このようにイチョウの木が注連柱状に植えられている神社さんだったのだ。もう、代表例としても良いくらいの感じである。
また、紹介でも触れたこの富士講の石造物だが、やはりかなり重要なものだ。小田原市では最古の富士講の石造物となるらしい。
よくよく見ると狛犬どのも、かなり大胆なお顔をしておられる。くわっと。
さらにですな。あたしはこの日まで鳥居脇にこうして道祖神さんとかあるのに気がついていなかったですな。そんなもんなのよね〜(TT)。石臼を前にしたここまでに見た石臼奉納文化をよく示す一品だというのに。

護良親王の話

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常陸行の方で見かけて馬頭観音だけでなく牛頭観音というのもあるのだ、と感心していたが、こうして地元エリアにもひょっこりとあるのでした……いや、ありますねぇ(笑)。看脚下。
このあたりは上町というのだが、実は護良親王伝説があるのだ。「大塔稲荷神社」という小さなお稲荷さんがある。で、行って見た感じあまり外の人が来るようなものではないのかな、という感じだったのでそのへんはぼかして、後々の参照のためにメモ程度で。すでに護良親王に関する伝説は各地で幾つか紹介している。

淵辺義博の伝説(高座行・相模原)
津久井から都留への伝説(愛甲行:津久井)
栃木県佐野市の方の伝説(両毛行・佐野)

このように色々あるのだが、親王の首代を南の方が京へ運ぼうとした、という話もあり、その経路の平塚や小田原にも伝説の地がある。
ここ上町では南の方がここで出産し亡くなった、という伝があり……というかそのときの子の子孫が大塔家として連綿としているということなのだ。その家が祀るのが大塔稲荷神社であり、今でも年に一度鎌倉宮(大塔宮)に参るのを欠かさないという。本当かどうかということを考えてもあまり意味がないが、ふってわいたというような話ではなく、大塔家は上町の旧家である。平塚の方の話とどう関係するのかというようなところもあり、いずれまた扱うこともあると思うので、メモしておく。

羽根尾遺跡

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そんな感じで、このあとは「羽根尾史跡公園」にさらなる横穴古墳を見に行ったりしたのだけれど、雨あし強まりでもうろくな写真もあらず、という感じ。
ていうか羽根尾史跡公園自体、「ここに横穴古墳がありました」という公園ではあるが、今行って保存されている横穴古墳をよく見ることが出来る、というところではありませんでしたのココロ……写真の貯水池を造成する際に斜面にあった、というのがほとんどなのですな。
案内看板はたくさん立っていて、そこに現在開口している横穴古墳の位置が記されているので、辿ってみても……まぁ、これなんかはまだマシな方であります。
えぇ、こんな具合で、あるんだかないんだかも分からん有様ですよ。写真左奥に二基開口しているはずなんだが。公園化してもその遺跡がこれでは……どうなのよ。
発見当時はこのようだったわけです。
で、本格的に降ってきまして、はいそれまでよ(TΔT)。このあと海まで下って、それから今度は二宮町側を川匂神社まで遡る後半パートを予定していたのだけれど、これにて撤収であります。

ということで尻切れとんぼな行程でありますが、続きはまたの機会に。十郎ルートも先の白髭神社から川匂神社〜吾妻山の東へと進んで兄弟の姉、花月の住んでいた里まで辿らないと話がまとまんないですしね。

補遺:

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補遺:

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師長行:小田原 2013.04.20

惰竜抄: