愛甲行:津久井

庫部:惰竜抄:twitterまとめ:2013.02.09

今の津久井湖(人造湖・相模川)南部のあたりというのは東西でいうならば西相模であり、古代は愛甲(あゆかは)郡であり、厚木や現・愛甲(あいこう)郡と連なる区分であった。最近までも津久井郡といったが、これが皆東相模である相模原市に合併してしまったのでちとややこしい所だ。
龍学では旧津久井郡域は「西相模編」とする(左岸は高座郡だったりもするのだが)。というわけで相模原市は東編でも西編でも出て来ることになるが、西は旧津久井郡域ということで。

道行き

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さて、そういったことで昨日は津久井湖へ行ったのだけれど、それなら先ずは湖の絵を見せねばなるまいということで湖面を目指しましたあたくし。んが、どうもダム湖故にそうそう「岸」というのはなくてあまり下りて行けそうな道がない。
近隣の爺ちゃんに、川まで下りてるよ、と教えてもらった道を来たのだが……まぁ、地元の爺ちゃんにしてみれば気軽な道行きなのかもしれんが、これは……
それでも進むと、ぐおう、根こそぎな倒木までが。いや待てオレ。そうまでして湖面を見ねばならんというわけではないのだぞなもし。朝っぱらからナニやってんだという。
ていうか結局下りても岸じゃないし(TT)。いきなりアホな開幕でありますな。まぁ、でも収穫もあった。爺ちゃんは普通に「川ぁおりる?」と言った。爺ちゃん的には今も湖ではなく川なのだ。

中野神社

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と、ウロウロしておりますここは中野という土地。この地名は周辺が開拓され始めたその最初の地を意味していると捉えられている(中村・中根などと同じ)。そこの鎮守さんが「中野神社」。
承和二年の勧請というのはもちろん伝だが「ここがスタートポイントだったのだ」という土地の感覚を物語っているだろう。で、「中野神社」となったのは文久年間なのだが、それまではここは「諏訪大明神」だった。
今も鳥居・社殿額は共に「諏訪大明神」となっている。そして、ここが御祭神を「御穂須須美(みほすすみ)命」としている相模の諏訪神社なのであります。ここと、次の三ヶ木神社だけが相模でそうなっている。

御穂須須美命とは『出雲國風土記』に見える奴奈宜波比売の御子神であり、すなわちこれは『古事記』に見る沼河比売とその御子神・建御名方命に同じだろうとされる。つまり御穂須須美命=建御名方命であると(決まったわけではないが)して、諏訪神社の御祭神となっているわけだ。もちろん近世は概ね「諏訪大明神」であったのであり、御祭神を御穂須須美命としたのは明治のことだろうが、何故わざわざ『出雲國風土記』に準じたのかという点が気になる。もし具体的な理由があるのならば、ぜひ知りたい。
境内社が本社殿左右に並ぶが、これは摂末社というより合祀されたお社の御本殿がそのまま置かれているのだ。写真は湖底に沈んだ不津倉の鎮守だった御嶽・長田社と思われる。長田社は大物忌命を祀る珍しいお社だった。

中野神社の面と稲荷初午

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しかしなぁ……ここにガラス戸の一宇があって、三番叟の面をつけた浄瑠璃人形があるはず……だったんだが。なかったですな。どこかに移されているようだ。この面がちょっと面白くてですね。
明治頃、お面も随分古ぼけちゃったので、お手入れしようと胡粉を水でといて筆につけて面を撫でたのだという。すると、なんとお面が「おお、ひゃっこい!」と大声をあげたので村人一堂驚いて腰を抜かしてしまった、のだそうな。で、以降手入れに水は使わず湯を使うようになり、面もただの面じゃないと神社に納めることになったのだという。 そのお面が見たかったのだが……残念。
写真奧側はお稲荷さんだが、同時に養蚕の神でもあったという。中野も川の方は川和というが、天明の頃から「川和織」が有名で、中野で通じなくても川和で通じたそうな。そんなわけであちこちに養蚕信仰の痕跡がある。
で、この日ちょうど初午の日でありました故に、お稲荷さんにはいつもよりゴージャスなお供えがあるですよ。藁苞にお赤飯に油揚と、なんかすげえ美味しそうな。
お供えを見て「ニヤリ」としたお狐さんの図(笑)。

中野神社の弁天さん

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さらに中野神社さんのお隣に下りた所には池と中島があって弁天さんが祀られている。今は厳島神社として境内社扱いであるようだ。中野神社の境内から見るとこんな。
ここが興味深い話を伝えている。昔はこの弁天さんと池は全く手入れをされることのない荒れ放題の場所であったそうな。それはズボラではなく「弁天さまをいじると、必ず祟りがある」という戒め故にだったという。
あるとき、よその土地に行って商人として成功した人が、故郷に錦をと皆が止めるのも聞かずに弁天祠を新築した所、その人はすぐに死んでしまったという。
現代人から見たらそりゃ美談なんじゃないかと思うのだが、ダメなのだ。神社にはこういった存在がままある。それは「あちらの存在」である部分だ。そういった部分を抱えているのが本来なのだとあたしは思う。ここの弁天さんも今はすっかり手入れされるようになっており、この記憶がいつまで伝えられるのかは分からないが。
中野神社のおまけ。お顔は良くある岡崎狛のようだが、こんな風にポーズをとっているのは珍しい。

道行き

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行く道にお地蔵さん。川坂地蔵尊というそうな。川から登ってくる道があったのだろう。このあたりも道祖神・庚申等々と石造物が山とある土地だが、それぞれ役割がどう違うのかというのも気になる所である。
石造物の一群はこんな。ここは中野から西へ向って三ヶ木(みかげ)というところになる。面白い地名だが、由来などはよく分からない。また、廿三夜碑が見えているが、月への信仰が色濃い土地であり、これは尾を引いて重要となる、はず。
その中のこの手前の像なのだけれど、もうなんだか分からん感じだが、手に何か持っているのが気になる。桑かもしれない。養蚕系の神さまだったのだろうか。
三ヶ木の里とイチョウと、その下にぽつぽつ見えているのは多分古いお墓だ。イチョウの木は寺の木だといわれ、昔は家の敷地に植えられることはあまりなかった。逆にいえば、イチョウがあったら何かがある。

道行き

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三ヶ木の鎮守は「三ヶ木神社」さん。昔は三箇木神社と書いたが、さらに以前は(というか近世の間は)、ここも諏訪大明神だった。
で、この石鳥居。三ヶ木というのは相模川水運の一方の端だった。一番上流である。ここから相模川河口の須賀まで舟で荷を送っていたのだ。そして、先の鳥居も伊豆で造られて相模川を舟で運ばれてきたという。川からここまで馬力で引き上げるのはエラい苦労だったそうだが(明治三十三年)。
今や津久井湖となってダムがあり、下流にも所々堰がありとここまで舟が来ていたなど想像もつかないが、これだけの石鳥居を運んでくる水運があったのだ。思わぬ歴史を伝える鳥居さんなのであります。
お社は随分奥まった森丘の上にある。これを撮っている後ろには小川が流れていて、子どもちゃんたちが遊んでいたのだけれど、奥に進もうとするあたしに向かって心配そうにいった。
「のぼるの?やまんばがいるんだよ?」と。
そうか。やまんばを感じ畏れる子がいる土地なのだね、ここは……うっれしいねぇ~。

ちなみに手前の一宇は神輿殿で、現役ではない古い御神輿があるが、三ヶ木の神輿はあばれ神輿で有名だったそうな。しかし、どうもやりすぎたようで、嘉永年間に「御公儀法度堅く守ること」以下数条の「教育的指導」が入っている(笑)。
先にも述べたように、こちらも御祭神が御穂須須美命である。『津久井郡文化財神社編』だけ「建御名方命」なんだけどね。中野に倣ったのか。どうも松田町の方に「三ヶ木文書」なる縁起書があるらしいんだけど、未調査(個人蔵)。
拝殿の木鼻などは手本となりそうなしっかりした造りだ。でも『新編風土記』なんかも「諏訪社」とほぼ名前だけでよく分からんのですよね。遷座されているようなのだが。
やまんばさんは……あたしには見えませんでしたな。ここは浅間さんが合祀されていて、木花咲耶姫命が配祀されているのだけれど……まさかその線じゃないだろうね。
さて、「いた」といおうか「いなかった」といおうか、結構悩んだのだけれど、下りてきたらもう子どもらはいなかった。ちょっとホッとした(笑)。写真はなんか妙に格好の良い石祠。

道行き

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こちらは道行きの格好良い庚申さん。ふむ。落花生?節分の名残りかしら。庚申さん故に、という線はあるだろうか。
そ・し・て、三ヶ木から青山という方へ向っているのだけれど、その道脇の道祖神さん。わははははっ!お分かりかっ。祖の字の「且」のつくりが陽根状になっているのだ。いやぁ、こりゃあすごいねぇ。
また「何でもそう見える病」であるのを恐れて(笑)、調べたが、『津久井郡文化財石像編』にもこれは男根を模していると書かれている。天保十年のものだそうな。やはりこういった傾向は内陸山間部になってくるほど顕著な所がありますな。津久井郡内には「セイノカミ(塞の神)」を「性の神」と書いて小地名としているような所もある。「そうである」土地と「そうでもない」土地にはどんな差があるのかね。

青山・八坂神社

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青山という土地に入ると「八坂神社」が鎮座される。鳥居脇の石標には「八阪」とあったが、要は天王さんだ。
この前を串川という川が流れているのだが、その上流の鳥屋から御神体が流れてきたという「流される天王」のお社である。
拾った人が、あとで出てくる青山の諏訪大明神(現・青山神社)に納めたものの疫病が起り、これはいかんと卜して新たに社地をもうけてお祀りしたのだそうな。慶長年間のことと伝わる。
久々の鰐口のお社ですな。明治六年に青山神社に合祀されたが、十年には復祀されている。先のような創建伝のお社故、無理もない。逆に明治に短期間合祀されていたりすると鰐口などが残りやすいのかもしれない。
しかしこの創建伝は面白い話で、「天王は疫病を防ぐ神である」というのが一面的な見方であることを教えてくれる。天王さんは祀り方を間違ったら「疫病を引き起こす神」でもあるのだ。神は常に両義的であり、人の側が陰日向を作り出す。
「いなせな浅草っ子のお祭りガイド」とな。なぜに?
八坂神社さんの下庭の建物。この高さは山車だろうなぁ。ここのお祭のことなどは調べていないが、立派な山車が出るんだろうね。
通り脇石標の前に道祖神さんがある。電柱のカゲで見逃しやすい。三ヶ木から来る途中の道祖神さんと同じ字体で、同じく祖の「且」のつくりが陽根状になっている。同時に造られたミニチュア版といったところかしらね。

道行き

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今は大きな道が通っているが、こうちらほらと分かれ道でもないのに道祖神さんがあるのは、それが道標として必要であるような道だったということだろう。
うすら淋しい古道なんかを歩いていると、あるいは現代の道から少し分け入るようなお社に行く際など「この道あってんのか?」ということが良くあるが、道祖神さんなどが出てくると「おぉ、あってるか」とホッとする。確かに道祖神は塞の神ではあるが、旅人を導く神でもありますな。実感としては実は後者の感想の方が多い。

石神

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そしてさらに峠を越えて青山の中心地へ向おうという道すがら、あからさまに「何か」である一本杉と鳥居が。これはまったく事前調査に見ないものだったので驚いた。
木の下にはこんなお宮が。中には1メートルくらいの自然石が立石としてデンと立っている。文字碑の文字が摩滅したとかではないですな。多分純粋に立石だろう。
なんだこれはなんだこれはと周辺ウロウロしていますと、土地の名が石神のようだ。立石が石神さんなのかね(そうでした)。
すぐ近くに住んでいるというご老人にお話を伺えたのだが、その爺ちゃんは「あの脇を登んとなぁ、山の神さんがあるんだ」ということで、山の神さんへの登り口、という認識のようだった。んが、後で調べてみた所、先の立石自体がかつては信仰を集めていたものだったらしい。
「石造物」ではないので石像資料なんかからはもれてるのかしらね。『つくい町の古道』という資料にあった。地名のとおりこれが石神さんなのだが「撫でると(水をかけると)耳が治る」という石神さんだったそうな。で、治ったら「穴の空いたもの」を供えたという。竹を輪切りにしたものを数珠つなぎにして格子にかけることが多かったようだが、穴が空いていれば笊でも篭(目がある、ということ)でもよかったそうで、そのようなものがかつてはたくさん格子に吊り下げられていたという。残念ながら今はもう何もなかったが、これはお産の底抜け柄杓なんかと一脈通じるものがある。
検地(縄入れ)に使った縄を祀ったというので社宮司さん系であることは間違いなく、大変「諏訪っぽい」。まだ諏訪そのものの立石なんかを見て回ったわけではないので何とも言えないが、なんとなく後に行ってこれは比較対象になるもののような気がする。
小字の石神は「いしがみ」で、「しゃくじん」とかではないのだけれどね。また、より諏訪っぽいという点では、もしかしたら爺ちゃんが山の神さんの登り口だと認識していたことも重要となるかもしれない。
また行く道に立派な道祖神さん。こちらは普通の字体だが、やはり字には赤を入れてあり、これが習わしのようだ。

里山稲荷

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少し行くと、ザ・里山という風な丘が見え、幟がはためいていた。初午の幟に相違あるまい。これは行っても良さそうな所ならぜひ近くで見ておかねばなるまい。
登って行くと普通に道が通じていましたな。金毘羅さんとお稲荷さんとある。写真左の生垣の後ろあたりは墓地だ。里山と里山稲荷と墓地。非常に分かりやすい。幟には石神講中とあるのでここも石神のようだ。
こんな具合に登って二つの祠がちょこんと祀られている。初午の供物があっただろうスチロールのお皿なんかは早くもペロリと空っぽだった。これは早いほど吉なのだ。おめでとうございます(笑)。てか、なんだなあの紋は。八芒星に日の丸?

ちなみに墓地がセットになっていたわけだが、津久井には墓域を表す小地名「らんとうば」に「卵塔婆」とあてている例がまま見える。無縫塔が多かったのかしらね。川にあれこれ流されてくる伝が多いしなぁ(後述)。「無縫石の生まれる川原」の伝があったりはせんだろうか。

▶「温泉寺の無縫塔(日本の竜蛇譚)

青山神社

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そしてかつての青山村の中心へ。ここに鎮守の「青山神社」が鎮座される。ここも近世は諏訪大明神だったところだが、御祭神は普通に建御名方命となっている。
ここはわりと由緒のはっきりしている所で、近く鳥屋へ行く方に鎌倉建長寺を開いた大覚禅師の創建した光明寺があるが、その守護神として勧請されたという。だから建長年間の創建ですな。
明治二十六年に社周辺宮の前の大火災があり、社頭の杉など残り火が十三日も燃え続けたと語られるが、社地の前でぴたりと火が止まって諏訪大明神の森は燃えなかったそうな。

八王子から甲斐郡内へと抜ける甲州街道は甲斐への表通りだったが、厚木の方から今の愛川町半原〜この青山を抜けて行く道は言わば甲州街道の裏道として人通りが多かった。そして、その「抜け道」としての性格を語る伝もあれこれある。実は相模原や栃木県佐野市の方でふれた護良親王の首の別伝がここ青山を通っている。甲斐郡内都留の方にその首塚伝説があるのだが(石船神社)、運んだという雛鶴姫という姫が青山に一夜の宿を取り、都留へ向ったという話がある。このため青山から都留への道を一名雛鶴街道などともいうそうな。青山はそのような伝の結節点となる街道の要所だったのだ。相模原・佐野の護良親王伝説は以下参照。

▶「高座行・相模原」(中盤:龍像寺)
▶「両毛行・佐野」(鐙塚・浅沼の八幡神社)
境内にはギョロ目のお不動さんが。隣の庚申さんはいい加減くたびれてしまっているが、資料に境内社「三猿社」とあるから境内社扱いの祠であるようだ。
狛犬さんは新しそうに見えるが、なんとも甘えんぼちゃんの子狛がステキな珍しい造型であります。
吽像の方もなんか独特な……なんだこの「ふふん?」みたいなヨユウシャクシャクな表情は。日の加減か。

櫛川姫とお糸の伝説

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神社のお隣には区役所出張所があって、このようなレリーフが。串川のもっと上の鳥屋の話だが、その伝説の姫が川に落としてしまった櫛が流れてきたので櫛川(串川)といい、姫を櫛川姫という。レリーフの姫は櫛を手にしているので相違あるまい。
しかしこれなぁ。レリーフはそうなのだが、バックの円は月なんだろうな。伝説も月夜の晩が舞台だしね。もしかしたらそんなのも津久井の「月のコード」に絡むのかもしれない。

この地にはもう一つ興味深い伝説がある。対応する「物」などはないので伝だけだが。青山に「お糸」という娘が奉公に来ていた。とある人が結核にかかり、「己の年の己の日生まれの生肝がよくきく」といわれ、そうであったお糸を殺してしまった。それがこの諏訪(青山)神社の北の山中であったという。
享保の頃の話だそうだが(享保十二年のお糸の墓碑があって祟ったそうな)、お糸を殺した者の家には以降男児が生まれなくなったという。常陸出島の牛渡では、似たような話が「牛の年の、牛の日の、牛の刻、に生まれた女の生き血」だったわけだが、「己の年の己の日」とはなんだろう。十干の方だけで年日を指定する象徴性ってのはあるのか?分からないのだが、よもやとして「巳」の誤植じゃあるまいかね、という線もある。もしそうならこれは蛇の話だ。諏訪社の後背の山が舞台というのも偶然ではなくなるだろう。己巳だったら弁天さんだが。お糸だから弁天さん系かね。むぅ。

おまけで青山神社さん脇の石造物群など。境内というより隣の道脇なんで見落としやすいかもしれない。ちょっと変わった造型であるような気がする。白い像はお地蔵さん?茶人のようなかぶりものをしているが。

鮑子・子神社

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青山から(まぁ、みんな青山なんだが)八坂さんに戻って、今度は道志川に沿って青野原・青根と続く道志道の方へ。こちらはもうすっかり集落間は山だ。
ちなみに青山から「青」が続くが、「青の地名」という捉え方はされていない。青山・青根は大山からの転訛と考えられ、青野原は新しく拓かれた土地の意だとされる。まぁ、多氏がどうというような痕跡もないしね。太井という所はあるが。

さらにちなみに、このあたり写真の道脇の高くなっている丘上に「月夜野」の小地名が分布している。一ヵ所ではなく何ヵ所かあるので、おそらく月待ち講などの際に登って月を望んだ所の意なのだと思うが、廿三夜碑などの分布などとも併せて、津久井は「つくい」(伝法に発音するとほとんど「つき」になる)の名からかなり月を意識していたのじゃないかと考えている。
そして道行くと小字が鮑子(あびこ)という土地になる。この山中で鮑ですよ。関東の難読地名の常連に下総の「我孫子」があるが「あびこ」は「我孫子」だけじゃねいんですよ。わはははは。
で、こちらは山中鮑子とは書くものの、海の鮑そのものに由来する地名かというとそうじゃないだろうと考えられているようで、「間(あはひ)」の方だろうという。青山と奥地の青根・青野原との間の土地ということですな。

その鮑子の鎮守さんが「子神社」さん。子ノ神社とも。小さな山間集落はお社周辺に公共のあれこれも皆固まっている。
今年は度々話題となるだろう相州子の神の一社ですな。寛文四年勧請の伝がある。御祭神は大国主命で、それだけでは必ずしも子安の神ということにはならないのだが、ここは安産祈願のお社として信仰されてきた。
まぁ、お社といっても御本殿(合祀された御嶽神社と並んでいる)を覆うお堂という感じのこざっぱりとしたものだが。昔は藤の古木があったので藤の森といった、という話がどの資料でも書かれているので重要な点なのかもしれない。
今の社叢は昔大火事があって以降新生したものだそうだが、ただ一本生き残った欅があり、樹齢五百年という。写真の木がそうだと思うが、この反対側がウロになっていて(逆光で撮れなかった)、そこが安産祈願とかかわるのだろう。
鮑子平からさらなる奥地を望むの図。あの奧には今度は折花姫伝説というのがあって「じんじい・ばんばあ」信仰の点でも重要なのだが、それはまたいずれ。先の雛鶴姫・櫛川姫・折花姫の伝説をあわせて津久井三姫伝説というそうな。

御嶽と狼

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さて、鮑子の子神社には御嶽神社さんが合祀されていて、額には両社名が併記されていたが、ちょっと旧・津久井町域の御嶽神社はみな合祀されてしまっていて単独で紹介できそうもないので、「狼」のことを少しメモしておこう。
津久井では狐・河童(「かわてんごう」などともいう)の次くらいに狼の昔話が多いが、先の写真の如く実際狼に近く暮らしていた丹沢山塊の端の村里であり、要注目である。送り狼と恩返しの話が多いが、これは類話の通りのものなので、今回は「狼の頭骨」のことを。
昔話というよりも、実際捕えられた狼の頭骨を家宝神宝寺宝として保持しているのだ。で、これが雨乞いの際に持ち出されるアイテムなのである。武蔵御嶽の狼(お犬さま)信仰というのも特に水神的な側面があるわけではないが、この一点でのみ水神とリンクしている(丹沢の反対側の秦野などでもそう)。
しかし、なんで狼の頭骨が雨を降らせるのかというとよく分からない。その神威の源である相模大山なんかは一名阿夫利(あぶり)山であり、これは「雨降り山」の意だとされ、実際そのまま雨降山の名の山も周辺にあるのだが、それが繋がっているのだろうか。牛馬の頭骨というと供儀のイメージがするが、狼を供儀にというのは何か変だ。どちらかというと雨を降らせる頭骨の典型である竜蛇の頭骨の持つイメージに近いのではないか。どうも、武蔵相模の御嶽信仰には竜蛇信仰と所々リンクするところがある。

おわり

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三ヶ木に下りてきたらなんだか日が傾いてしまっておった。あらぁ。実は行けたら相模湖の方まで行くつもりだったんだけどね。まぁ、それだけ道行きに目をひくものが色々あったということではある。
ということで道志橋から津久井湖の口を見下ろした写真でも撮って……と思ったら眼下に「ホテルロワール」とかがそびえておってちょっとアレなぐぬぬ感(笑)。仕方ないので下りていって津久井行なのにようやく水の画を撮影。
まぁ、この先に進むと民俗学発祥の地のひとつである内郷であって、ちらちら言ってた「月のコード」のことを本格的に検討せにゃならんということもあって、と話が長くなるのでキリの良いところではある。夕日にかすむ村里にまた今度、と思いつつ。
そんな感じの津久井行でありました。さりげなく三浦党・津久井氏の本拠城山を通り過ぎた中野からのスタートという恐るべき抜き足差し足ヘタレ足な行程でしたが(笑)、そのあたりはまた県央全体を俯瞰する話となりますので、えぇ。まずは地元域とはいえ不慣れな地への最初の一歩ということでした。

補遺

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補遺:川天狗のこと:

旧津久井郡域相模川周辺(支流でも)、河童の話が多いが、所謂頭にお皿で背中に甲羅のカッパのイメージとは大分違うようだ。以下、日文研のデータベースからいくつか引きながら見ておこう。

・河童の姿形や生態については、以下のように言われている。犬のようであり、胴長で、後ろ足が短く、魚を食う。道志川にも河童はおり、子供が食われてしまったという話もある。昔の人に話を聞くと、しばしば言われる頭の上の皿もないものと言われている。(神奈川県史)

ということでこれはカワウソ的なモノなんじゃないかという感じである。実際後に引く話ではカワウソのいたずらだと言っている。で、このカッパをどうも「かわてんごー」というようなのだが、川天狗ということだろう。そうすると正しく「狗」を引いていることになる。

・夜中に川へ行くと、真っ暗な中を火の玉が転がってくることがあるが、これは川天狗というものである。これが出た時には、河原の石の上を洗い清めて、取れた魚を供えると消えるのだという。(神奈川県史)

さらにはこのように火の玉と密接に繋がった存在とされている。『日本書紀』舒明紀の天狗(あまつきつね)のようなイメージがあるいはあるのかもしれない。

・仁助兄弟が、三沢村三井の霧ヶ瀬で網打ちをしていると、鮎がたくさん捕れ、天狗様がやきもちをやかぬように、いつもの通り、ハラワタを抜いた2、3尾の鮎を生簀の板の上に並べて贄を捧げた。しかし、天狗様の気に入らなかったのか、大きな火の玉が舟に落ち、兄弟はびっくりして家に逃げ帰った。このテンゴーサマはカワウソのいたずらだという。(民俗)

おおよそ全体的にどのようなものか皆語られている例というとこんなだろうか。火の玉でカワウソで魚を沢山獲るとやきもちを焼くのがテンゴーサマ・川天狗・河童ということのようだ。一方津久井の火の玉の怪の原因の多くは狐とされるが、案外狐と河童が近い所にいるのかもしれない。

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愛甲行:津久井 2013.02.09

惰竜抄: