古賀の渡しのはなし

原文:神奈川県伊勢原市


何でも永正の頃の話だと言うから、小田原の北条早雲が岡崎の城を攻めた時分のことだろう。その頃は八丁耕地のあたりは古賀の渡しと言って葭の原っぱで、東円寺のあたりから車橋の弁天さんのところまで、舟や筏で渡っていたのだそうだ。ところがこの古賀の渡しは大山詣りの街道だから、旅人にとっては何とも不便であった。

これを見て何とかしてやろうと思ったのが沼目に住んでいた夫婦ものだった。もう四十にもなるっていうのに子供もない。せめて大山詣りの人の難儀でも救ってやりたいと思って、大山のお不動さんへ願をかけた。大山詣りの人の難儀を救うため古賀の渡しへ土手を築いて参詣道をつくるから、ぜひ子供をさずけてほしいと。根が律儀の働きもので、貯えもあったから、人夫を集めて土手を築き始めたところ、昼間作っておいた土手が夜のうちに何者かに崩されてしまう。何回やっても同じことだ。

いまいましい奴だ、ひとつつかまえてやれと、夜になって見回ったところ、白い三尺(一メートルほど)ばかりの蛇が尻尾をふっている。蛇が尻尾をふるたびに土手が崩れて流されてしまう。毎晩悪さをしていたのはこ奴かと、この蛇を打ち殺して三つに切って東岸の舟つなぎ松の根元へ埋めてしまった。それからは夜になっても土手をこわされることもなく立派な道が出来上がったそうだ。

道が出来上るとともに女房が身ごもって、やがて玉のような男の子が生まれた。夫婦の悦びは一通りではない。家の中の玉のように大事に育てていた。

西の舟つなぎ松の下には茶店ができて、おじいさんが菓子やすしを大山詣りの人に売って暮らしていた。男の子は大そう笛が上手で毎日笛を吹きながらこの茶店へ来て、菓子やすしを買って楽しく遊んでいたそうだ。

ところがこの子供が十二の時、ふとした病気がもとで亡くなってしまった。夫婦はひどく悲しんで、ある時この茶店を尋ね、毎日毎日ここへ来て遊んでいたうちの倅もふとした病気で亡くなってしまったことを泣く泣く話した。茶店のおじいさんはそれを聞いてびっくりして、「そんなことはねえ、あんたのお子は毎日笛を吹きながらここへ遊びにみえるが」と言う。

夫婦はそんなはずはないと思ったが、おじいさんの言うこともまんざら嘘とは思えない。「それなら明日の朝早くここへ来て待っていて見なせぇ」
と言うおじいさんの言葉に、そのあくる日、夫婦は朝早く起き出し、茶店へ出かけて奥の一間にかくれて待ちうけていると、四ツ時と思われるころ、死んでしまったはずの男の子が茶店へ入って来た。夫婦は驚きながらなお様子を見ていると、茶店のおじいさんが子供に「なぜ今日は笛を吹きなさらねえ」
と聞くと男の子が答えるには、
「今日は因縁があるから笛は吹けぬ」
と言ったかと思うと、子供の姿は三ツ切りの蛇の姿となって消えてしまった。

夫婦はびっくりして三つ切りの蛇を埋めた東の舟つなぎ松の根元へ祠を作り、一寸八分の弁財天をまつり、古賀の渡し浮島弁財天と崇め、また西の舟つなぎ松のところへもお寺を建て、長堤山東円寺と名づけた。

夫婦は一旦男の子を授かりながら小蛇を殺した障で、このような報いをうけた因縁の恐ろしさに、干し柿と水をもって入定塚へ入った。塚の中へ入ってから十四日くらい念仏の声がしていたというが、大山詣りの道者が通りがかり、足もとへ出て来た小蛇をつかまえ、入定塚の息抜きの竹筒の中へ入れたところ、たちまち念仏の声がと絶えて往生したということだ。この入定塚は西沼目の俵久保にあったが、いまでも塚の碑が残っているという。浮島の弁天さんは、今では小鍋島の八幡さんに祀ってあるそうだ。

それからというもの、西の舟つなぎ松は、親子縁切り松と言われて、縁談、嫁入り婿取りの時は決して通らなかったものである。

(註)沼目の青木家に浮島弁財天縁起が所蔵されている。

『伊勢原の昔し噺』
(伊勢原市教育委員会)より

追記