田道翁

神奈川県大和市


深見神社は田道小弥麿なる者が祀ったという伝がある。死後小社に祀られたというが、仏導寺が建立される前、そこに草庵があったといい、それが田道翁を祀った小社ではなかったかと思われる。相模国古風土記にはつぎのようにある。

天智天皇の頃、田道という翁があり、草木や海苔を食べ穀類を食べなかった。田や畑を貧しいものに分け与え、一生妻子を持たず、九十歳余りで死した日、村中に異なる香が満ち、その姿は青瑠璃のようになった。里人は小社を建て祀り、引きも切らず詣で、これが今も続いている、と。

深見神社の隣に堰の土取場の高台があり、その上に塚があった。大正八、九年の堰普請で土を取ったとき、骨や土器などが発掘され、大騒ぎになった。骨や土器片は川に流され、形のあったものは大和小学校に保管されたが、その後問い合わせるともうないという。

『大和地名考』富沢美晴
(神奈川新聞社出版局)より要約

追記

大和市の総鎮守であり式内社である「深見神社」にまつわる伝説。「古風土記」というのは寒川神社に伝わった文書にある「相模国古風土記残本」(元禄〜宝永頃の地誌の断片)と思われ、奈良時代の風土記の逸文などというわけではない。

それにしても、闇龗神の社であるという深見神社の創始が田道なる人物によった、というのは見逃せない話だ。田道といえば蝦夷討伐に赴くも死してのち大蛇となったと『日本書紀』にある人物だが、上毛野氏であったということから上州にも伝説があるし、なぜか上総市原にも伝があった。

深見の田道翁がどのような人と意識され上のように書かれたのかはわからないが、将軍田道の意を引いているのだとしたら、そこにも竜蛇にまつわる社との感覚が含まれているのかもしれない。