高座行・相模原

庫部:惰竜抄:twitterまとめ:2012.07.07

今回は雨の降る中、神奈川県の相模原市に出没。相模原市と言っても特に合併後は広うございますが、東京都町田市のJR横浜線・小田急線の町田駅からのスタートで境川を遡る行程であります。この日は悪天候もなんのそので、ま、いずれちゃんとした写真は良い日和に撮るとして、伝説の地を下見しておきましょうと、こういう趣向ですな(いても立ってもいられなくなったという説もある)。全行程にかかわるので、まずこの伝説を紹介しておこう。

淵辺義博の龍退治:
昔、足利直義の家臣の淵辺義博という武将が淵野辺に館を構えていた。暦応年間、この地の境川沿いの龍池に龍が棲みつき、人や家畜を襲うので人々は難儀した。幕府がこれを聞いて龍退治をする勇士を募り、淵辺義博が名乗りを上げた。義博が得意の強弓を携え、池の畔に立つと、忽ち雷鳴が鳴り響き風雨が巻き上がり、池の水が二つに裂けると巨大な龍が現われ襲い掛かって来た。義博は弓に鏑矢を番えると、龍の眉間めがけて射放ち、見事に命中させた。
すると龍は三段に断ち切られ、三ヵ所へと飛んで堕ちた。そこで頭の落ちたところに龍頭寺・胴の落ちたところに龍胴寺、尾の落ちたところに龍尾寺を建立し、龍を弔った。三寺はその後みな荒廃してしまったが、龍胴寺は再興され、これが今の龍像寺である。

龍像寺社伝より要約

このような伝説があったのだ。例によってお寺の伝でなく、里の人々の伝えた話だと龍は大蛇ですな。そのあたりのバリエーションは後々。ともかく、この三寺の位置が伝わっており、どうも全般追えそうではないの、ということになってすっ飛び出したのであります。


さて、そんな訳で小田急線町田駅下車。町田の街というのも完全に川に背を向けて形成されているので普段気付きにくいが、繁華街のすぐ裏手を境川が流れ、渡れば神奈川県相模原市である。

ここでまずは駅近の上鶴間本町「鹿島神社」へ。大蛇伝説以外にも、境川のこのあたりには鹿島神社が固まって祀られているという謎があり、これも今回の眼目のひとつ。
神奈川県下には法人社の鹿島神社は六社しかなく、相模の範囲では四社しかない。内二社がここにあり、周辺合祀された鹿島社や単立の鹿島社もありと、鹿島神社が特殊なケースである相模にあってこの地は異例なのだ。
しかし予想してなかった規模ですなぁ。先の鳥居は二之鳥居にあたり、反対側にはさらに参道が確保されているのだ。その辺の市町村なら総鎮守なみの社地である。
建久年間頼朝がこの地を整備するのにあわせて勧請されたのだろうとされるが、実際にはよく分からない。なぜ武甕槌命を祀ったのかもよく分からない。しかもどうも水神格として並べているようなきらいがあるのだ。実に謎である。
社地が立派なのは実質この神社を運営して来たお隣の青柳寺が強勢であったからかもしれない。今でも敷地は繋がっている(鹿島元地は別だが)。写真は境内社だけれど、こざっぱり。大体大きなお寺管轄の神社は万事行き届いた社地を形成しますな。
神楽殿が何やらハイカラですな。この日の他の神社も皆大きな神楽殿を備えていた(他は別にハイカラではないが)。対応する祭事がある土地なのだろう。

その上鶴間鹿島神社の元地であり「古宮」と呼ばれる祠。今、上鶴間の方は川っぺりということもないが、元はこのように全く境川のすぐ脇に祀られていたのだ。
これは鎮守というより水神のポジションであるのに間違いない。はたして鹿島神・武甕槌命が水神格として祀られるような理があるだろうか。こういったテーマも今回ぐねぐね考えつつ歩いておるのであります。
この境川沿いというのは鎌倉道の一路でもあった。イマイチ実態のよく分からない「上道」(『吾妻鏡』の下道)が、北上して八王子を通り、武蔵西部から上州へと通っていたらしいのですな。それはおそらく武蔵横山党の南下したルートでもある。

そこから鵜野森というところの「日枝神社」へ。地域の神明・鹿島・八幡社がここの山王さんに合祀されて日枝神社となった。
この日のちょっと良い光景。いやー、特別のお参りとかじゃなくて、どうも揃ってお出かけするときはごく自然にお参りして行くような感じであります。超現役の氏神さま。
ともかくここには鹿島社が含まれているのだ。前後の鹿島社とあわせて三鹿島と呼ばれていたそうで、ここも境川沿いに並んだ鹿島社の一社である。おそらく合祀前の鹿島社は本川の畔にあったのだろう(ここは一段高台にある)。
境内に力石。ひとつひとつに名前があるのがふるっている。これは紹介しておこう。

[碑]此の石は右より米粒(十七貫)ボタ餅(二十八貫)蕎麦粒(二十七貫)と称し昔村の若者達が力較べを競い互に身体を鍛え永く親しまれた石なり

石碑文

だそうな。力石の名前が伝わっている例ってあまりないのじゃないかな。武蔵周辺の力石は街道沿いに色濃く残っているのだろうなぁ、と予測しているのだけれど、ここもそうかもしれない。
あんぎゃあ。
行く道に道祖神さん。これは文字碑。絵に描いて額に入れたような岐の神である。まわりをコンクリで補強しているのだ。
しかし道の分岐・十字路の辻を神祀るというのは何故かと色々書かれていて、理屈は分かる。しかし、あーこれは祀らねばならぬのだね、という「実感」はまだない。どういう道に立った時実感が得られるのだろうか。
慰霊塔のあるあたりを抜けているのだけれど、何とも物凄い森が形成されている。航空写真で見てはいたけれど、こんなに鬱蒼と繁らせているとは思わなんだ。
辺りは古淵・大沼といった地名で、要は水気たっぷりだった土地である。一定期間森とすることによって「土地に水場だったことを忘れさせる」なんていう発想もあるんじゃなかろうか、と思ったりした。
大沼神社に向かっているのだけれど、神社近くに(敷地の端なのか?)。まーなんとものびのびと開けっぴろげちゃっています道祖神さんが。全体の形状も陽根なんだろうね。

そして「大沼神社」。弁天さんなのだけれど、ぐーぐるマップ上でそれと分かる立派な堀がある。かつてここを中心に「大沼」(実際の沼)が広がっていた。
んが、今は水は入れてないようですなぁ。なんでだ。こんな立派な堀なのに。弁天さんと言やあ中島が本地だけれど、こうもしっかり設えられているところはそうはない。子どもが落ちたら危ない、とかかしら。
ともかく、ここ大沼神社が今回の大蛇伝説の地探訪の火元なのであります。弁天さんなのに火元とはこれ如何に。
ネット上では宝永あたりに大沼新田が拓かれるのに併せて勧請されたとなっているのだけれど、『神奈川県神社誌』にはまた違う由緒が書かれている。伝に、小山田小太郎が「相模国大沼弁財天」を守護神として出陣の折、ここに弁天像をおさめたのが起源であるとある。小山田小太郎とは前回の甲斐都留の領主・小山田氏と同族の武将である。小山田氏の本家筋は町田市の小山田(地名)に拠点を持っていた。この武蔵小山田氏の動向のうちにかかわると思われるのが大沼神社なのだ。都留の方で郡内小山田氏が相州の弁天を守護としたこと、小山田氏は秩父氏系だけれども、母方が横山党小野氏であることなどから、都留と鎌倉道上道を繋いで行くあれこれを探していて、この大沼神社の社伝に目が止まった訳である。
ま、まだまだ小山田氏の弁天信仰で相模北央から都留までを繋げていくには色々なピースが必要であるため、この話は今回はさて置くのだけれど。この切っ掛けから大沼神社のあれこれを調べていくうちに、件の大蛇討伐伝説の話に行き当たった、という訳なのであります。
最初に紹介した伝説はこれより北西境川沿いの淵野辺の話なのだけれど、ここ大沼はまた大沼のできごとであったとして同じ伝説を伝えていたのだ。だからあたしは順番では「大沼伝」の方を先に知ったことになる。とはいえ、多分大沼伝も淵野辺伝と連続した話だっただろうと思う(後述)。
また、大沼は淵野辺の方で語られるダイダラボッチ伝説(土地では「デイラボッチ・デイライボッチ」という)と同様の伝説が語られて来たところでもある。富士山おっことしてデイラボッチが地団駄踏んだら沼になったってな伝説ですな。柳田翁の頃から紹介されている有名なダイダラボッチ伝説であります。
そういえばそんなこともあったかのう、なつかしいのう、わはははは、と狛犬さん。いや、あなたそこまで古くはないでしょ、みたいな(笑)。
境川の方へ戻る途中。「相模野」と言われたくらいで、実にだだっ広い土地だった。山影も見えず、行く人は自分がどちらに向かっているのか分からなくなってしまったほどだったと言う。
そして横浜線古淵駅をこえて境川へ。町田側へ渡って撮っているのだけれど、写真の杜に次の鹿島神社さんが鎮座されている。この古淵の地に、三分割された龍の頭が落ち、弔った龍頭寺があったと伝わる。
細かくは古淵の桧台だそうで、少し下流の横浜線が境川を渡る手前くらいになる。ま、今は特に何もないので鹿島さんの方へ。途中中先代の乱の事跡を伝える大日堂等もありまして……って、この石塔古いのじゃないのかしら。
こういった四角い石を積んだ石塔は鎌倉期に良く作られたものじゃないのかしら。文化財の稿にもないから下って模して作られたものなのか。

そんなこんなの「鹿島神社」。川縁鹿島三社の一だ。あめがーあめがーと、実はあたくしかなりテンパっております(笑)。
こちらはもう一方の鹿島問題となるのだけれど、大沼の方をまわって、一帯がかなり「ゆるい」土地だったというのは分かった。沼をならして土地にしたようなところなのだ。で、このような土地と鹿島の関係には言及したものがある。
『日本の神々11 関東』(白水社)では、鹿島の要石は霞ヶ浦周辺水辺を土地にして行った、そのゆるい土地を締め、鎮める地鎮石だろうと言っている。本当にそうなら、ここ相模原の鹿島社もそうかもしれない。
だがしかし。鹿島神宮自体高台にあるし、あたしは霞ヶ浦をほぼ一周したが、そんな湖面に連なる低地に構えられている鹿島神社など出島田伏の鹿島さんくらいしか記憶にない。鹿島の神にゆるい湿地の土地を締める役割を持たせるなどという感覚があるようには思えない。
要するにピンと来ないのですな。うーむうーむと古淵鹿島さんの不思議杉。無理矢理繋げた写真だけれど、これ二本の杉が一本に融合しちゃってるのかしらね。自然状態でこうなるものかしら。
さて、いかなあたしが埒のない話ばかりしていると言っても、埒のあかぬまま相模原鹿島社の話をここまで引っ張るかね、と思いはじめたあなたは鋭い(笑)。古淵鹿島さんを後に暫し進むととある石標が出現するのであります。
この鹿島さんに川から上って来る坂を「かわじま坂(川島坂)」と言っていたそうな。境川沿いのちょっと高いところを川島と言っていたのかね。ほうほう……で、我思ふ……いやいやいやいや、まさか、かわじま→かわしま(かーしま)→かしま?
確かに相模人が伝法に川島を口にしたら「かーしま・かーじま」になる。だからってねぇ。それで鹿島社勧請なんてことがあるだろうか。んなわきゃねーだろ、と思いますやん?あたしもそう思った。でもね?帰ってきてよもやと調べてみるとあるのですよ実例が。
尾張國式内・川嶋神社の論社である豊明市沓掛宿の鹿嶋社は、つまり川嶋が鹿島になったということなのである(最有力論社は別だが)。境内には伝・藤原業平の歌「あひ見ては心ひとつをかはしまの水の流れて絶えじとぞ思ふ」と歌碑があるそうな。
さらーに!この川が何の川かというと「尾張と三河の境界である〝境川〟」なのだ。なんじゃそりゃー!という話である。
とにもかくにも相模原鹿島社問題はこういった思いもかけぬ展開を見せまして、西相模の誇る4ビットの脳味噌はショート寸前だったのでした。もうこの件はとりあえず「何を考えたら良いのか」を考えよう(笑)。
古淵を後に淵野辺の地へ入るといよいよ伝説を伝えた龍像寺の名が見えて来る。この坂も龍像寺坂と言ったのだそうな(山門はこの右下の方)。

ここ龍像寺が三分割された龍(大蛇)の胴を弔った龍胴寺の後裔。三寺は一旦全て荒廃したものの、これを惜しんで龍胴寺は弘治二年に巨海和尚により龍像寺として再興されたという。今も龍像寺は伝説の龍骨と放たれた矢の鏃を寺宝としているそうな。
以下のサイト様にちょっと龍骨と鏃の写真があります。
曹洞宗 淵源山龍像寺
 webサイト「相模原の風景」
裏手の高台から見るとこのような大きなお寺。写真中央あたりが先の山門。開けた先が境川。その辺が伝説の大蛇のおった龍池だったのでしょうな。
また別に、淵辺義博は実は護良親王を殺めておらず……という伝では、この裏山の洞に親王を一時匿ったとも伝わる。しかし、そもそもこれらの伝説には難がある。淵辺義博が大蛇を討伐したのは暦応年間だと言うのだが、数年前の建武二年に義博は駿河国手越河原で戦死している、はずなのだ。
これはどうしたことなのかというと、伝説全体が「護良親王を手にかけた淵辺義博」という汚名を払拭するために出来上がったものなのだろうということになる。これは冗談ごとでもなく、太平洋戦争の頃には淵野辺出身の軍人は「逆賊の出た土地のものか」とひどい目に遭わされたそうな。これは先立つ江戸時代から土地の気にかかることであったようで、もともと護良親王は生きていた、という伝説のある石巻辺りの話をもとに伝説を作っていったようだ。このへんから話がややこしくなって来る。淵野辺村名主鈴木多平覚書の中には、次のような文句があるそうな。

相州東郡淵辺邑、山王大権現・御嶽大権現・鹿島大明神。右三社は淵辺判官伊賀守の御城にあり。淵大水有主神、右主は翁頭宮(おうとうのみや)と唱え候由。しかるに伊賀守は弓術の達人にてヲフトフノミヤ射とめられしとなり。

