上総行・市原
庫部:惰竜抄:twitterまとめ:2012.08.04
そうこうするうちに、デェデェポーは腹がすいてしようがないから、腰かけたままあたりを見まわしたが胸のあたりは浮き雲ばかりでありました。仕方がないから水でも飲もうと下をみたら、青々とした東京湾がありました。まず顔を洗って底の方を見たら、何やら白いものが見えたので、手を入れて取り上げてみると大好物の蛤でありました。腹はへるし、時はよしと取っては食い、食っては採るほどに手には貝殻が一杯たまりました。ポイと投げ捨てたところ、遠くへ飛び青柳の海を越えて島野の大六天様や、その近所に散らかって落ちました。その時の貝殻が谷島野のあちこち点々として埋まっております。/落合忠一「市原を知る会」
ダイダラボッチを上総では「デェデポッポ・デェデェポ・デェデェポー」とか「デェダクボ」などと言う。この貝殻を投げた先の「島野の大六天様」が今歩いている市原市島野であります。そして、さらに次のようにある。 |
さて満腹したデェデェポーは腰を上げてなおも東の方へと向かいました。そこには海(東京湾)があったので、こんなもの一跨ぎだと甘くみて、ヒョイと一つ跨ぎました。ところが目算がはずれてドブ-ンと青柳の海へ左足を突っ込んでしまいました。これはデェデェポーが過信して甘く見過ぎたために失敗したものですから物事は慎重に構えなくてはなりません。そこであわててオカに上がった所が島野の大六天様の脇の田だったので底まで右足が埋まってしまいました。近ごろまであったデェデェポーチ(大太法師池)はこの時の足跡だということです。毎年この池には(泥鰌)の溜まり場になって、これを捕るときっと祟りがあるといわれました。/落合忠一「市原を知る会」
上陸地としても語られる「島野の大六天様」は、今は島穴神社の境内社としておさまっている。んが、どうも地図上見るに「道祖神社」なるお社(単立社)がそうなんじゃないのかと思って、あたしは続いてそこへと向ったのであります。 | |
思ったより立派な構えでしたな。ここが「道祖神社」であります。大通りから本殿が見えるけれど背面しており、回り込んで鳥居に向うような感じ。 | |
単立社なんで『千葉県神社名鑑』にもなく、何が分かるものかと思いつつの参拝だったのだけれど…… | |
立派な碑があって簡単な由緒も刻まれていた。で、「信仰篤く通称第六天さまとして現在に受け継がれている」とある。びんご! ほんのついこの間、「大田行」で、ダイダラボッチ伝説と第六天を祀る次第はどこかで交錯する所があるのじゃないかと思いついたのだけれど、ここ市原にデェデェポーが大六天様の脇の田に足をついたのが池になったという話があったわけであります。 しかも、「三浦行」で、東京湾を「渡る前」の「デーボコ坊」の伝説を見たのだけれど、房総へ渡ったというデーボコ坊のその上陸が、ここ房総市原に語り継がれて来たのだ、ということでもあるのです。あたくし感無量(TΔT)。 |
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これは現代狛でもユニークなお顔ですな。『市原市史 別巻』では「大太法師の足跡伝説」の項で、ここ島野の第六天は貝塚であると書いている。また、近くにはデーデッポが指で土くれをはじいてできた「指塚」があったともある(今はない)。 | |
道祖神社、ということで今風の道祖神さんもおったけれど。同『市原市史 別巻』でも「島野のデーデッポの隣が、仏教の巨人、第六天様が祀られている」と暗にダイダラボッチと第六天の関係をほのめかしていて面白い。 | |
さらに周辺の古墳・塚はやはりデェデェポーに関係して語られるのだが、長くなるのでこの辺にしておこう。写真は道祖神社さんから大通りを挟んだ向かいの土地。大太法師池は埋められたあとも「入ると祟る」と忌み地扱いだったようだ。 | |
ここからはかつての海浜の地へ。デェデェポーが左脚を突っ込んでしまったという青柳の地ですな。そこに「若宮八幡神社」が鎮座される(ここはデェデェポーとは多分関係ない)。 | |
まぁ、八幡さんなのだけれど、これまで見たような頼朝・鎌倉という線ではなく、往古旱魃に際し天照大神に祈念した所「縫桶一つ波上に有之、取揚見れば若宮八幡大神の申号有之」と神体が海より出現したという寄り神の社なのだ。 | |
東京湾を巡る海の信仰がここではどうあったのかを考える上で重要なお社なのであります。境内社はご覧のようにフリーダム配置であれこれなのだけれど(右手大きな碑は相州大山・石尊さん)…… | |
一社別格という感じで「龍宮神社」が祀られていた。『千葉県神社名鑑』には見えないが(厳島神社のことか?)、漁師たちの信仰の篤いお社であるに相違なかろう。 | |
となると、鳥居脇に置かれていたこの石も漁師たちの力石なんじゃなかろうかね、という風に見える。何も刻まれていなかったので分からんが。 | |
お次は同青柳の「船霊神社」さんへ。実は、船霊神社とあらば参らねばなるまい&お隣が権現森公園というからには何かあるかも?というくらいでの参拝。 | |
『千葉県神社名鑑』にも特記するような記述もなく……船造ってたんでしょうなぁ、とかまぬけな感想でおしまい、という可能性も高かったのだけれど、あにはからんや。ここがちょっとした秘鍵のお社であるのかもしれない。 | |
境内にこのような石碑があって、『千葉県神社名鑑』よりも詳しくこのお社の歴史が刻まれていた。これを読んでギョッと固まるあたくし。ここにですね…… 「弘化四年(中略)佐久間清助 佐久間久左衛門両氏の御寄進を享け本地薬師如来□迩十二社大権現を祀り創建する」とあるのですよ。後、船霊神社と改称したそうな。弘化は江戸後期で神社的には最近と言えば最近だが、問題なのは「佐久間」だ。佐久間清助・久左衛門がナニモノであるのか分からないが、佐久間氏は三浦氏の分流に見える氏族である。上総佐久間氏は勝浦の方に拠点を持ち、十五世紀頃に衰退、里見氏の傘下に入ったと言うが、その流れじゃないだろうか。相州三浦氏の守護の一つであった三浦十二天を引いて来たのじゃないのか? これも長くなるので端折るが、あたしは三浦から房総のダイダラボッチ伝説と三浦氏の動向に関係があるのじゃないかと考えている。市原市の式外社に「建市神社」があり、鎮座地を武士(たけし)といい、大明神山というのがある。デェデェポーが島野でよろけたあとにしっかり足を据えたのがそこだと言う。建市神社の奉斎者は概ね中央由来の氏族の流れだろうと考えられているのだが、あたしはこれが三浦氏の傍流である武(たけ)氏ではないかとちょっと思っているのだ。三浦のデーボコ坊伝説の長沢の北西奥に武山(たけやま)があり、そのあたりを拠点としていたのが武氏だった。 一方で武氏は源実朝の首を護り運び、相模秦野に実朝の首塚を築いて、後代々これを護った。今も秦野には武氏が住み、その守護が秦野寺山の鹿島神社である。この一族の流れが房総の方にもあるのじゃないかと思っているのだ。もしかしたら、この船霊神社がその話を繋ぐ鍵かもしれない、とギョッとしたのでありました。デェデェポーの左足が沈んだのはこの沖だったに相違ない。 |
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船霊神社さんの方はコーフン覚めやらぬというところなのだけれど、他の点も。境内には子安さんらしき像もあった。赤ちゃんを抱えていて常陸の子安観音さんのようなのだけれど、なんか違うね。 | |
常陸の子安観音さんは如意輪観音のお姿がベースにあると思うのだけれど、この像はまた……頭の三角帽がそれっぽくはあるが。真似て作ってみた、とかなんかね。 | |
お次は同青柳の「八雲神社」さんへ。特に大袈裟な話のあるところではないが、この土地の天王さんの流れもいずれ見たいので。 | |
昔は天王川原という土地の名だった。市原も八坂・八雲神社ともに天王さんは基本的に疫病除けの神だが、ここは土地開墾のために祀った、という点を強調している。御社殿赤いので疫病・疱瘡除けのお社でもあるのだろうけどね。 | |
あちこちにあった出羽三山の碑はここにも。土地の人が行ってくると記念に碑が増えるのだろう。ていうかですね。八雲さん御本殿が……女千木?なんでだ。 | |
結局この日は道辻の神々の傾向などはよく分からなかった。とりあえず「あまり見ない」ではある。写真一番奥は道祖神さんだが、このような碑が道々にあるということもない。代替する庚申塔なども見なかった。市原市の神社一覧を見れば日枝神社・山王さんのお社も多いので、もっと内に入ると庚申さんとかも多いと思うのだけれどね。今回まわった神社は水神さんの碑を持つところが多かったけれど、やはりデルタ地帯故に、養老川の氾濫との戦いが第一だったのかもしれない。 | |
そこから今津朝山という土地に入り春日神社さんを目指しているのだけれど、ここが下調べ段階で目が飛び出てしまったお社だ。いや、あたくしまったく知りませんでしたのことよ。『千葉県神社名鑑』の基本的な由緒の文を引いておこう。
この上毛野君田道(たみち・たじ・たぢ)将軍の伝説そのものは有名かつ龍学でも相当に重要な話で、何に載っているのかといったら『日本書紀』に載っているのだ。概ね先の社伝に同じであり、要は塚の瓶に大蛇がいるのである。甕・瓶と竜蛇のラインとしては最重要とも言える話だ。しかし、これは一般に津軽の伝説であり、青森県平川市の「猿賀神社」がその遺称地である。 ▶「猿賀神社」(wikipedia) いずれ「日本の竜蛇譚」でも扱わないとね、という感じだったのだけれど、この伝説が市原にもあったというのである。 |
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そんなオドロキモモノキの今津朝山「春日神社」。いやはや、まったくどういった因縁があるものか。 | |
『日本書紀』には件の戦は「伊峙水門(いしのみと)」のこととあり、これは今の石巻にあたるだろうとされている。一方、上総国には外房勝浦の方に夷隅郡があり、ここではないかという説もあるそうな。外房のできごとを「蝦夷叛す」と言うかどうかと思うが。また、『市原市史』では、上総の初代国司が上毛野朝臣安麻呂で、田道の直接の系統を引く人物であったことを指摘している。これも和銅年間の話なので、どのみち市原の瓶塚の伝説もべらぼうに古い話であるようだ。 | |
ともかく、今も神社鳥居の前の道を挟んで、このように瓶塚の跡があるのであります。石碑には由来として上記の伝説が記されてもいる。 | |
また「朝山とめくり尋ねて来て見れば 松にからまぬ瓶塚のふぢ」とうたわれてきたそうで、松ではないが、このように木に絡まって大蛇を思わせるような造作もなされている。 甕の中の蛇というモチーフも特に常陸の方でさんざん騒いで来たが、よもや東京湾にのぞむ土地にもあるとはね。将軍田道の伝説は確かに津軽のことだとは思うが、その塚の中には甕の中の蛇がいるのだ、という感覚が上総でも通じ、伝えられて来た、ということは大変に大きい。 |
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ところで、この春日神社さんにもこのように土盛りの富士塚があるのだけれど、こうしてずっと市原を辿って来て「どこにも富士塚がある」ということを見てこず、ここだけ見たらどうなっただろう。「瓶塚の感覚はこの富士塚に継承されているのではないか」くらいに思ってしまったかもしれない。実際、少し遠くから春日神社さんが見えて、この塚も見えた段階では「あれが瓶塚か、まだ塚があるじゃん」と思ってしまった。こんなこともあるので、やはりある程度周辺神社を巡っていることは重要である。 | |
瓶塚を後に、同今津朝山の「鷲神社」へ。間に道を挟むも立派な参道を持っているのですな。鷲神社というのだから天日鷲命と日本武尊を祀る。ここが忌部の足跡を伝えていて面白い。 | |
「今津朝山」という土地なのだけれど、まずこの「今津」。内房南西の富津市の富津(ふっつ)が「古い津」であり、今津はそれに対して「新しい津」を意味するのだと伝えている。 | |
御社殿はパーフェクト逆光状態にて御免。そして、「朝山」は「本村はもと麻山と云しなり。其故は天富命東国へ下りし時随従の人々此地に麻穀を植しより起りし名にして、之正しく天日鷲命の鎮座ある所なり」と社伝にある。 そもそも上総・下総の國名は総(ふさ・麻の別名)國による。その麻を良く取り扱ったという忌部の東国での起点が南端の安房であるから、房総全体が阿波・安房忌部の麻の国の流れになるわけなのだ。このあたりのヤマトタケル伝説の背後には必ず忌部の姿が見える。 |
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境内社さんに「疱瘡神社」と「麻疹神社」が見えるので、ちょっとこれも気になっていた。分けて祀って御祭神はどんなんかね、と。分かんなかったけどね。手前石祠は赤く塗った跡があるから疱瘡神社さんかね。 | |
「三浦行」で、相模側浦賀湾の辺りが忌部の重要な拠点であった可能性が高いことを見た。そして、東京湾を巡る古代氏族の動向と、下っての三浦氏などの動向はある程度繋がりを見つけて行けるのじゃないかという気がしている。「東京湾」という海を中心に据えて陸をその周辺と見ていく感覚が、多分それを繋いでいくだろう。 | |
ところで、鳥居前の道を挟んでこのように子安さんが祀られていた。もとは境内だった、ということか、あるいは道辻の神となる傾向があるのか。常陸などにはその傾向があるので、メモ。 | |
行く道に。おや、お稲荷さんかね、と思ったら地蔵堂だった。どう見てもお稲荷さんだが。 | |
かなりへたばったのでコインランドリー前のベンチで一休みなあたくし。頭上でピーチクパーチクと……あ、おまいさんたちは育った雛かね。カメラ向けた途端に鳴きやんで、きょろきょろと。なんで鳥はカメラが分かるのかね。 | |
そして姉崎の二子塚古墳へ。市原市には千を越える古墳があり、大型前方後円墳も20基前後あるというが、その大半が姉崎古墳群に集中しており、上海上(かみつうながみ)国にまつわる一族の墓と考えられている。 | |
こう見ると前方後円墳であることが分かるかしらね。航空写真などはこちら。 ▶「二子塚古墳」(市原市埋蔵分調査センター) 二子塚は推定全長114mの大型古墳であります。んが、まわり一周しても何の案内もなかったよ? 昼間の島穴神社、そしてこの先の姉崎古墳群の祭祀場であったと考えられる姉埼神社の両式内社も、本来は上海上国造の氏神なり守護神なりを祀ったものだとされるが、つまり、この古墳群とセットで考えねばいかんのがこの両社ということである。 |
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さらに姉崎古墳群でも最大の規模であったと思われる姉崎天神山古墳へと向うのだけれど……うひゃおぅ!日が暮れてしまう。あと二社やねん。ガンバレ太陽(?)。がんばれ、オレ。 | |
ダガシカシ。天神山古墳は丘上にあるのだ。この期に及んでこんな……おいちゃんは疲れてるんだよ、カンベンしてつかあさい……orz | |
さらに情け容赦ない石段が……しかし鳥居が見えた。ここが天神山古墳の「菅原神社」であります。ぜいぜい。 | |
姉崎天神山古墳は発掘調査は行われておらず、墳丘の形状から4世紀前半の前方後円墳だとされる。先の二子塚より古く、また大きく、上海上國を開いた首長墓ではないかと考えられる。ちなみに前期古墳としては房総最大(全長130m)。 | |
丘上に造営されているので全体の形状を目で見るというわけにもいかんのだけれどね。ていうか丘全体が超巨大な古墳、というようにも見えましたな。先の石段が前方部からの登りで、この天神さんのお社の後背が後円部となっている。 | |
さらに近くに50m超級の釈迦山古墳・鶴窪古墳などがあって、できたら見て回りたかったのだけれどね。時すでに遅し。なんとか姉埼神社さんだけにはお参りしようと。それでも、行く道物件はチェック。なんだか考えてる暇はないが。 | |
実は天神山から姉埼神社の裏参道(?)に行ったら高低差なしで行けるのだけれど、そこは式内社様です故、表参道へ下って登り直すのが漢だろうということで。くらーいのですが。 | |
ひょっとしたらまだ(日光的に)イケるかもしれん、と思いつつ登るんです。登るんです。 | |
そして式内「姉埼神社」へ。ほ〜た〜るのぉひぃ〜か〜りぃ……orz という感じで、えぇ、本日の太陽の営業時間は終了致しましたという感じで、えぇ、えぇ(TΔT)。 | |
こちらへ来たら楽だったという側方の御神門。どっちが正参道やねんという感じも。 | |
そんなこんなで、姉埼神社さんはまた、姉崎を起点に巡る時に良いお写真は撮りましょうということで。一応ポイントを見ておくと、まずは島穴神社の方で見たように、セットでヒコ・ヒメの風神であり、姉、ないし后神である志那斗辨命を主祭神とする。日本武尊の勧請と伝えるように、島穴同様、尊を併せ祀る。他に天兒屋根命・大雀命・塞神三柱を併せ祀る。地名の伝として「姉神の方が先にこの地に上陸されたので姉崎というのだ」と言われ、先に着いて長く弟を待っているのに倦んだので松を嫌うとして、松の禁忌がある(氏子らは門松も飾らない)。 | |
もっとも何度か述べたように、姉崎は上海上国造の祭祀地であり、姉埼神社もその氏神ないし守護神を祀ったのが下って風神とされたのだろうと概ね考えられているわけであります。そこで、他にも氏族的な上海上国造一族と武蔵国造の関係だとか、忌部の流れがどう関係しているのかとか課題は山ほどあるのだけれど、今は一つ「姉崎全体はどのような指向を持った土地なのか」という点だけ見ておきたい(左マップ)。 概ね西方を指向しているのだけれどばらつきがある。予想では富士山かな、と思っていたのだが、富士山を向いていると言えるのは天神山古墳くらいだ。姉埼神社はそれよりやや南を向く。強いて言えば相模一宮・寒川神社がその向きの先にはある(だから何だという考えはない)。二子塚古墳はさらに南を向く。冬至の日の入りの方かとも思うが、正確な向きというのも難しいので何ともいえない。この幅を持った「西」への感覚が何に由来するのか、というのが姉崎の古代にも大きく関係してくるだろう。 |
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といったところで。また、明るいうちに参上しますので、と狛犬さんに。「精進が足らんのじゃ、コワッパメ」むっすーん、という感じでありますが。どうも相済みませぬ。 | |
参道を下れば大鳥居の向こうに日〜が〜く〜れ〜て〜。いや、でも良く歩いたね。結局都合30kmくらい歩いておったらしい(笑)。内房線姉崎駅で「電車に乗る気力が湧かずに」暫し駅前のベンチでくたばっていたのでありました。 なんとか電車に乗ったら乗ったらで、姉崎→五井(スタート地点)は僅か一駅5分でありました。当たり前だけど笑っちゃったね。でも、たったそれだけの間に、これだけの「!」があったのだ。中々あたしの神社巡りもレベルアップして来たのじゃないかとまた自画自賛して、ひとまず市原を後にしたのであります。 |
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補遺:
将軍田道と「タヂ」のこと。今津朝山春日神社の瓶塚が上毛野君田道将軍の墓だという話だが、これにまつわることを。まず、田道が「たみち」なのか「たじ(たぢ)」なのかよく分からないのだが、「たじ(たぢ)」であるとするとちょっと面白いことになる。 谷川先生は仁徳天皇の子である反正天皇(多遅比瑞歯別天皇)の御名代部として蝮部(たじべ)・丹比部(たじひべ)が作られたこの「たじ・たじひ」は、蝮をタヂ・タヂヒと呼ぶ方言に由来するだろうとしている。また、そのもとはタツであろうともしている(『続・日本の地名』岩波新書)。 これが貴種の産育にあずかる壬部と関係するのだろうとなるのだが、それはさて置き、要は蛇(蝮)を「たぢ」と言うのだということだ。田道が「たぢ」なら、名前が蛇・蝮だということになる。石巻に「蛇田道(おろちたみち)公古墳」があり「蛇田道公神社」があるが、蛇蝮将軍であったということになる。 さて、以前にもちょっと紹介したが、一方の内房市原のすぐ南の木更津には「太地非という蝮」を日本武尊が退治したという伝説がある。 ▶太地非という蝮(「怪異・妖怪伝承DB」) 東国で蝮を「タヂヒ」などとは言わぬので、これは何らかの関係がありそうだ。 さらに房総には君津鹿野山の阿久留王と尊の戦いの伝説があり、さらに某所には尊が鬼神を石に封じて川に投げ込んだなどという、常陸香々背男伝説のような話まである。あるいはこれらは常陸の宿魂石伝説のような方向で見ていくべきなのかもしれない。常陸の方では大甕や宿魂石や香々背男が直接竜蛇に結びつけられて語られてはいない。しかし、房総の「まつろわぬ者」の話が田道将軍を通じて蛇に結びついて行くとしたら、こちらがあるいは常陸を解く鍵になるのかもしれない。 |
上総行・市原 2012.08.04