古賀の渡しのはなし

神奈川県伊勢原市


永正の頃のこと。八丁耕地のあたりは葭の原で、舟や筏で渡っており、古賀の渡しといっていた。この古賀の渡しは大山詣りの道だったので、旅人には不便だった。そこで、沼目に住む子のない夫婦が大山不動に願掛けし、土手を築いて参詣客を助けるから子供を授けてほしい、と祈願した。

そうして人夫を集めて土手を築き始めたのだけれど、昼作ったものが夜のうちに崩れてしまう。何回やってもそうなった。そこで夜見回ってみると、三尺ほどの白蛇が尻尾を振っており、それで土手が崩れてしまうのだった。夫婦は怒って蛇を三つに切って東の舟つなぎ松の根元へ埋めてしまった。

これ以降は土手が崩れることもなく、立派な道が出来上がった。祈願した通り夫婦には男の子も生まれ、大事に育てられた。男の子は笛が上手で、西の舟つなぎ松の茶屋で笛を吹いて楽しく遊んでいた。しかし、この子が十二になったとき、ふとした病がもとで死んでしまった。

夫婦は嘆き悲しんだが、しばらくして、男の子がよく遊んでいた茶屋の主人にも報告に行った。ところが、茶屋の主人は驚き、そんなはずはない、男の子は今でも遊びに来て笛を吹いている、という。夫婦はいぶかしんだが嘘とも思えず、翌日早くから茶屋の奥に潜んで様子をうかがうことにした。

はたして、茶屋の主人のいったように、男の子が現れたが、いつものように笛を吹かなかった。主人がなぜ笛を吹かないのかと訊ねると、男の子は「因縁があるから吹けぬ」といい、三ツ切の蛇の姿となって消えてしまった。

夫婦は驚いて白蛇を埋めた東の舟つなぎ松の根元へ祠を作ると弁天を祀った。さらに西の舟つなぎ松のところへはお寺を立て、長堤山東円寺と名付けた。そして、自分たちは罪を償うべく、干し柿をもって入定塚へと入った。

塚の中からは十四日くらい念仏の声がしていたというが、大山詣りの道者が通りかかり、足元へ出てきた小蛇を息抜きの竹筒の中へ入れたところ、たちまち念仏の声が消えて往生したという。

『伊勢原の昔し噺』
(伊勢原市教育委員会)より要約

追記

伊勢原市の沼目から県道44号線を東へと進むと見渡す限りの田畑となるが、これが八丁耕地の名残であり、その昔は沼のようで舟で渡ったというところ。ここに、少し毛色の変わったこのような伝説がある。

今は東西の舟つなぎ松もなく、この東松の弁天は浮島弁財天といったが、これもない(小鍋島の八幡神社に合祀)。東円寺はあり、この昔話が掲げられていて「舟つなぎ松跡」の碑がある。伝説そのものは浮島弁財天の縁起(沼目の旧家が所蔵)にあるものがもとだと思う(原文は未見)。

そのような伝なのだけれど、ひとつひとつのモチーフは珍しいものではないが、こういったつながりで全体が構成されている話はちょっと類例が思いつかない。神仏に祈願して授かった子が蛇だったというのは多くある話だが、それが殺した蛇の因縁だという方向で語られるのは珍しいのじゃないか。

ところで、この話は浮島弁財天縁起をはなれて広く土地で語られてきたもののようで、老人クラブより募った話をまとめた資料や、地区の民俗調査報告書には細部の異なる話が見える(「沼目の入定塚」)。重要な構成要素の由来が前後する傾向が強く、難儀だ。

一方、「舟つなぎ松」という話では大きく筋が異なっており、堤(道路)を築こうとする・夜白蛇が壊す、というのは同じだが、これを解決しようとしたのが「ある美人」であり、彼女が入定することにより蛇の障りを取り除いたのだと語られている。

さらには、古賀のわたしを渡った先の平塚市側でも同様の話が語られるのだが、堤を壊す蛇、という点は同じだけれど、最後にはその蛇が人々に協力して堤を造り上げる、という筋に変わっている(「こがの渡し」)。これも参照しておかれたい。

ちょっと他で見ない筋、というのはややもすると複数の伝説が連結した結果であったりするのだが、よくよく慎重に扱いたい話だ。