座間美都治『相模原の民話伝説』より引用

「おふとふのみや」とは「大塔宮」のことで護良親王のことだ。つまり、義博が殺めたのは護良親王ではなく同名の淵大水有主神・翁頭宮(竜蛇)だったのだ、という話にしようとしていた跡が見受けられるのである。しかし、では伝説がこの目的で作られたものなのかというと、そうでもない。 淵野辺の旧家天野家には、その先祖が大蛇を退治した、という話が伝わっているのだそうな(同『相模原の民話伝説』)。併せて考えるともともと天野家の祖が大蛇を討った伝説があり、これが淵辺義博が討ったという伝説になったのだろうということになる。今の段階であまり細々したことを考えても詮ないが、大まかにこのような伝説の変遷の流れがあるらしい、ということはまずおさえておきたい。
また、昨夜の大沼神社との関係のことも少し述べておこう。大沼では大蛇がいたのは大沼で義博は大沼の大蛇を討ったのだと伝わっていた訳だが、これは一連の繋がりがあるだろうと述べた。龍像寺には、再興した巨海和尚の夢枕に弁天が現われ、大沼に祀るように言った、とも伝わるのだ。
関連地を地図上に見ると左図のようになる。龍頭寺のあったという古淵にある鹿島神社は淵辺義博の子の創建であるとも伝わり、さらに、大沼弁天はこの古淵鹿島からの遷座だという話もあるのだ(『相模原市史』等)。
こうなると境川沿いの開拓と淵辺義博と大蛇伝説というのは、やはり何らかの(護良親王伝説以外の)意味合いを持って繋がって語られているじゃないかと思わざるを得ない。今はこの位にしておくが、ここには、なかなかタフな歴史と伝説の絡み合いがあるのだと言えるだろう。

そんな感じで先立つ川島・鹿島のこともあり、頭の中がアクロバチックにこんがらがりつつ、さらにもう一つ大きなテーマをかかえている雨中のあたくしはその舞台「皇武神社」へ。
もとはこの鳥居の先の境川近くに鎮座していたという。先の覚書にもあった御嶽大権現のことで、どうも横山党進出の指標として御嶽さんが出て来るきらいがある(ちなみに大沼は日本武尊が火攻めにあった野だったとも伝えている)。
また、その元地あたりにかつて大榎があり、大蛇がその榎木に巻きついたところを義博は射たのだという話のバリエーションもある。皇武神社自体、義博があつく崇敬した社だったと伝わるので、いずれここも伝説の一角を担う社だと言えるだろう。
んが、今回目指して来たのはここの境内に祀られる「蚕守神」さまの方だ。ここには次のような伝説がある。

皇武神社のおきぬさま:
昔、皇武神社の氏子のところで、大変忙しい春蚕のまっ盛りに、働き手のお嫁さんが病気になってしまった。困った家人が神主さんに相談すると、特別に御利益のあるというお札をくれた。そして、翌朝は神主さんの娘さんが手伝いに来てくれたのだった。大変良く働くその娘のおかげで、養蚕の結果も上出来となり、お嫁さんも快復した。そこで、お礼をしようと娘を送って神社までくると、その娘は忽ち白蛇に姿を変え、お宮の中へ消えてしまった。
神主さんに委細を話すと、それはこのお宮の神さまが娘に姿を変えて手伝いに行かれたのだろう、ということだった。やがて話が広まると、多くの人が皇武神社へお札をもらいにやって来るようになり、お宮は大繁盛となった。以降神主は「おきぬさま」という人形をお札と一緒に渡すようになり、神社には養蚕神が祀られることになった。

座間美都治『相模原の民話伝説』より要約

要するに蚕の神さまが白蛇なのである。これは「おきぬさま信仰」と言われるほどの隆盛を見せたと言うが、今相模原に「おきぬさま」人形を祀るような風はもうなく、群馬や埼玉の方に残っているそうな。
ともかく、これが弁天信仰のもっとも忘れられつつある側面であると言えよう。おきぬさまが弁天だとは皇武神社の方では言っていないが、一連の社である大沼神社(大沼弁天)が同じく養蚕の神として信仰されていたのであり、特に東国では弁天さんを蚕の神とするところは少なくない。前回の都留でも七面天女になりたがった弁天さんが蚕の神でもあったという話を紹介した(というよりそこを繋げていくためにここに参ったのだが)。しかし、なぜ弁天さんが蚕の神なのだろう。
これは大きく二つの要素があるように思う。まず第一に、蛇が蚕を飼う小屋の守りとされた。蚕の天敵は鼠なのだ。アオダイショウ等が蚕小屋に現れると守り神だと尊ばれたのである(弁天さんのお使いが護ってくれている、ということになった)。第二に、弁天は織姫と習合している。あちこちの淵底で機を織っているのは竜宮の乙姫・織姫であると同時に弁天さんでもある。水神蛇神であると同時に、弁天さんは機織りの神にもなっているのだ。
養蚕の信仰と言えば、まずオシラサマであり、金色姫伝説なのだが、これには蛇神信仰・弁天信仰が並行するのである。その連絡を見る上で、ここ相模原のおきぬまさは大変重要な伝説なのですね。

おきぬさまの皇武神社を後に、「第六天」の捜索へ。この辺りが淵辺義博の屋敷跡であるといい、その石碑があるのだが、義博が守護神とした第六天の祠があるというので来たのだ。
んが、この第六天「祠」は正確な場所を記した資料が見つからなく、大まかな住所からの捜索。で、さんざんぐるぐる雨中さまよって見つけたのだけれど「祠」じゃないじゃん、という(TΔT)。祠跡ですな。
関東の第六天信仰自体の事を話し出すとまた長いので端折るが、ここ相模原では面白い伝がある。淵野辺ではなく相模川の方の田名というところの話なのだが、第六天さんは女の神さんで、婦人の病や出産に効があるとされているのだ。もともと第六天と言っても魔王がどうこういうものではなく、要は地神なのであり、道祖神さんや社宮司さんと大変近しいポジションに居られる存在である。これがご婦人の神として弁天さんに接近している、というところが一連の話を踏まえて面白い。これは甲斐の方で色濃く、この相模原までとどく婆神信仰などと連絡させて行く上で重要となるだろう。その一帯を治めた武将達が守護とした神がなんだったのか。実際に淵辺義博が第六天を祀ったかどうかはともかく、その伝が生まれた背景にもそれはかかわって来るだろう。

次は「日枝神社」さんへ。山王さんですな(小字も山王)。淵辺義博は竜蛇討伐に先立って、この山王さんに祈願したと言う。また、竜蛇の尾が落ちて龍尾寺が建てられたところもこの山王であったという。
さらに、縄文中期の山王平遺跡の地でもあり、これは境川に張り出す台地上に半円形に住居群が連なり、その内側に直径40mほどの土壙・掘立柱跡のある広場を持つという大変「らしい」遺跡である。古くからの聖地であったのだろう。
んが、んが、んが……あらーらーらー……ということで日枝神社さんは絶賛改装中なのでありました。
神楽殿の方に仮の参拝所が。あれですな、「下見とか偉そうなこと抜かしたんだから〝本見〟があんだよなぁ、あぁ?」というおたっしに相違ない。出来過ぎな観もあるが(笑)。
この日枝神社は大蛇伝説と別に(もしくはかすかに繋がって)「大鳥連祖神」が配祀されるという興味深いお社でもあり、先に御嶽神社が横山党進出の指標となっているかも、という話に繋がるであろう所でもあったのだけれど。
ちょうどこのあたりから雨じゃんじゃん降りになりまして、潮時かなぁ、という感じでありました。本当はもう一社、「呼ばわり山」という実に興味深い名の地にあるお稲荷さんにも行くつもりだったのだけれど、ま、欲張んなよ、ということで淵野辺駅から帰途についたのでありました。
そんなこんなの相模原だったのだけれど、このレポを書きつつ、どうにもやはりタイヘンな地であるようなのであります。鎌倉道上道手強し。しかし、思った通り横山党を通じて武蔵西部・甲斐郡内へと繋がっていくヒントがそこかしこに見られる土地だったと言えましょう。まだそのあたりの歴史的な予習も充分とは言えないので、それをすすめつつ、淵野辺山王さんの改修がすむ頃には「本見」と行きたいものなのであります。

補遺:

高座行・相模原 2012.07.07

惰竜抄: