蛇骨と大平台の名の起こり

神奈川県足柄下郡箱根町


底倉で早川に合流する渓流は、昼なお暗い急流である。その山里に湯治客を相手にする目の悪い按摩の青年がおり、青年は笛が上手だった。夕方になると川の畔で笛を吹いたが、ある月の出の早い宵のこと、急に風が吹き黒雲が空を覆い、爛々と光る大きな目玉が青年に近づいてきた。

目玉は大蛇で、大蛇は自分は明後日に昇天するが、山崩れが起こって付近の人はみな生き埋めになるだろうという。そして、いつも美しい笛の音を聞かせてくれた青年だけには知らせることにしたのだ、といった。しかし、他言をすればたちどころに命を絶つ、ともいった。

大蛇は、明日夜に最後の笛を聞かせてくれといって去った。青年は大いに悩んだが、皆の命には代えられないと、領主の木賀善司にこの話を告げた。領主は黙していたが、決心した顔をすると、青年に明日いつものように流れの辺りで笛を吹くよう指示した。

翌夕、領主は強弓を手に笛を吹く青年を隠れ見守っていた。やがて、黒雲が現れ、中から四斗樽ほどもある大蛇が頭を現した。領主は渾身の力で強弓を引き、矢は見事に大蛇の右目を射抜いた。大蛇はのたうち回り、振り回した尾で城山の傾斜の凸凹を平らにし、谷川に沿って頭を笛塚の辺りにして死んだ。

これより、平坦になった土地を尾平台というようになり、これが大平台になったのだと伝えられている。また、大蛇の死骸が骨となり石となって見えるので、その渓流を蛇骨川と呼ぶようになったのだそうな。温泉から出る白色の無定形珪酸が渓流沿いに見えるが、それを蛇骨石といっている。

『箱根の民話と伝説』安藤正平・古口和夫
(夢工房)より要約

追記

木賀善司は頼朝に与して箱根の地頭となった人。もとは伊豆の藤原氏の流れの人というので、ここにも俵藤太の末の面が出ているのかもしれない。いずれにしても、琵琶法師と竜の話の流れで武人の大蛇討伐になっていく話は異例である。

箱根には芦之湯の方によく知られた按摩と竜蛇の話があるので(「精進ヶ池」)、どこかで話が混じったのかもしれない。このたぐいの話は街道筋の宿で旅人相手に業を行う按摩などの語ったものと思われ、領主の武功に話が流れるのはいかにも不自然ではある。

しかし、大平台がもと尾平台といい、浅間山の大蛇(蛇骨川の西の峰)が尾で平らにしたのだ、その大蛇の死骸が蛇骨川の蛇骨なのだという話はもとよりあったものと思われる。今は蛇骨川に行っても「なるほどこれが蛇骨か」というほどの湯の花は見られないが。