おとぼうが淵

神奈川県愛甲郡清川村


煤ヶ谷の北、宮ヶ瀬との境に「おとぼうが淵」がある。山峡の煤ヶ谷だが、おとぼうが淵のあたりは一番山の入り組んだところで、昼なお暗い淋しいところだった。昔、一人の炭焼きの老人が、炭を背負ってこの淵の所を通った。そして淵を覗き込むと、見たこともない大魚がゆうゆうと泳いでいる。

老人は何とか生け捕りにしようと、竹を手に冷たい水に入り、半刻もかかってやっと捕まえることができた。その魚は四尺もあり、老人はほくほくとしながら、炭俵をほぐして魚を包み、勇んで立ち上がった。

すると、後ろの淵から「オトボウよ。オトボウよ。テンゴウボウが負われて連れて行かれるぞい」という怪しい声が聞こえてきた。老人は仰天して腰を抜かしたが、やっとの思いで大魚を淵の中に投げ捨てて、ほうほうの態で村へ逃げ帰った。それからこの淵を「おとぼうが淵」と呼ぶようになったという。

『相模国武蔵国 土風記』川口謙二
(錦正社)より要約

追記

この北の津久井内郷では「天狗坊淵の怪異」といって物言う魚の話が早くに採取されている。てんごんぼう、の名はそちらでもいうのだが、つまりテンゴンボウは天狗坊ということだ。

上の話でも、「テンゴウボウが負われて」行くのだが、背負われた大魚(やまめ)が自分をオトボウといったとか、釣りをした炭焼きの爺が釣りの上手な「釣り天狗」であったといって、それが天狗の名が出る理由になったりもする。

煤ヶ谷の類話にも、主を釣る炭焼きの息子の名が「おとうぼう」であるものがあり(「おとうぼうと炭焼さん」)、名前からその意義を探るのもなかなかに難儀である。

また、釣られた大魚はヤマメであったともいうが、ヤマメは山女と書くこともあり、主夫婦の妻を表している可能性がある(「山女と大蛇」)。てんごんぼう・おとぼうが、夫婦とすると、確かにおさまりが出てくるようには思う。