沼目の入定塚

神奈川県伊勢原市


八十耕地は、古賀の渡しといって、上平間に舟つなぎ松という古松があった。昔、渡しを道にしようと埋め立てを始めた人がいた。ところが、夜になると一匹の小さな蛇が盛土を崩してしまうのだった。その人は、この蛇を殺して道を完成させた。

ところでこの人には子がなかったが、妻が見事な自生の菜を食べ懐妊し、子を生んだ。ところがこの子は十歳くらいで夭折してしまった。夫婦は悲しんだが、出羽の羽黒山に行けば笛を吹くその子に会えるといわれて、羽黒山に赴いた。

すると、確かに樹上に笛を吹く少年がいたのだが、夫婦が近寄ると、仇くさい、といって消えてしまった。少年は殺した蛇の化身であったのだ。夫婦は帰ると入定して後生を弔ったという。近年、その塚から甕が見つかり、中に書類があったが、腐食していて読めなかった。塚には安永の墓碑がある。

(太田第二寿楽会 中村良平 81才)

『郷土の昔ばなし』
(県央福祉事務所)より要約

追記

八十耕地は八丁耕地の誤植だろう。「古賀の渡しのはなし」に同じ伝説で、細部に違いがある。典型話では、夫婦は道を造るから子を授けたまえと祈願して物語がはじまる。この伝説には、このような構成要素の順が前後する類話がたくさんある。

上に引いた話では、立派な菜を食べた妻が懐妊するが、ある話では、夫婦が入定した塚に「一本菜」が生えるようになった、と語る。また、子がない夫婦が、というより、蛇を殺した祟りで夫婦には子が生まれなくなった、と語るものもある。

さらに、舟つなぎ松がまずある光景が多く語られ、その松が蛇の棲家だった、というイメージも強いが(「こがの渡し」)、土手を崩す白蛇を祀るのに松を植えたとするものもある(それだと舟つなぎ松にはならないが)。

松は昭和四十二年の大風に折れてしまってもうないが、かつては竜神祠が傍にあり、蛇が呑むようにと卵をあげて松を拝む人がよくいたというから、蛇の松なのだ、という印象は強かったのだろう。(伊勢原市史編集委員会『伊勢原の民俗 大田地区』にこれらの類話が並んでいる)

加えて、この松がまた縁切り松であったなどという話も色濃くあったようだが、そこまでは話は広げないでおこう。ともあれ、話の中の重要な構成要素の由来が前後してしまうと、その意味はなんぞやと考えるのも大変難しくなる。どれが本筋だったのかというのも難儀な話だ。