両毛行・佐野

庫部:惰竜抄:twitterまとめ:2012.08.11

佐野は藤原秀郷流佐野氏の拠点であり、秀郷公を祀る唐沢山神社(もとは秀郷の築いた城)をはじめとして墓まである(伊勢崎市にもあるが)。まったく俵藤太一色の土地であって龍学的にも大変重要な土地だ。
が、将を射んと欲すれば……ということで、今回は俵藤太伝説は程々に、この土地のよりベーシックな所から見ていかねばね、という感じであります。
そんで何を見たのだよ、と言いますとこれまたあれもこれもと大変なのでして、ひとつひとつ実際のレポを追って下され。今回は(輪をかけて)とっ散らかりますよん(笑)。
というわけで、例によって始発モードで一路北上しまして、朝八時半には佐野駅着。なんか「さのまる」がたくさんおった。佐野ラーメンってやつか。どんぶり鉢の模様が「SANO」になってんですよ。芸細な(笑)。
この日はあたかも「秀郷祭」当日でして、駅前など最終準備で朝早くからてんてこ舞いな感じなのだけれど、あたしはそそくさと抜けまして。すると朝一番でワケわかんないとこ登って立ち往生な猫さんが(笑)。「ニャー」と鳴く余裕もなく、「ウ、ウ、ウ」とか言っている。仕方ないので抱えて降ろしたら、ビャービャー鳴いた挙げ句、脱兎の如く(猫だけど)走り去った。ちょっとお礼っぽいことせんかと期待したんだけどねぇ。ま、猫だし。

ともあれまずは駅から東の「伊勢山神社」へと向ったのであります。お伊勢さんですな。どうも門柱スキーな土地柄。
宿の街道に祀られたお伊勢さんということで、特に何だというのではないのだけれど、分かりますかね。ここは狛犬さんがスバラシイと聞いてやって来たのだ。
「んっん〜?」みたいな。どうですか、これ。すげー。実物は写真で見た以上の迫力だった。
いや、お隣幼稚園かなんかなんだけど、子どもは泣くだろ。それともこういうとこで育つと平気の平左な子になるのかしらね。
夏の神社名物セミの抜け殻祠。いやもうすげえ鳴き声。夏まっ盛り。
先の狛犬さんと別に先代の狛犬さんもおる。こんな感じに阿吽とも手足もなくなっちゃってるのだけれど、未だに最前面を護っておるのだ。
白い角柱の後ろ、灯籠の前に据えられている。朽ちてなお、って感じでしょうか。こういう例ってのははじめて見た。
行く道に。猿田彦どのと棕櫚。道祖神さんポジションのようだ。伊勢山神社さんにも棕櫚が多かったが、そういう文化圏のようですな。

わりと街中路地奥に「三日月神社」が鎮座されている。まだ何とも言えないけど、もしかしたらダークホースなのがこの三日月神社群。常陸の方までぽつぽつと見える。
何ともでっかい提灯ですな。神社でこんな設えになっているというのもはじめて見たね。
月読命を主祭神に、少彦名命を併せ祀る。唐沢山城を再興した佐野成俊の娘の守護として三日月不動なるものが祀られ、城が平地に移るに際し現地に移動し、神仏分離令により三日月神社になったと言う。
んが、これでは三日月神社が広域展開している理由が分からない。また、このように講があった様子も拝殿上に掲げられていたが、多く他の三日月神社は「疣とり」などに験のある神格である。現状まだ突っ込んだことは言えないが、この分布域が後に見る星宮の分布域と被っていることもあり、要注目なのであります。なんと言っても「ミカヅキ」の神なのですよ。うふっ。

ちょっとメモ:実は「三日月神社」は九州にもちらほら見えるのだけれど、大分県中津市の下の伝説の三日月神社がねぇ。なんと「下毛郡」の話だと言うのだ。むぅ。

岩洞山久福寺と三日月神社
(中津市公式webサイト)

これも街中に、小さな「孫太郎神社」が鎮座されている。お稲荷さんのようなものだが、秀郷が勧請したという伝のあるお社だ。秀郷の八代孫、足利家綱・孫太郎が再建したので孫太郎神社と言う。
孫太郎家綱は歴史上さほど有名というわけではないが、佐野では重要で、あちこちに名が出てくる。例えばあとに参る朝日森天満宮を筆頭に天満宮がたくさんある土地なのだが、これは孫太郎が一時期太宰府に流罪となっており、その時以来菅公を崇敬するようになったことが発端にある。
また、怪力無双であったと伝わるが、『田沼町史』によると、「足利家綱は、身長が2,5メートル以上もある巨人で怪力の持ち主だった。」と語り継がれて来たようで、もはや人間の範疇ではない。おそらく秀郷の「俵藤太」の側面を引く伝説を持つ人物だろう。

そしていよいよ大物「天明宿星宮神社」へと参るのであります。二年も前から「栃木の星宮ガー!」と騒いでいたのに、ようやくのスタート。何たるスロースタートっぷり(笑)。
なんとなれば栃木県下だけで法人格社の星宮が158社・境内社12社の170社あり、かつて星宮と称していた社を含めると261社にものぼるのというのである(尾島利雄『民間信仰の諸相』)。
しかも頼みの綱の、おなじみ白水社『日本の神々』シリーズが見事にスルーしてくれちゃているので(笑)、一体どこから手をつけたもんかとなるのも宜なるかな。しかし、その星宮群にもようやく着手なのであります。
さて、その星宮の中でもここ天明宿星宮神社は相当際立つ一社。この地へは御遷座で、以前は東方の富岡という所に「七ツ塚」という「北斗七星の配置の塚」があり、そこに祀られていたというのだ。後に見るが「七ツ塚」は今はもう何もない。で、詳解すると煩雑なので補遺に譲るが、下野星宮群は虚空蔵信仰の流れであって、妙見信仰である例は少ない。ここ天明宿も神仏分離前は「虚空蔵さん」であったのだけれど、一方北斗を語るという興味深い側面を持っているのである。
今このお社は邇々杵命を主祭神とし、磐裂神・根裂神を配祀する。星宮の流れとしては、この磐裂神・根裂神を祀ることがポイントとなるので覚えておかれたい。
本社殿はご覧のように物凄い彫刻のほどこされた見事なもの。天明宿及び、旧佐野町の氏神として崇敬されて来た。
また、境内社に「星宮厳島神社」があるのだけれど……うひょひょひょひょ(笑)。何という立派な巳さんでありますことよ。これはまた相当力の入った一品であります。
境内には「佐野染色職工一同」という碑も。このお隣が境内社の「機殿神社」なのだけれど、そういう線の信仰も入って来ているのだね。
ところでやはりどうも門柱が多いのであります。星宮さん入り口もそうだけれど、旧社務所の前にまで。載せなかったけれど、三日月神社さんの車道からの入り口にもあった。ふくせん?どうでしょね(笑)。
こちらも星宮さんの境内社扱いだと思うのだけれど、庚申さん。一面が真っ赤に塗られておりますな。真っ赤な青面金剛とはこれいかに。
星宮社地はこのような石垣の上にある。お城のようだね。実際山城が禁止されて今の駅の北側に移った佐野の城は、突如の佐野氏改易という事態となって完成しなかった。ここ星宮も城の一部となるはずだったのだろう。
で、ここでまたしても開館直後の図書館へ(まだそんな時間なんです)。一時間くらいでスパーっと必要な資料をかき集めて……というのは中々魅力的なスタイル。んが、すげえ時間かかって出てきたらお昼になってしもうた……orz
この方法はもっと修練が必要だ。コピーシステムの問題という気もするが。ともかく、思わぬ巻き進行となりまして、予定を変えて駅前に戻ってレンタサイクルでチャリゲットのチャリモードにシフト。知ってて良かったレンタサイクル(笑)。
そしてチャリで戻ってきますと、何と星宮さんのすぐ裏手に次の天満宮さんの一之鳥居があるのだ。これ撮っているすぐ右方は星宮さんの社地の後端である。こういうのも珍しいわね。

一之鳥居から生活道(両毛線を渡る)、二の鳥居、ながーい参道を来まして、ここが「朝日森天満宮」であります。お気づきの方はそのとおり。すでにこのお名前に二重の流れが入り込んでいる。
出流原の竜神」で少し紹介したが、この地は朝日長者伝説が伝わる土地だ。ここに天満宮が遷って来る前、それが朝日森だったのだけれど、おそらく朝日長者伝説にまつわる森だったに違いない。
唐沢山の北東、岩船町小野寺にはおなじみの小野小町の墓もあり、これまで何度か出てきた古代小野氏と朝日の巫女の流れが東山道を通った、まさにその痕跡ではないかと思われる。

天満宮自体は先に見たように、孫太郎家綱が唐沢山城の守護として勧請したもの。もとは唐沢山にあった。そしてこれも山城の解体と同じくして平地のここへと遷られたのであります。実質佐野氏の総守護ですな。

天神さん故、牛さんがおるのです。新しいなで牛はブロンズとな。なで牛ってのは自分の体の悪い部分と同じ牛さんの部分をなでると治るという奴であります。
こちらご先代石製。モー。なで牛はやはり石でなでられつづけて丸くなってゆくのが味のように思うがね。
境内社もたくさんあるけれど、流れで一社見ておこう。三峯さんがひと際立派に祀られている。で、見えますかね。ちゃんと件の「狼狛」もおるのですよ。
耳まで赤く塗られちゃって、半ばお狐さんカラーと化しているけれど、狼さんであります。
道行きに。お地蔵さんですかな。道辻にはあまり石造物などを見ない。庚申さんも盛んなようなんだけどね。神社にまとめられている率が高い、かな。まだ街近くだからかな。
また道行きに。お屋敷神(ウジガミサン)は、お稲荷さんになっている例が多いそうな。関東の田んぼ地帯は大概そうだけどね。だから道脇の小さな神さんとしてお稲荷さんだけは多い。ところでこのお稲荷さんの祠内、お水なんかは綺麗に替えられているのだけれど、榊はなぜか枯れたまま二重三重に押し込まれていた。面倒とかでなくわざとそうしているように見えたが。「巣穴」のようにする、なんてのはあるのか。

そして堀米という所の「八幡神社」さんへ。天王山という丘の中腹に鎮座される。もともとはこれまた藤原秀郷が山城国男山八幡宮(石清水八幡宮)を勧請したという古い由緒を持つ所。
こりゃー、また分かりやすい割拝殿でありますな。石垣と組み合わさって城門のようだ。こう「ぶっちゃけた」作りをされると、そのもっとも重要な意味というのがよく分かるような。やはり、衝立、だろう。
登って境内から見るとこう。右は舞台なのかね。人が何かするには狭いような……文楽でもやるのかね。
先からこの地は佐野の城が遷るにあたって関係神社も遷ったという話をしているが、ここもそう。秀郷が勧請した地は唐沢山城の鬼門の護りにあたる現・岩船町の小野寺のほう。春日岡に城が移った際、その鬼門にあたるこの天王山に八幡も遷った。
ちなみに、春日岡の新城の裏鬼門(南西)の護りとされたのが、惣宗寺、すなわちかの有名な「佐野厄除大師」であります。惣宗寺が天王山にあったと書いたものもあるんだけどね、なんか誤解だろうね(惣宗寺が春日岡にあった)。
で、ですね。この堀米八幡さんは、本社殿後背にさらにもう一段丘状に盛り上がっていて、見えますかね、写真奥の方にもお宮の屋根が見えている。手前赤いお宮は境内社をまとめたもの。
こんな風に「何か」が祀られているのですな。各資料見てもこのお宮が何か分からない。天王山というのだから地主の神が天王さんとして祀られているのかね、と思うと二間社なのだ。しかも意味ありげに扉の前にごつい石が置かれていたりする。
この奥の社から八幡さんを見るとこう。本社殿後背に何かを祀るのは八幡さんに多い気がするが、ここは一体何を祀っているのだろう。この地の塚の祀りに関係して、かなり気になる。管轄している御神職じゃないと分からんかな。
はてさてと首をひねりつつおりてきますと、最初の鳥居の上に。願掛けに石投げて乗っけてんですな。しかし上の端の方とか落ちて来たらシャレにならん大きさのような?
その鳥居の前に弁天さんが祀られている。昔は神池とかあったんかね。

ところでこの八幡さん。実は大層「ふおおぉ」という狛犬さんがいる……はずなのだ(下サイト様参照)。

八幡宮
(webサイト「神社探訪・狛犬見聞録」)

みつからねぇ!とガッカリモードになってしまったのだけれど、良く読むと遥か南の両毛線のさらに南だったらしい……orz
そしてお次は犬伏(いぬぶし)という所の鷲宮神社さんなのだけれど、ここから話が長くなる(笑)。
昔は佐野市の辺りはより広く安蘇(あそ)郡だった。2005年まで部分的に安蘇郡は残っていた。そしてこの安蘇郡に関し「名儀は麻緒の略か」と吉田東伍は言う。『和名抄』の時点でそういう認識があったようだ。即ち麻の産地ということである。
この位置というのは麻・忌部・鷲宮(さらには日本武尊伝説・土師氏と古墳など)という流れを追う上で非常に重要なのだ。図に見るように武蔵鷲宮と下野鷲宮のちょうど間くらいに安蘇郡は位置する。
……の、だけれどねぇ。あれぇ?この参道は……もうまったく人の手が入っていない状態なような。ここでぷち藪漕ぎですと?

改めまして犬伏の「鷲宮神社」。うーん、これは破れ宮の一歩手前だ。どうしてこうなった。
先に見たように、ここは大変重要なお社なのに。しかも、天日鷲命を主祭神とし、大己貴命・天太玉命・少彦名命・武夷鳥命を配祀と、忌部的な面と武蔵鷲宮のような出雲・土師的な面が両方見えるところなのだ。
おんまさんの像もあって、かなり振るっていたお社のはず、なんだけどね。うーむ。まー、唸っていてもしょうがない。麻と忌部の話は南から北上して来る話だが、ここはもう一つ東山道を東西に結ぶ伝説の語られる所でもある。

これは「犬伏」の地名の由来として語られる。『栃木県神社誌』の鷲宮の稿には「また、疾風(しっぺ)太郎という犬が、白ひひを退治したという人身御供伝説がある」とある。信州光前寺の早太郎伝説同様の話が語られて来たのだ。犬伏の白ヒヒは「八幡さんの山から降りて来て」と語られるものもあって、先の堀米八幡の山にいたのかもしれない(昔はかなり広く皆犬伏だった)。
この系統の話は山形の犬宮の伝説が近江の方から連なっているのじゃないかという、もう一年以上前の話題が発端なのだけれど、中間信州光前寺に続いて、この犬伏にも同系話があったということなのだ(あたしはしつこいのです……笑)。疾風太郎は近江より連れてこられた犬だったともいう。
過去ここに参拝された方は一様にこの境内社がその伝説の犬を祀ったお宮なのじゃないかという感想を抱いている。資料には犬を祀るお宮があるとはないけどね(しかし、伝説に因んで飼い犬・闘犬を参拝させる習わしがあったとはある)。
これが「犬宮」じゃないのかと皆思うのは、お宮の前にこのようないかにも「犬」という狛犬さんがおるからなんですな。この状況では何を確認するというわけにもいかなかったが。
ともかく、繰り返すけれど、ここ犬伏鷲宮は麻と忌部の南からの流れと、疾風太郎の伝える東西の流れが交錯している大変に象徴的なお社なのであります。正規の狛犬さんも悲しげだけれど、佐野市、何とかしていただきたい。
無論帰りもぷち薮漕ぎ。すげえ水っぽくてね、マムちゃんとか「ビャア!」とかとびかかってくんでないかとちょっと戦々恐々でしたのことよ。

ところでこの鷲宮さんのすぐ南にもう一社鷲宮神社がぐーぐるマップ上に見えているが、神社はない。そこは「大枡塚古墳」という古墳で、墳丘上に祀られる石祠が鷲宮さん、ということ。

大枡塚古墳
(webサイト「関東と近県の古墳めぐり」)

この大枡塚古墳は栃木県下最大の方墳という興味深いものなのだけれど、民家の敷地であるので(門の内に碑は見えていたが)、あたしは通りから眺める程度で。森中まで分け入っている模様は以下サイト様記事など。

栃木県佐野市③大枡塚古墳
(webサイト「ヤマポン総研」)
犬伏から南に下ると富岡(かつては皆犬伏だったが)。ここに、天明宿星宮の元地であったという「七ツ塚」があったという。今も小字として七ツ塚があるというが、どこだかは分からなかった。道行く婆ちゃんとかに訊いても「イヤーわかんね」とのことで。すでに塚が消滅していることは分かっているので、それ以上詳しく探さなかったけどね。
富岡辺りは写真のように平地で、塚が並んでいたら目立ったでしょうな。七ツ塚は星宮以外の伝説も色々絡んで来るのでちょっと覚えておいていただきたい。

南下しまして鐙塚(あぶつか)という所の「星宮神社」へ。地図上栄町のようにも見えるが、鐙塚星宮はこのあぶつか公園のお社のことで良いのであります。で、ここから今度は護良親王伝説がはじまる。 相州相模原の方で親王を斬った淵辺義博が実は護良親王を殺めておらず……という話を見たが(「高座行・相模原」)、それはあくまで土地の伝で、護良親王は鎌倉で殺害され、墓もある。

護良親王の墓(webサイト「鎌倉手帳」)

そして、親しかった南の局(親王の子を身ごもっていたと言う)がその護良親王の首をうばい、ここ佐野の地まで逃げて来て埋めたというのが佐野の伝説であり、埋めたと伝える場所の一つがこの鐙塚。で、この系の伝説は『神社誌』では完全にスルーされているが、しきれていない所もある。
鐙塚星宮神社は御祭神が磐裂神・根裂神と典型的な下野星宮の態なのだが(しかし虚空蔵さんであったという伝がない、後述)、配神四柱の中に「車塚神」の名が記されている。車塚とは鐙塚より西南西五キロちょいの上羽田という土地にかつてあった塚で、そこは生前の護良親王が吉野からおしのびで遊びに来ていた所だったという由来を伝えている。鐙塚星宮の車塚神とは護良親王のことであるに相違ない。
龍学が南北朝となんか関係するのかというと、今の所特にないのだけれどね。相模原の方で見た伝説からのご縁ということではあります。配神ゆえ外に祀られてはいないだろうなぁ、とは思いつつ。気になる祠。
こちらは境内社、浅間さんの塚だけれど、この地の塚信仰とどういう関係になるのかしらね。
毎度おなじみスバラシイ社叢……というのではなくてですね(笑)、今回は文字にするならば「みーんみーんみーん、じーじーじーじー、しゃおしゃおしゃおしゃお……」という感じなんであります。暑いなぁ、この辺は。
さて、鐙塚星宮の話はまだ一幕ある。この東の方に「三毳(みかも)山」という独立峰(丘陵?)がある。

しもつけぬ みかもの山の こならのす
     まくはしころは たかけかもたむ

と『万葉集』にも見える歴史のある山。
ここで「養老四年、蝦夷が反乱を起こし、多治比真人県守が持節征夷大将軍となる。将軍は出征の途上、この三毳山山頂に日本武尊を勧請して戦勝を祈願……云々」と藤岡町「三毳神社」の由緒にあるのだ(『栃木県神社誌』)。市原行の「将軍田道」のことを思い出されたい
これはまた長くなるので端折るが、どうも何か繋がっている。しかも、三毳山には、まつろわぬ民(鬼)がおり、日本武尊がこれを討ったという伝説もあり、この鬼が「天香々背男」であるとされ、山の三方に祀られた、という話もあるようなのだ(詳しくはまだよく分からない)。
岩船町の「三鴨神社」、藤岡町の「三毳神社」と、おそらく佐野市側に三社目があったはずだという。今実際天香々背男の名が確認できるのは三鴨神社(相殿)だけだが、下野星宮は香々背男を祭神とする例がままある。鐙塚星宮は虚空蔵さんであったという伝がなく、位置的にもその社であった可能性は高い。
これが、下野星宮に関する各種論考の弱い所である。下野星宮は日光修験の広めた虚空蔵信仰である、といい、それは確かにそうなのだが、これだけだとこの「まつろわぬ民」の鎮魂の社であるという星宮にまま見える傾向の説明がつかない。今はしっかり考えるだけの材料がないが、三毳山にまつわる伝説と星宮との関係は、この点に大きな影響を及ぼすだろうと考えている。おそらく、ここからもまた常陸の宿魂石や田道の蛇瓶に通じていく何かが伸びていくのだろう、と。
鐙塚を後にしまして、行く道に。猿田彦大神、とある。やはり道祖神さんポジションは猿田彦どののようだ。まぁ、庚申さんと連絡も取れて良いのかもね。

そして越名町の「藤田神社」へ。かつては「藤太大明神」であったそうな。名のとおり、秀郷勧請の伝のお社であります。駅の方は祭で大騒ぎだったが、こっちは静かでありますな。
鹿島・香取・春日のお社、という所。特に何だという所ではないのだけれどね。龍学的に「藤太大明神」をスルーするわけにはいかぬということでのご参拝。お寺のようだけれど、すぐお隣「金蔵寺」と同じ造作で実質管理下なのかも。
額は古いですな。「藤太」だったら感激したのに。藤太神社のが良かったんでないのか?ま、御祭神が秀郷というわけではないので紛らわしいが。
社殿背後には庚申さんなどがずらり。やはり庚申信仰は盛んなようだ。道端では見ないが。
しかしまたこんなのがあるのだね。下総の方で似たような台状の庚申さんを見たが、そういうものがあるようだ。何かお供えをする関係なのかしら。
狛犬さんも古めかしい。どうもちょっとぼろけても護り続けるのが佐野の狛犬さんであるようだ。ていうか暗いんですが、時間的なのでなくて黒雲が。えぇ、ゴロゴロ空が鳴り出してレンタサイクルのあたくし超ピンチな感じなんであります(笑)。

だがまだあきらめぬ。あと一時間だけ保ってくれ、空よ、ということで馬門町の「浅田神社」へ。こちらは「麻のコード」の方のキモのお社であります。
御祭神は大己貴命と際立った所はないが、景行天皇五十六年の創建であると伝え、「いかにも」な年代を背景としているお社。吉田東伍は「郡内馬門村には麻田明神あり」と記しており、ここのことに相違ない。すなわち、麻の社である。
当時「天命郷」が設置され、その総社であったとされることから「天命惣社」と扁額・鳥居などにも書かれる。んが、この天命郷が天明宿のことであるとすると、あまりにも中心からは遠い。
あたしは「総(ふさ)の社」であったのが「総社(そうしゃ)」に誤ったのではないかと思う。いずれにしても安蘇郡が麻の土地であったことを伝える古社には違いないだろう。狛犬さんも古めかしい。やはり直しながらがんばり続ける狛の土地だ。
ここでスペア回収。阿留摩耶天とか御嶽とか天狗さん的な一画なのだけれど、この注連柱。注連柱に相違あるまい。この日見て来た「門柱」とこの注連柱が同じ感覚の設えである、ということがここで分かった。

そして……途中雨に降られちゃったのだけれど……予定の赤城神社さんとかはあきらめるも、どうしてもあと一社お参りせねばならぬ所があるのだ、ということで駅へ戻りつつ浅沼町「八幡神社」へ。
ここは藤姓足利氏の分流・阿曽沼氏の城だった所。八幡はその城の守護社ですな。
ここの阿曽沼民部五郎なる人物が、先の護良親王の首を運んだという南の局をサポートしたのだといい、この伝では親王の首はここ浅沼に埋められたのだと伝えるのであります。
そして、これも境内由緒や『神社誌』には全く記述がないのだが、裏手の境内祠のこの五社の真ん中、これが「大塔宮社」なのであります。大塔宮とは護良親王のこと。

いやー、相模原での伝説を見て、こちら佐野に護良親王の首塚伝説があるのだということで、これはお参りせねばなるまいという感じだったのだけれど、なんとかまわることが出来ました。はい。実はこの話、南の局が親王の子を懐妊していたという所から、佐野に南朝の血が伝わっているのだ云々、とかスゴイ話にもなってゆくのだけれど、それはさすがに守備範囲外だろう。
しかし、少し関係するかもしれない伝としては、護良親王を護っていた七人の家来が護りきれなかったことを悔いて親王の子が佐野で生まれるのを見届け自害し、これを葬ったのが先の「七ツ塚」である、という話もあるそうな。鐙塚にしても星宮の系に護良親王伝説が絡んで来ることは必定なわけではある。

という感じで。結果的には豪雨、なんてことにはならなかったので、もう一社二社まわっても平気だったかもなのだけれど、この辺で自転車をかえして祭で大騒ぎの佐野駅をあとにしたのでありました。一体何の話だったのか訳が分からなくなっている勢いの佐野行でありますが、一番ぐるぐるしているのは実際回って来たあたしであります(笑)。それは徐々に整理するとして、ひとまずレポートはこれにて。翻弄されるログさんの巻でした。

補遺:

下野星宮の多くは虚空蔵さんだった。14世紀頃から広がりはじめ、明治の神仏分離令をもって皆一斉に「星宮神社」になったのである。この点は概ね間違いない。故に、古代中世に「星の社」が群れをなしていたということではまったくない。まず、この点を気をつけたい。
また、その虚空蔵信仰の広め手が日光の修験者たちであったことも概ね了解されている。興味のある方は、尾島利雄『民間信仰の諸相 ー栃木の民俗を中心にしてー』(錦正社)などを参照されたい。
しかし、修験者たちも何もなかった所に虚空蔵さんを何百も広め、定着させた、というわけではなく、これが難しい所だ。『民間信仰の諸相』や『佐野市史 民俗』では、もともとあった水神信仰にオーバーラップさせる形で広めたのだろうと見解している。
虚空蔵信仰およびこれを引いた星宮信仰には「鰻の禁忌」という際立った特徴が良く見えるのだが、この見解によれば、もともと鰻を水神(田の神?)の使神として神聖視する信仰があり、そこに接続させる形で「鰻は虚空蔵さんのおつかい」というモデルが確立していったのだろう、ということになっている。
すなわち、全国に見る「虚空蔵さんの鰻の禁忌」は下野・日光修験が「発明」したものが広まったのだ、ということになる(同じ発想で各所独自発生したのだ、と考えれば別だが)。
この話の妥当性はさて置き、一方の神仏分離後の星宮の多くは磐裂神・根裂神を祭神とする件。これは「国土開拓の神」であることを意味し、これも勝道上人にまつわる鹿沼市の式外(三代実録):加蘇山神社(通称・石裂山神社)が根本社となるという。

加蘇山神社(webサイト「玄松子の記憶」)

ナニユエに虚空蔵信仰が国土開拓になるのかというと(ちょっと面白いぞ)、律令制以前の領主であった国造(くにのみやつこ)を「こくぞう」と読み、これが虚空蔵(こくぞう)と重なることから……であるという。はっはー。そいつは気がつかなかった(笑)。
んが、甲信地方に見るように「サクの神」とはまた古くから国土開拓の神であった。「コクゾウさん」の語呂合わせのみにその理由を求めるわけにはいかない。
ともかく、このような背景で広がった下野星宮群であり、「星宮」とは言うものの、星そのものを信仰対象とするような民俗はあまり見られない。150〜200の社中ほんの数例に見るだけである。しかもその数例も、虚空蔵菩薩が明星と結びつくからであるか、同じく関東で流行した妙見信仰と交雑しているか(天明宿星宮神社などはこの例)であり、下野星宮独自の星の信仰というのはなきに等しい。つまり、あまり「星」のイメージに引きずられないように見てゆくべきだ、ということである。
それではいったいどこに「メインステージ」があるのだ、という話になるが、それはこれからの課題である。例の200km感覚でいったら、最低20社くらいは代表的な星宮さんに参って、話はそれからだろう。しかし、すでに幾つかのカードは手にしている。
おそらくはこれまでの各地で見て来たような「東国感覚」にこの星宮群のベースも収斂する。常陸の宿魂石を追っている目、第六天とダイダラボッチを追っている目、そういった目が下野星宮解題にも有効なのじゃないか。そう予感している。

両毛行・佐野 2012.08.11

惰竜抄: