上総行・市原

庫部:惰竜抄:twitterまとめ:2012.08.04

今回は上総國・千葉県市原市に出没しております。現状可能な最高レベルの密度と相成りましたな。そもそも市原というのは神社が多い。全体では左マップのよう。ほぼ法人社で実はもっとある。ぐーぐるまっぷが200ポイントを越えると一面表示できなくなるので、『千葉県神社名鑑』から全く由緒など追えそうもないお社を20社以上引いてこれである。
そんな土地を朝8時前に着いて日没まで歩きつづけたというのだから、そりゃ密度もウナギ昇ろうものという話なのですな。
では、さっそく最初の神社さんへ。

内房線五井駅で降りまして、すぐ駅近くに五井の「八幡神社」が鎮座されている。着いた途端霧雨が降り出して、あたくし暫しこの神社さんで雨宿りモードのスタートと相成りました。
神社で雨宿りというのは良いもので。土曜日のちょっと遅めの街の起き出す時間で、部活へ向う中学生が突然の雨で「ふおおぉ!」と駆け出したり、神社前の飲屋の母ちゃんが出ていて「あれ、雨だわ」という顔して空を見上げ、あたしに気がついて「あらあら、雨ですね、おほほほほ」となったり。鎮守さんは千年とかこういう光景を毎日見てるわけですな、という「鎮守さん目線」というのがそこはかとなく感じられたりするのであります。そんなことを思っている間に雨も上がりまして。
ここ五井の八幡さんは、石橋山で木っ端みじんとなって海上敗走した源頼朝が、房総に上陸した後、当時関東最強の勢力を持っていた下総の雄、千葉氏・千葉常胤に出迎えられた場所であると伝えている。
頼朝の半ば破れかぶれの旗揚げは千葉氏が付く事により急転するが、まさにその歴史の転換の場がここであったということになります。御本殿は前面がふさがれてるけれど、側面背面にも唸る意匠がちらほら見える立派なもの。
タレ狛(違。昇り狛下り狛とかになるのか。
このお社にはこの日気になる幾つかの傾向の多くが揃っていたので、先に順番に予告として見ておこう。まず立派な富士塚を良く構える土地である。
東京近郊の人にはおなじみだが、立派な富士塚はこのように実際の富士山周辺の要所を反映して作るのですな。
また「祓戸大神」を祀る。柵が囲っているが、古札などを納める所として祓戸の神を祀るらしい。
中央は大六天。この日の一方の主役であります。写真左は出羽三山。これも多かった……と、並びを見ると上野・邑楽郡で見たラインナップと似てる気もする。大六天は邑楽では見なかったが。
そして狛犬さん。あはははは。勝手に「ポチャ狛」と呼んでいるタイプだ。丸い。
後ろから見た方が分かるかしら。どてらを着込んで丸まっているような感じである。このあたりが行く先々のお社で繰り返される要素なのであります。

お次は五井の「大宮神社」へ。國常立命・天照皇大神・大己貴命・大山祇命・埴山姫命とそうそうたる顔ぶれの神々を祀る、広域総鎮守の趣のあるお社。
創建は日本武尊東征の折に尊が大神を祀り云々という伝。そして、頼朝が房州から東上の折に奉幣、と伝える。ここが重要で、市原の神社は頼朝と日本武尊の足跡を重ね伝える神社が多い。これも後々色々出てくる。
ここも社頭脇に祓戸の神が。古札納所はどこの神社にもあるが、祓戸の神をその脇に祀るというのは今まであったかな。見た記憶がないが。
またこちらも大きな富士塚が。鳥居の奥で見えにくいが、先の八幡さん同様溶岩で山が作られ、さらに森と化しております。
本社殿後背脇に子安さんが祀られていた。木花咲耶姫を子安の神としているが、富士塚とはまた別らしい。写真右脇の岩が「子持石」として奉納されているが、どのへんが子持なんかね。
境内社でも別格という感じで「大杉神社」が祀られていた。あんばさんであります。春の祭りに併せてこのあんばさんの「阿波祭(あんばまち)」が行なわれる。というより阿波祭が主であるようだ。あんばさん信仰が強くあった土地なのですな。
あんばさんが大ブレイクしたのは近世のことだが、この土地は古代阿波・安房の流れが一方で武蔵へ、一方で常陸へと進んだ経路でもある。もとより馴染みの神さまだ、という感じはあっただろうか。
行く道に。「大六天公園」とな。小字が大六天だったのだろうね。
第六天・大六天の祠が近世武蔵・相模に山ほどあったといわれるが、これは『新編武蔵国風土記稿』『新編相模国風土記稿』という化政〜天保あたりに編纂された地誌からカウントすることができるからだ。しかし、武蔵相模に限らず、そこまで詳細な地誌が編纂されなかった房総や常陸も同じように第六天・大六天をたくさん祀っておったのだろうね、というのは歩いていてよく分かる。ここも、そのような土地であったのだろう。
そして、この日の予定は市原市立図書館にも寄っちゃおうという勢いのものでして、開館と同時に図書館へ乱入という流れ。立派ですな。コピー機がですね「千円札が使える」のですよ。感動しちゃったね、あたしは。
とうことで小一時間ほど図書館で各種資料を大急ぎでコピーしまくりしまして、この日の狙いの伝説の本文もゲットなんですよ。ぐへへへへ。ハンターズログはカズサノデンセツをてにいれた!イチハラシシをてにいれた!……ハンターズログのイチハラレベルがアップした!

また歩き出しまして。お次は「阿波須神社」さんであります。今は田んぼを見守る小さなお社だけれど、ここも頼朝伝説の社。頼朝が安房より上総を経て東上の折に阿波須権現を勧請したと言う。
天乃比理刀咩命を御祭神とする。忌部祖神の天太玉命の后神ですな。この伝が、頼朝の経路の意味そのままなのか、安房忌部の移動を下敷きにしているのかというのは難しい所だが、二重の目で見ていける楽しさというのはあるだろう。
御神紋は桐。この紋もありすぎてここから意味を辿るのは難しいですなぁ。笹竜胆とかだったら「ほほう!」となっていたが(笑)。
このような小さなお社でも、富士塚完備。鳥居もあって「なきゃいかん」という感じ。きっと村里の地主さんたちが競ったんだろうね。
Di di di, Di di di...... Oh my, oh yeah, Let me run for today. 湘南「エボシライン」に対抗する上総ラインはどんなのが出て来るのだろうね。
この日は雲さん百面相の空。ぐおおーんと。しかし、雲の奥行きというのは撮影し難いね。もっとこう、おー!おー!という感じだったのだけれど。

そして村上という所の「白幡神社」へ。白幡とは源氏の白旗のことなのだけれど、この土地はシラハタ神社がたくさんあって、日本武尊を相祀ったり、八幡化する側面もあり、白幡と書かれることが多い。
村上白幡神社も頼朝伝説の社で、再起を図る頼朝がここに「白旗の松」なる松を植えたのだと伝える。御祭神は日本武尊と源頼朝。オモチロイですねぇ。
ここもこのように子安神社さんが別格という風に祀られていた。これがこの土地の子安信仰の形なのだろう。
境内古そうな松はなかったが、この由緒の後ろの松が何代目かの「白旗の松」として育っていくのかしらね。
行く道に。田端のお札というところなのだけれど、このように藁を筒状に束ねてそのまわりにお札を垂らすらしい。見たもの皆お札が溶けちゃっていって「完全体」にはお目にかからなかったのだけれど。五月あたりに来たら見られるのかな。
田くらげ。
田んぼを抜けて次の杜へ。ていうかあの先の杜(右側)は古墳じゃないのかね。うーん。いつも見ている古墳サイト様には見ないが。
近よるとこんな。まわり一周してみたが、私有地のようで入る道もなかった。看板などもなし。下って作られた里の境の塚とかなんかな。

市原の古代から現代を支える養老川の畔に「宇佐八幡神社」が鎮座される。貞観年間に宇佐八幡を勧請と頼朝より古いが、ここも頼朝が深く崇敬し云々と「頼朝の八幡」であることを語る。
御社殿も社地もピカピカだが、これは少し隣に遷座されているため。目の前を館山自動車道が走っているのだけれど、これに元社地がぶち抜かれる格好になってしまったので遷られた。
しかし、ここは養老川の堰のすぐ前であり、川鎮めのお社としての性格が強く、川から離れた所に遷るわけにはいかなかったのだろう。それですぐお隣に遷られたのですな。社地の北側には旧社殿なども保存されている。
さらにその奥には出羽三山の塚山が。さっきのお札を立てる竹がこのように。どうも出羽三山に関係して良く立てられているようだ。
ここの狛犬さんもポチャ狛タイプ。うーん。これがですねぇ。
あたしこれまでにこのタイプを見たのは、伊豆河津の見高神社さん(左写真)だけだった。で、伊豆の道祖神さんが丸いので、その影響なのかしらと思っていたのだけれど、市原にこうあると違うかしらね。むしろ市原の方の流れをくむ石工が見高さんの狛犬を作ったのかしら。
宇佐八幡さんの富士塚は土盛り。現代になって富士講もないので、観光目的でもなければかつての富士塚のような手の込んだものは作れない、ということでしょうかね。しかし、「塚信仰」が色濃い土地だ、というのはこの後にかけて重要である。
八幡さんをあとに養老川を渡る。この先が国造時代は上海上国だったですな。なんか水がないですが、これはすぐ上に堰があるため。この辺りは川を跨いで廿五里(ついへいじ)という変わった土地の名なのだけれど、これも頼朝によると言う。
頼朝が鎌倉が立ち上がったあとも先の宇佐八幡神社を篤く祀り、この土地が鎌倉より二十五里にあることから地名を廿五里としたという。東京湾をぐるっと回る道のりが確かに100キロほどだ。当時は当時の一里塚なんかが並んでいたのだろうね。
今回は要するに養老川のかつての河口にあたるデルタ地帯を巡っているのだけれど(今は海はずっと先になるが)、故に道行きの風景は概ねこんな。カントリーロード……ふふふンふ〜(良く知らない)。
なんとなく渡った橋が「塚之台橋」だった(例によってどこ歩いてるのだかよく分からなくなっている)。この辺の西の方は白塚という地名のはずだ。川沿い低地にも「塚」が多かったのじゃないかね。やはり。
ここまで道辻の神様はあまりないのかね、という感じだったのだけれど、ないわけではないらしい。なんだか分からんが。お屋敷神とは違うだろう。

そして野毛という所の「白幡神社」さんへ。ここの白幡さんは、頼朝の伝もなく、大鷦鷯命(仁徳天皇)を祀る、普通でいったら若宮八幡という神社だ(弥都波能売命を併せ祀るがこれは合祀)。
んが、もとは「白旗神社」であったといい、源氏の社という創建だったのだとは思われる。まだ「シラハタ神社群」というアプローチをするかどうか分からないが、やるとしたら八幡化の例として重要となるだろう。
しかしデスな(笑)。お分かりでしょうかこの御社殿。壁面がプリントなのだ。あっはっはっは。この発想はなかった。中央扉の意匠も「絵」なんですよ。出来合のデータなんかないだろうから誰か描いたんだろうね。
一方で旗竿の覆い屋根のところには伝統が生きている様子も。見えますかね。竿の上に藁がずっと乗せられていて乾燥中。
こんな。次の注連縄になるのでしょうな。藁の干し場所としてこの旗竿の覆い屋根の作りは結構良さげなんではないかしら。
行く道に。これは「何か」でありまするな。浜岡行で杉の葉を魔除けにして云々と言っていたのはこんなものだ。悪魔祓い系かな。あんばさま?夏にねぇ。千葉だと「つく舞」の柱を小さくしたようにも見えるが。
また行く道に。小さな神さまたちは公民館に集まっていた。地図で見るより広いじゃないのという道路が多く、道路拡張が現在進行形で盛んなのだろうかね。

そして来ましたは式内社「島穴神社」であります。この大鳥居は何とも言えぬ辺鄙な所にあるが、写真左の白いガードは新道がせまって来ている工事現場。そのうち大通りが前を走ることになるようだ。
島穴神社は同じく式内の姉埼神社との組み合わせで風神・志那都比古神を祀るが(姉埼が姉・后神を祀る)、来て見ての印象は水神の社である。参道は二本の川・用水を渡る。
この橋も意匠ではなく実際用水を渡っている。少なくとも近世からこちら、付近の人々にとっては水神さまだったのじゃないか。
島穴・姉埼の両式内社は日本武尊伝説においては有名なセットのお社。暴風に悩まされながらも東京湾を渡った尊が、龍田の神に感謝し級長津彦命・級長戸辺命を勧請したというのが創建伝である。
後、景行天皇が尊の事跡を巡った折に尊を合祀したと言う(島穴神社はさらに倭姫を祀る)。ともかく表看板としては日本武尊伝説のお社ではある。さすが式内社という御社殿であります。今回タイトルイメージの竜像もここのもの。
拝殿の「嶌穴神社」の扁額は松平定信の書になるそうな。旧県社でもあり、ずっと「重要社」という感覚であったのであります。
御本殿の彫刻は細かさも極まるが空ける所は空けるという感じで大変上品であります。文化財などではないようで、そう古いということもないようだが(近世に再建)、力の入った造営。
狛犬どのも奇を衒った造作を排すも、堂々とした不二の印象の残る一品。なんだか料理番組の解説みたいになって来たな(笑)。
そのような式内の古社・大社でも富士塚完備が市原スタイル。いやもうここ島穴神社さんはステキな杜すぎて(しかもあたししかいない)、ちょっと長居しちゃいましたな。良い陽気にはぜひ訪れたい一社であります。
さて、そんな島穴神社さんなのだが、ここは日本武尊とはまた別の非常に興味深い伝承のあるお社。現神社をあとに、これからその伝承を追ってみるのであります。
「島穴」と言い、現地名の島野もここから来ているのだけれど、実は往古本当に「穴」があり、そこから風が生まれ出てくるので風神を祀った、ともされているのだ。そして、その穴があったという旧社地(祭場?)は今も残されている(白水社『日本の神々』/菱沼勇・梅田義彦『房総の古社』等)。
むかう途中には御神田が(神饌田という)。左の杜が島穴神社社叢で、すぐお隣ですな。御神田といえばのでっかい幣が立っている。ここは古代米とかではないようだ?
「穴」があったという旧社地は、類書では行くのが大変だとかなんだとか書いてあるけれど、要はこの内房線を挟んだ写真右側の小さな杜のことである。これが大変てどんだけインドア派なんだという(笑)。
島穴神社さんの裏から内房線は渡れないので、この航空写真のようにぐるっと回る。踏切を渡ったあとは田んぼの脇のあぜ道を直進(行くならあぜ道を崩さないように注意!)。
すると石碑と石祠が見えてくる。あぜ道からは確かに道もなく草生えまくりなのだけれど、あたしにとってはどうということはないので行くのであります(笑)。
ここが伝承の土地。かつては塚であり、そこに風の生まれる穴があったという。前掲二書ともこれは古墳の石室が開口していたのではないかとしている。おそらく、その通りだっただろう。
今は塚といったらそうも見える、というくらいで穴もないが。しかし、このイメージはかなり重要なモチーフを含んでいる。
無論、上海上国造に連なる人の古墳であった可能性、というのも重要だが、龍学的にはこれは「椀貸し淵」の系統に連なる話なのではないかと思える所が重要なのだ。椀貸し淵伝承は竜宮がその底にあるとされる滝壺や川淵で、大勢人が集まる際に必要な膳椀を頼むと乙姫さんが貸してくれる、という伝承だが、一方で、これが古墳などの塚の穴の前が膳椀を貸してくれる場になっている、という話の系統がある。
いずれ「あちらとこちらの境」を挟んだやり取りの何かが語られているわけだが、ここ島穴の風の生まれ出る穴の伝承は大枠において、そこに繋がりを持つ何かだった可能性が高い。続くダイダラボッチ伝説などと併せて、このイメージを追っていく必要がある。

そうこうするうちに、デェデェポーは腹がすいてしようがないから、腰かけたままあたりを見まわしたが胸のあたりは浮き雲ばかりでありました。仕方がないから水でも飲もうと下をみたら、青々とした東京湾がありました。まず顔を洗って底の方を見たら、何やら白いものが見えたので、手を入れて取り上げてみると大好物の蛤でありました。腹はへるし、時はよしと取っては食い、食っては採るほどに手には貝殻が一杯たまりました。ポイと投げ捨てたところ、遠くへ飛び青柳の海を越えて島野の大六天様や、その近所に散らかって落ちました。その時の貝殻が谷島野のあちこち点々として埋まっております。/落合忠一「市原を知る会」

webサイト「道楽悠悠」より

ダイダラボッチを上総では「デェデポッポ・デェデェポ・デェデェポー」とか「デェダクボ」などと言う。この貝殻を投げた先の「島野の大六天様」が今歩いている市原市島野であります。そして、さらに次のようにある。

さて満腹したデェデェポーは腰を上げてなおも東の方へと向かいました。そこには海(東京湾)があったので、こんなもの一跨ぎだと甘くみて、ヒョイと一つ跨ぎました。ところが目算がはずれてドブ-ンと青柳の海へ左足を突っ込んでしまいました。これはデェデェポーが過信して甘く見過ぎたために失敗したものですから物事は慎重に構えなくてはなりません。そこであわててオカに上がった所が島野の大六天様の脇の田だったので底まで右足が埋まってしまいました。近ごろまであったデェデェポーチ(大太法師池)はこの時の足跡だということです。毎年この池には(泥鰌)の溜まり場になって、これを捕るときっと祟りがあるといわれました。/落合忠一「市原を知る会」

webサイト「道楽悠悠」より

上陸地としても語られる「島野の大六天様」は、今は島穴神社の境内社としておさまっている。んが、どうも地図上見るに「道祖神社」なるお社(単立社)がそうなんじゃないのかと思って、あたしは続いてそこへと向ったのであります。

思ったより立派な構えでしたな。ここが「道祖神社」であります。大通りから本殿が見えるけれど背面しており、回り込んで鳥居に向うような感じ。
単立社なんで『千葉県神社名鑑』にもなく、何が分かるものかと思いつつの参拝だったのだけれど……
立派な碑があって簡単な由緒も刻まれていた。で、「信仰篤く通称第六天さまとして現在に受け継がれている」とある。びんご!
ほんのついこの間、「大田行」で、ダイダラボッチ伝説と第六天を祀る次第はどこかで交錯する所があるのじゃないかと思いついたのだけれど、ここ市原にデェデェポーが大六天様の脇の田に足をついたのが池になったという話があったわけであります。
しかも、「三浦行」で、東京湾を「渡る前」の「デーボコ坊」の伝説を見たのだけれど、房総へ渡ったというデーボコ坊のその上陸が、ここ房総市原に語り継がれて来たのだ、ということでもあるのです。あたくし感無量(TΔT)。
これは現代狛でもユニークなお顔ですな。『市原市史 別巻』では「大太法師の足跡伝説」の項で、ここ島野の第六天は貝塚であると書いている。また、近くにはデーデッポが指で土くれをはじいてできた「指塚」があったともある(今はない)。
道祖神社、ということで今風の道祖神さんもおったけれど。同『市原市史 別巻』でも「島野のデーデッポの隣が、仏教の巨人、第六天様が祀られている」と暗にダイダラボッチと第六天の関係をほのめかしていて面白い。
さらに周辺の古墳・塚はやはりデェデェポーに関係して語られるのだが、長くなるのでこの辺にしておこう。写真は道祖神社さんから大通りを挟んだ向かいの土地。大太法師池は埋められたあとも「入ると祟る」と忌み地扱いだったようだ。

ここからはかつての海浜の地へ。デェデェポーが左脚を突っ込んでしまったという青柳の地ですな。そこに「若宮八幡神社」が鎮座される(ここはデェデェポーとは多分関係ない)。
まぁ、八幡さんなのだけれど、これまで見たような頼朝・鎌倉という線ではなく、往古旱魃に際し天照大神に祈念した所「縫桶一つ波上に有之、取揚見れば若宮八幡大神の申号有之」と神体が海より出現したという寄り神の社なのだ。
東京湾を巡る海の信仰がここではどうあったのかを考える上で重要なお社なのであります。境内社はご覧のようにフリーダム配置であれこれなのだけれど(右手大きな碑は相州大山・石尊さん)……
一社別格という感じで「龍宮神社」が祀られていた。『千葉県神社名鑑』には見えないが(厳島神社のことか?)、漁師たちの信仰の篤いお社であるに相違なかろう。
となると、鳥居脇に置かれていたこの石も漁師たちの力石なんじゃなかろうかね、という風に見える。何も刻まれていなかったので分からんが。

お次は同青柳の「船霊神社」さんへ。実は、船霊神社とあらば参らねばなるまい&お隣が権現森公園というからには何かあるかも?というくらいでの参拝。
『千葉県神社名鑑』にも特記するような記述もなく……船造ってたんでしょうなぁ、とかまぬけな感想でおしまい、という可能性も高かったのだけれど、あにはからんや。ここがちょっとした秘鍵のお社であるのかもしれない。
境内にこのような石碑があって、『千葉県神社名鑑』よりも詳しくこのお社の歴史が刻まれていた。これを読んでギョッと固まるあたくし。ここにですね……
「弘化四年(中略)佐久間清助 佐久間久左衛門両氏の御寄進を享け本地薬師如来□迩十二社大権現を祀り創建する」とあるのですよ。後、船霊神社と改称したそうな。弘化は江戸後期で神社的には最近と言えば最近だが、問題なのは「佐久間」だ。佐久間清助・久左衛門がナニモノであるのか分からないが、佐久間氏は三浦氏の分流に見える氏族である。上総佐久間氏は勝浦の方に拠点を持ち、十五世紀頃に衰退、里見氏の傘下に入ったと言うが、その流れじゃないだろうか。相州三浦氏の守護の一つであった三浦十二天を引いて来たのじゃないのか?
これも長くなるので端折るが、あたしは三浦から房総のダイダラボッチ伝説と三浦氏の動向に関係があるのじゃないかと考えている。市原市の式外社に「建市神社」があり、鎮座地を武士(たけし)といい、大明神山というのがある。デェデェポーが島野でよろけたあとにしっかり足を据えたのがそこだと言う。建市神社の奉斎者は概ね中央由来の氏族の流れだろうと考えられているのだが、あたしはこれが三浦氏の傍流である武(たけ)氏ではないかとちょっと思っているのだ。三浦のデーボコ坊伝説の長沢の北西奥に武山(たけやま)があり、そのあたりを拠点としていたのが武氏だった。
一方で武氏は源実朝の首を護り運び、相模秦野に実朝の首塚を築いて、後代々これを護った。今も秦野には武氏が住み、その守護が秦野寺山の鹿島神社である。この一族の流れが房総の方にもあるのじゃないかと思っているのだ。もしかしたら、この船霊神社がその話を繋ぐ鍵かもしれない、とギョッとしたのでありました。デェデェポーの左足が沈んだのはこの沖だったに相違ない。
船霊神社さんの方はコーフン覚めやらぬというところなのだけれど、他の点も。境内には子安さんらしき像もあった。赤ちゃんを抱えていて常陸の子安観音さんのようなのだけれど、なんか違うね。
常陸の子安観音さんは如意輪観音のお姿がベースにあると思うのだけれど、この像はまた……頭の三角帽がそれっぽくはあるが。真似て作ってみた、とかなんかね。

お次は同青柳の「八雲神社」さんへ。特に大袈裟な話のあるところではないが、この土地の天王さんの流れもいずれ見たいので。
昔は天王川原という土地の名だった。市原も八坂・八雲神社ともに天王さんは基本的に疫病除けの神だが、ここは土地開墾のために祀った、という点を強調している。御社殿赤いので疫病・疱瘡除けのお社でもあるのだろうけどね。
あちこちにあった出羽三山の碑はここにも。土地の人が行ってくると記念に碑が増えるのだろう。ていうかですね。八雲さん御本殿が……女千木?なんでだ。
結局この日は道辻の神々の傾向などはよく分からなかった。とりあえず「あまり見ない」ではある。写真一番奥は道祖神さんだが、このような碑が道々にあるということもない。代替する庚申塔なども見なかった。市原市の神社一覧を見れば日枝神社・山王さんのお社も多いので、もっと内に入ると庚申さんとかも多いと思うのだけれどね。今回まわった神社は水神さんの碑を持つところが多かったけれど、やはりデルタ地帯故に、養老川の氾濫との戦いが第一だったのかもしれない。
そこから今津朝山という土地に入り春日神社さんを目指しているのだけれど、ここが下調べ段階で目が飛び出てしまったお社だ。いや、あたくしまったく知りませんでしたのことよ。『千葉県神社名鑑』の基本的な由緒の文を引いておこう。

仁徳天皇五十五年蝦夷叛す。将軍田道を遣し之を討たせしむ。田道軍敗して死す。土人之れを収瘞す。後蝦夷その塚を発く。大蛇あり、中より出て虜を咋ひ殆んど尽くと見ゆ。又世に海上郡に田道の墓ありと云ひ伝へらる。当神社境内西方に里道を隔て瓶塚と云へる古跡あり。

『千葉県神社名鑑』より引用

この上毛野君田道(たみち・たじ・たぢ)将軍の伝説そのものは有名かつ龍学でも相当に重要な話で、何に載っているのかといったら『日本書紀』に載っているのだ。概ね先の社伝に同じであり、要は塚の瓶に大蛇がいるのである。甕・瓶と竜蛇のラインとしては最重要とも言える話だ。しかし、これは一般に津軽の伝説であり、青森県平川市の「猿賀神社」がその遺称地である。

「猿賀神社」(wikipedia)

いずれ「日本の竜蛇譚」でも扱わないとね、という感じだったのだけれど、この伝説が市原にもあったというのである。

そんなオドロキモモノキの今津朝山「春日神社」。いやはや、まったくどういった因縁があるものか。
『日本書紀』には件の戦は「伊峙水門(いしのみと)」のこととあり、これは今の石巻にあたるだろうとされている。一方、上総国には外房勝浦の方に夷隅郡があり、ここではないかという説もあるそうな。外房のできごとを「蝦夷叛す」と言うかどうかと思うが。また、『市原市史』では、上総の初代国司が上毛野朝臣安麻呂で、田道の直接の系統を引く人物であったことを指摘している。これも和銅年間の話なので、どのみち市原の瓶塚の伝説もべらぼうに古い話であるようだ。
ともかく、今も神社鳥居の前の道を挟んで、このように瓶塚の跡があるのであります。石碑には由来として上記の伝説が記されてもいる。
また「朝山とめくり尋ねて来て見れば 松にからまぬ瓶塚のふぢ」とうたわれてきたそうで、松ではないが、このように木に絡まって大蛇を思わせるような造作もなされている。
甕の中の蛇というモチーフも特に常陸の方でさんざん騒いで来たが、よもや東京湾にのぞむ土地にもあるとはね。将軍田道の伝説は確かに津軽のことだとは思うが、その塚の中には甕の中の蛇がいるのだ、という感覚が上総でも通じ、伝えられて来た、ということは大変に大きい。
ところで、この春日神社さんにもこのように土盛りの富士塚があるのだけれど、こうしてずっと市原を辿って来て「どこにも富士塚がある」ということを見てこず、ここだけ見たらどうなっただろう。「瓶塚の感覚はこの富士塚に継承されているのではないか」くらいに思ってしまったかもしれない。実際、少し遠くから春日神社さんが見えて、この塚も見えた段階では「あれが瓶塚か、まだ塚があるじゃん」と思ってしまった。こんなこともあるので、やはりある程度周辺神社を巡っていることは重要である。

瓶塚を後に、同今津朝山の「鷲神社」へ。間に道を挟むも立派な参道を持っているのですな。鷲神社というのだから天日鷲命と日本武尊を祀る。ここが忌部の足跡を伝えていて面白い。
「今津朝山」という土地なのだけれど、まずこの「今津」。内房南西の富津市の富津(ふっつ)が「古い津」であり、今津はそれに対して「新しい津」を意味するのだと伝えている。
御社殿はパーフェクト逆光状態にて御免。そして、「朝山」は「本村はもと麻山と云しなり。其故は天富命東国へ下りし時随従の人々此地に麻穀を植しより起りし名にして、之正しく天日鷲命の鎮座ある所なり」と社伝にある。
そもそも上総・下総の國名は総(ふさ・麻の別名)國による。その麻を良く取り扱ったという忌部の東国での起点が南端の安房であるから、房総全体が阿波・安房忌部の麻の国の流れになるわけなのだ。このあたりのヤマトタケル伝説の背後には必ず忌部の姿が見える。
境内社さんに「疱瘡神社」と「麻疹神社」が見えるので、ちょっとこれも気になっていた。分けて祀って御祭神はどんなんかね、と。分かんなかったけどね。手前石祠は赤く塗った跡があるから疱瘡神社さんかね。
三浦行」で、相模側浦賀湾の辺りが忌部の重要な拠点であった可能性が高いことを見た。そして、東京湾を巡る古代氏族の動向と、下っての三浦氏などの動向はある程度繋がりを見つけて行けるのじゃないかという気がしている。「東京湾」という海を中心に据えて陸をその周辺と見ていく感覚が、多分それを繋いでいくだろう。
ところで、鳥居前の道を挟んでこのように子安さんが祀られていた。もとは境内だった、ということか、あるいは道辻の神となる傾向があるのか。常陸などにはその傾向があるので、メモ。
行く道に。おや、お稲荷さんかね、と思ったら地蔵堂だった。どう見てもお稲荷さんだが。
かなりへたばったのでコインランドリー前のベンチで一休みなあたくし。頭上でピーチクパーチクと……あ、おまいさんたちは育った雛かね。カメラ向けた途端に鳴きやんで、きょろきょろと。なんで鳥はカメラが分かるのかね。
そして姉崎の二子塚古墳へ。市原市には千を越える古墳があり、大型前方後円墳も20基前後あるというが、その大半が姉崎古墳群に集中しており、上海上(かみつうながみ)国にまつわる一族の墓と考えられている。
こう見ると前方後円墳であることが分かるかしらね。航空写真などはこちら。

「二子塚古墳」(市原市埋蔵分調査センター)

二子塚は推定全長114mの大型古墳であります。んが、まわり一周しても何の案内もなかったよ?
昼間の島穴神社、そしてこの先の姉崎古墳群の祭祀場であったと考えられる姉埼神社の両式内社も、本来は上海上国造の氏神なり守護神なりを祀ったものだとされるが、つまり、この古墳群とセットで考えねばいかんのがこの両社ということである。
さらに姉崎古墳群でも最大の規模であったと思われる姉崎天神山古墳へと向うのだけれど……うひゃおぅ!日が暮れてしまう。あと二社やねん。ガンバレ太陽(?)。がんばれ、オレ。
ダガシカシ。天神山古墳は丘上にあるのだ。この期に及んでこんな……おいちゃんは疲れてるんだよ、カンベンしてつかあさい……orz

さらに情け容赦ない石段が……しかし鳥居が見えた。ここが天神山古墳の「菅原神社」であります。ぜいぜい。
姉崎天神山古墳は発掘調査は行われておらず、墳丘の形状から4世紀前半の前方後円墳だとされる。先の二子塚より古く、また大きく、上海上國を開いた首長墓ではないかと考えられる。ちなみに前期古墳としては房総最大(全長130m)。
丘上に造営されているので全体の形状を目で見るというわけにもいかんのだけれどね。ていうか丘全体が超巨大な古墳、というようにも見えましたな。先の石段が前方部からの登りで、この天神さんのお社の後背が後円部となっている。
さらに近くに50m超級の釈迦山古墳・鶴窪古墳などがあって、できたら見て回りたかったのだけれどね。時すでに遅し。なんとか姉埼神社さんだけにはお参りしようと。それでも、行く道物件はチェック。なんだか考えてる暇はないが。
実は天神山から姉埼神社の裏参道(?)に行ったら高低差なしで行けるのだけれど、そこは式内社様です故、表参道へ下って登り直すのが漢だろうということで。くらーいのですが。
ひょっとしたらまだ(日光的に)イケるかもしれん、と思いつつ登るんです。登るんです。

そして式内「姉埼神社」へ。ほ〜た〜るのぉひぃ〜か〜りぃ……orz という感じで、えぇ、本日の太陽の営業時間は終了致しましたという感じで、えぇ、えぇ(TΔT)。
こちらへ来たら楽だったという側方の御神門。どっちが正参道やねんという感じも。
そんなこんなで、姉埼神社さんはまた、姉崎を起点に巡る時に良いお写真は撮りましょうということで。一応ポイントを見ておくと、まずは島穴神社の方で見たように、セットでヒコ・ヒメの風神であり、姉、ないし后神である志那斗辨命を主祭神とする。日本武尊の勧請と伝えるように、島穴同様、尊を併せ祀る。他に天兒屋根命・大雀命・塞神三柱を併せ祀る。地名の伝として「姉神の方が先にこの地に上陸されたので姉崎というのだ」と言われ、先に着いて長く弟を待っているのに倦んだので松を嫌うとして、松の禁忌がある(氏子らは門松も飾らない)。
もっとも何度か述べたように、姉崎は上海上国造の祭祀地であり、姉埼神社もその氏神ないし守護神を祀ったのが下って風神とされたのだろうと概ね考えられているわけであります。そこで、他にも氏族的な上海上国造一族と武蔵国造の関係だとか、忌部の流れがどう関係しているのかとか課題は山ほどあるのだけれど、今は一つ「姉崎全体はどのような指向を持った土地なのか」という点だけ見ておきたい(左マップ)。
概ね西方を指向しているのだけれどばらつきがある。予想では富士山かな、と思っていたのだが、富士山を向いていると言えるのは天神山古墳くらいだ。姉埼神社はそれよりやや南を向く。強いて言えば相模一宮・寒川神社がその向きの先にはある(だから何だという考えはない)。二子塚古墳はさらに南を向く。冬至の日の入りの方かとも思うが、正確な向きというのも難しいので何ともいえない。この幅を持った「西」への感覚が何に由来するのか、というのが姉崎の古代にも大きく関係してくるだろう。
といったところで。また、明るいうちに参上しますので、と狛犬さんに。「精進が足らんのじゃ、コワッパメ」むっすーん、という感じでありますが。どうも相済みませぬ。
参道を下れば大鳥居の向こうに日〜が〜く〜れ〜て〜。いや、でも良く歩いたね。結局都合30kmくらい歩いておったらしい(笑)。内房線姉崎駅で「電車に乗る気力が湧かずに」暫し駅前のベンチでくたばっていたのでありました。
なんとか電車に乗ったら乗ったらで、姉崎→五井(スタート地点)は僅か一駅5分でありました。当たり前だけど笑っちゃったね。でも、たったそれだけの間に、これだけの「!」があったのだ。中々あたしの神社巡りもレベルアップして来たのじゃないかとまた自画自賛して、ひとまず市原を後にしたのであります。

補遺:

将軍田道と「タヂ」のこと。今津朝山春日神社の瓶塚が上毛野君田道将軍の墓だという話だが、これにまつわることを。まず、田道が「たみち」なのか「たじ(たぢ)」なのかよく分からないのだが、「たじ(たぢ)」であるとするとちょっと面白いことになる。
谷川先生は仁徳天皇の子である反正天皇(多遅比瑞歯別天皇)の御名代部として蝮部(たじべ)・丹比部(たじひべ)が作られたこの「たじ・たじひ」は、蝮をタヂ・タヂヒと呼ぶ方言に由来するだろうとしている。また、そのもとはタツであろうともしている(『続・日本の地名』岩波新書)。
これが貴種の産育にあずかる壬部と関係するのだろうとなるのだが、それはさて置き、要は蛇(蝮)を「たぢ」と言うのだということだ。田道が「たぢ」なら、名前が蛇・蝮だということになる。石巻に「蛇田道(おろちたみち)公古墳」があり「蛇田道公神社」があるが、蛇蝮将軍であったということになる。
さて、以前にもちょっと紹介したが、一方の内房市原のすぐ南の木更津には「太地非という蝮」を日本武尊が退治したという伝説がある。

太地非という蝮(「怪異・妖怪伝承DB」)

東国で蝮を「タヂヒ」などとは言わぬので、これは何らかの関係がありそうだ。
さらに房総には君津鹿野山の阿久留王と尊の戦いの伝説があり、さらに某所には尊が鬼神を石に封じて川に投げ込んだなどという、常陸香々背男伝説のような話まである。あるいはこれらは常陸の宿魂石伝説のような方向で見ていくべきなのかもしれない。常陸の方では大甕や宿魂石や香々背男が直接竜蛇に結びつけられて語られてはいない。しかし、房総の「まつろわぬ者」の話が田道将軍を通じて蛇に結びついて行くとしたら、こちらがあるいは常陸を解く鍵になるのかもしれない。

上総行・市原 2012.08.04

惰竜抄: