
愛甲行:津久井
庫部:惰竜抄:twitterまとめ:2013.02.09

道行き


中野神社


中野神社の面と稲荷初午


中野神社の弁天さん


道行き


道行き


道行き


青山・八坂神社


道行き


石神


里山稲荷

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少し行くと、ザ・里山という風な丘が見え、幟がはためいていた。初午の幟に相違あるまい。これは行っても良さそうな所ならぜひ近くで見ておかねばなるまい。 |
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登って行くと普通に道が通じていましたな。金毘羅さんとお稲荷さんとある。写真左の生垣の後ろあたりは墓地だ。里山と里山稲荷と墓地。非常に分かりやすい。幟には石神講中とあるのでここも石神のようだ。 |
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こんな具合に登って二つの祠がちょこんと祀られている。初午の供物があっただろうスチロールのお皿なんかは早くもペロリと空っぽだった。これは早いほど吉なのだ。おめでとうございます(笑)。てか、なんだなあの紋は。八芒星に日の丸? ちなみに墓地がセットになっていたわけだが、津久井には墓域を表す小地名「らんとうば」に「卵塔婆」とあてている例がまま見える。無縫塔が多かったのかしらね。川にあれこれ流されてくる伝が多いしなぁ(後述)。「無縫石の生まれる川原」の伝があったりはせんだろうか。 ▶「温泉寺の無縫塔(日本の竜蛇譚)」 |

青山神社

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そしてかつての青山村の中心へ。ここに鎮守の「青山神社」が鎮座される。ここも近世は諏訪大明神だったところだが、御祭神は普通に建御名方命となっている。 |
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ここはわりと由緒のはっきりしている所で、近く鳥屋へ行く方に鎌倉建長寺を開いた大覚禅師の創建した光明寺があるが、その守護神として勧請されたという。だから建長年間の創建ですな。 |
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明治二十六年に社周辺宮の前の大火災があり、社頭の杉など残り火が十三日も燃え続けたと語られるが、社地の前でぴたりと火が止まって諏訪大明神の森は燃えなかったそうな。
八王子から甲斐郡内へと抜ける甲州街道は甲斐への表通りだったが、厚木の方から今の愛川町半原〜この青山を抜けて行く道は言わば甲州街道の裏道として人通りが多かった。そして、その「抜け道」としての性格を語る伝もあれこれある。実は相模原や栃木県佐野市の方でふれた護良親王の首の別伝がここ青山を通っている。甲斐郡内都留の方にその首塚伝説があるのだが(石船神社)、運んだという雛鶴姫という姫が青山に一夜の宿を取り、都留へ向ったという話がある。このため青山から都留への道を一名雛鶴街道などともいうそうな。青山はそのような伝の結節点となる街道の要所だったのだ。相模原・佐野の護良親王伝説は以下参照。 ▶「高座行・相模原」(中盤:龍像寺) ▶「両毛行・佐野」(鐙塚・浅沼の八幡神社) |
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境内にはギョロ目のお不動さんが。隣の庚申さんはいい加減くたびれてしまっているが、資料に境内社「三猿社」とあるから境内社扱いの祠であるようだ。 |
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狛犬さんは新しそうに見えるが、なんとも甘えんぼちゃんの子狛がステキな珍しい造型であります。 |
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吽像の方もなんか独特な……なんだこの「ふふん?」みたいなヨユウシャクシャクな表情は。日の加減か。 |

櫛川姫とお糸の伝説


鮑子・子神社


御嶽と狼

さて、鮑子の子神社には御嶽神社さんが合祀されていて、額には両社名が併記されていたが、ちょっと旧・津久井町域の御嶽神社はみな合祀されてしまっていて単独で紹介できそうもないので、「狼」のことを少しメモしておこう。 津久井では狐・河童(「かわてんごう」などともいう)の次くらいに狼の昔話が多いが、先の写真の如く実際狼に近く暮らしていた丹沢山塊の端の村里であり、要注目である。送り狼と恩返しの話が多いが、これは類話の通りのものなので、今回は「狼の頭骨」のことを。 昔話というよりも、実際捕えられた狼の頭骨を家宝神宝寺宝として保持しているのだ。で、これが雨乞いの際に持ち出されるアイテムなのである。武蔵御嶽の狼(お犬さま)信仰というのも特に水神的な側面があるわけではないが、この一点でのみ水神とリンクしている(丹沢の反対側の秦野などでもそう)。 しかし、なんで狼の頭骨が雨を降らせるのかというとよく分からない。その神威の源である相模大山なんかは一名阿夫利(あぶり)山であり、これは「雨降り山」の意だとされ、実際そのまま雨降山の名の山も周辺にあるのだが、それが繋がっているのだろうか。牛馬の頭骨というと供儀のイメージがするが、狼を供儀にというのは何か変だ。どちらかというと雨を降らせる頭骨の典型である竜蛇の頭骨の持つイメージに近いのではないか。どうも、武蔵相模の御嶽信仰には竜蛇信仰と所々リンクするところがある。 |

おわり


補遺

補遺:川天狗のこと:旧津久井郡域相模川周辺(支流でも)、河童の話が多いが、所謂頭にお皿で背中に甲羅のカッパのイメージとは大分違うようだ。以下、日文研のデータベースからいくつか引きながら見ておこう。・河童の姿形や生態については、以下のように言われている。犬のようであり、胴長で、後ろ足が短く、魚を食う。道志川にも河童はおり、子供が食われてしまったという話もある。昔の人に話を聞くと、しばしば言われる頭の上の皿もないものと言われている。(神奈川県史) ということでこれはカワウソ的なモノなんじゃないかという感じである。実際後に引く話ではカワウソのいたずらだと言っている。で、このカッパをどうも「かわてんごー」というようなのだが、川天狗ということだろう。そうすると正しく「狗」を引いていることになる。 ・夜中に川へ行くと、真っ暗な中を火の玉が転がってくることがあるが、これは川天狗というものである。これが出た時には、河原の石の上を洗い清めて、取れた魚を供えると消えるのだという。(神奈川県史) さらにはこのように火の玉と密接に繋がった存在とされている。『日本書紀』舒明紀の天狗(あまつきつね)のようなイメージがあるいはあるのかもしれない。 ・仁助兄弟が、三沢村三井の霧ヶ瀬で網打ちをしていると、鮎がたくさん捕れ、天狗様がやきもちをやかぬように、いつもの通り、ハラワタを抜いた2、3尾の鮎を生簀の板の上に並べて贄を捧げた。しかし、天狗様の気に入らなかったのか、大きな火の玉が舟に落ち、兄弟はびっくりして家に逃げ帰った。このテンゴーサマはカワウソのいたずらだという。(民俗) おおよそ全体的にどのようなものか皆語られている例というとこんなだろうか。火の玉でカワウソで魚を沢山獲るとやきもちを焼くのがテンゴーサマ・川天狗・河童ということのようだ。一方津久井の火の玉の怪の原因の多くは狐とされるが、案外狐と河童が近い所にいるのかもしれない。 |
愛甲行:津久井 2013.02.09
